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関東大震災映像デジタルアーカイブに寄稿しました。

 関東大震災映像デジタルアーカイブに、コラム「目の記録、聞こえない声―関東大震災の映像記録によせて」を寄稿しました。
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/columns/c10.html

関東大震災映像デジタルアーカイブ
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/

 今回、はじめて「震災の映像記録」をまとまった形で見ました。
 地震発生から約5日間。震災を経験した人びとの姿が、その表情やまなざしの気配と共に残されていたことに、強い衝撃を受けました。
 「5日間」と言えば、火災が下町を焼き尽くし、朝鮮人などへの殺傷が最もエスカレートした時期に重なります。例えごく一部の場面であっても、この時間、カメラが回っていたことの意味は重いものがあります。
 
 本コラムでは、映像記録を「イメージ」として読むのではなく、まずは実際に何が起きていたのかを指し示す「記録」として、どこまで読めるのかを試そうとしました。
 著作権という制度が未熟だったこの時代。オリジナルと複製、一次データと編集物の関係が迷宮のように入り組んでいます。そこで、文献で背景を補える映像を中心に、「震災当日」の状況に迫りました。
 
 具体的には、1970年代、地形学者・貝塚爽平が示した議論を参照し、震災全体で最も早く出火した地区の一つ・神田今川小路界隈、そして、浅草の対岸で約160人の犠牲者を出した有数の犠牲集中場所の一つ・北十間川の枕橋界隈を取り上げました。
 貝塚の議論とは、関東大震災時の東京で、住宅の全壊率が高いエリア、引いては出火点が集中し、犠牲者の多かったエリアは、軟弱地盤の沖積層が-20m以深に達する本所・深川などの江東低地と、地質学で「丸の内谷」と呼ばれる沖積層の基底が窪んだエリアに一致するという学説です。
 注目した神田今川小路は「丸の内谷」、枕橋は「江東低地」と重なるエリアにあります。貝塚が地形学をもとに指摘した被害の構造と、現実の被害状況はぴたりと対応しています。
 
 この重要なエリアの様子を、9月1日、午後3時前ごろ、九段坂の上から下町方面を見下ろした東京シネマ商会のカメラ、そして、同日午後4時ごろ、吾妻橋の西詰から燃え盛る大日本ビール工場(現アサヒビール本社)を映した、同商会のカメラが捉えていました。

クリップ:火災炎上中の神田方面を望む
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/clips/m01_005.html
クリップ:吾妻橋から大日本麦酒工場の火災を見る
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/clips/m01_008.html
出典:「関東大震大火実況」
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/movies/m01.html
(クリップ:火災炎上中の神田方面を望む 00:03:45-),
(クリップ:吾妻橋から大日本麦酒工場の火災を見る 00:05:15-)

 東京の中枢が、隅田川河口の軟弱地盤の上に成立し、その土地が、南海トラフと日本海溝というプレート境界から至近の地盤の上に乗っている構造は変わりません。
 カメラマンたちが、偶然と決断の連鎖によって撮り溜めた映像記録は、東京が、東京であるかぎり抱え込む災害脆弱性/vulnerabilityの露呈した瞬間の姿を、正面から捉えたものになっています。
 
 サイレントの映像に、壊れいく都市の風景と人の姿だけがあり、声はありません。
 その「聞こえない声」の向こう側を、想像するために。
 震災100周年の夏は、残された記録と向き合う作業に没頭しました。一読いただければ幸いです。

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コラム「目の記録、聞こえない声—関東大震災の映像記録によせて」掲載ページ
クリップ:火災炎上中の神田方面を望む
クリップ:吾妻橋から大日本麦酒工場の火災を見る
貝塚爽平の著書『東京の自然史 増補第二版』紀伊国屋書店、1979年

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