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連載 関東大震災映像デジタルアーカイブ・こぼれ話 第2回―開発災害としての関東大震災

 関東大震災映像デジタルアーカイブにコラム「目の記録、聞こえない声―関東大震災の映像記録によせて」を寄稿しました。
https://note.com/shitaya_office/n/n364458d8b4fc
 
 5回の連載で、コラムに書き切れなかった、「こぼれ話」を紹介します。
 第2回は「開発災害としての関東大震災」です。
 
 関東大震災では、本所区・深川区などの「江東低地」、神田区の今川小路から神保町、猿楽町あたりの「神田西部」、下谷区龍泉寺から吉原、山谷あたりの「浅草北部」という3か所の犠牲集中地区がありました。
 これらの地区では、住宅の全壊率が高く、出火の多発地帯と重なっています。コラムでは、こうした住宅の全壊率の高いエリアが、軟弱地盤の沖積層が20m以上に達するエリアと一致することを示した、地形学者・貝塚爽平の議論を紹介しました。
(「浅草北部」の軟弱地盤について明示的に触れていませんが、これについては、縄文前期ごろの海面上昇で成立した「奥東京湾」との関係で説明できます)
 
 つまり、関東大震災の被害は、根本的には、東京という都市が、広義の利根川水系によって運ばれた、軟弱な沖積低地の河口部を利用しているという構造に由来します。
 物流・経済のインフラである海の入り江、河口部の平坦な土地は、経済的には便利ですが、軟弱地盤の深いところは、当然不安定で、一旦激震に襲われれば、家屋は倒壊します。特に地域全体が軟弱地盤の上に、明治以降、大工場が立地して都市化を進めた本所・深川の江東低地は、東京市内の約85%の犠牲者が集中するという徹底した被害を出したのです。
 関東大震災は、明治以来の「開発」によって、膨大な被害を出した災害と言えます。
 
 後藤新平たちの進めた「復興」は、そうした災害危険地域に公園、道路などの社会インフラを作った面がありますが、それ以上に、「近代都市」に生まれ変わったというストーリーが強すぎて、返って、東京が本質的に「弱い地盤」の上に立っているという事実を、忘れさせる方向に向かっていないでしょうか?
 
 東京が東京である以上、震災は何度でも起きます。
 激震の地域には、激震が訪れます。
 カメラマンたちの映像は、わたしたちの野生の感覚をゆさぶって、その事実を教えてくれる歴史的な記録と言えます。これからも、折りに触れて、何度も。「デジタルアーカイブ」をふり返りましょう。
 
火災炎上中の神田方面を望む(9月1日13~15時ごろ)
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/clips/m01_005.html
吾妻橋から大日本麦酒工場の火災を見る(9月1日15~22時ごろ)
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/clips/m01_008.html
出典:「関東大震大火実況」(00:03:45-, 00:5:15)
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/movies/m01.html
 
コラム「目の記録、聞こえない声―関東大震災の映像記録によせて」
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/columns/c10.html
関東大震災映像デジタルアーカイブ
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/

貝塚爽平『東京の自然史 増補第二版』紀伊国屋書店、1979年.

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