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『擬娩』俳優レポート|三田村啓示

したため#7『擬娩』(2019年12月)の出演者に、『擬娩』という作品の経験についてレポートを書いてもらいました。執筆時期は2020年の年末から2021年の初頭、上演からちょうど1年が経ったころです。その後、『擬娩』は2021年秋にKYOTO EXPERIMENTにて再創作版が製作され、そして来る2023年2月には東京での再演が計画されています。
三田村啓示さんは、2019年の『擬娩』初演に出演され、また、2023年の再演にも参加してくださいます。


『擬娩』俳優レポート|三田村啓示


photo: Yuki Moriya

 気づけばかれこれ20年ほど俳優という立場で演劇に関わってきたが、あれは一体何だったのか、と折に触れて自身の中で振り返る公演がいくつかあり、したため「擬娩」も私にとってそういう公演だったと思う。思えば激しく移り変わる時代にわずかに先駆けた感もあれば、その所為か、未だに自分の中で新たな発見のある作品であるし、改変/拡張の余地はまだあるのではないか、未知の鉱脈がまだ眠っているのではないか、とも感じさせる作品でもあった。
 ところで私は俳優という立場で演劇に関わることが殆どなのだが、稀に(最近はとんとご無沙汰だが)演劇作品に関するレビューめいた文章を書くことがある。しかしながら、自身が出演した作品について記述するのはやはり難しいもので、このレポートも内部関係者の主観と客観のあわいを往復するもの、或いは私的なエッセイとレポートのあわいを揺れ動くものになることを先に記しておく。

photo: Yuki Moriya

 この作品が上演されたのが遥か昔のようにも思えるのは、世界が新型コロナウイルス感染症の拡大に見舞われた2020年以前、2019年の上演だったからだろうか。文化芸術は不要不急か不必要か、文化芸術活動に従事する人々の多くにとって2020年という年は、その問いに改めて直面した年なのではないだろうか。舞台芸術も、そして私が主に従事するいわゆる小劇場演劇という形式もその形式故に様々な困難に見舞われ、その渦中で外部からそして内部でも様々な問いに晒されていた。芸術を止めるな演劇を止めるなと果たして私は声高に言えるのだろうかと思っていた。その規模に関係なく演劇は本当にお金にならないんだなーと改めて認識した。自分は俳優でもなくアーティストでもない、かといって大衆でもない、中途半端な時給労働者兼在野演劇人としてやっていく(そしてどこまでやっていけるのか)ということをひっそりと引き受けようとこっそりと思っていた。 

photo: Yuki Moriya

 そんな中、私は「擬娩」でやっていたことを思い返している。あれは「役に立った」、或いはこれからも「役に立つ」、それは演劇をやっていく上で、というよりは私の生において、私が女性性といかに関わっていくかにおいてだと思う。情けない話だが、生理やつわりや出産にいたるプロセスの大変さを改めて知った、いや、知識・情報として何となく知っていたような気がしたものが、身体知として腑に落ちた(ような気がする)、または知っていたような気がしていたものについて、本当は全然知っていることになっていなかったことに気づいた、というべきなのかもしれない。私は他者としての女性性に出会い直し、他者だからこそ尊重すべきだということを改めて思い知った(ただ、こうやって書きだすといかにもきれいごとの文面であるし、その意味を継続して問い続ける必要があると思っているけれど)。そして、文化芸術は公の役に立たなければならないという視点、公の役に立つのだと自らを証明し続けなければならないことについて、私はそんなに素敵なことだとは感じられないのだけれど、実際の分娩経験者や女性出演者から徹底的に話を聞き、関連資料で得た情報をシェアし、それを「やってみる」この作品の創作プロセスを経て、私は演劇を含む文化芸術は不要不急ではないが、これからの社会に必要であり、有益だということを1年以上経った今改めて実感している。この私ではない誰か(の状態)をやってみる、或いはやってみようとして失敗するという原初的な演劇のロールプレイ経験は、作品として誰かに観せるためだけではなく、私たち自身と社会のためにもっと放流されてもいい。そしてもしかしたら、表に出た実際の「演劇作品」よりこのプロセスにこそ、この作品の「役に立つ」本質があるのかもしれない。経験者たちのいわばレクチャー・パフォーマンスを観る→そしてそれを自分たちでもやってみるということ…思い返せばこの作品における私たち俳優は、稽古場ではまず最初は観客であった。そして観客だった私たち俳優は舞台上で、あの経験者たちのように実際に妊娠も出産もしたわけではなかったが、そこに向かっての無謀な跳躍があったはずであり、同時に私たちが全ての事象の当事者にはなりえないように、何らかの断念もあった…はずである。何がしかの「役」の代理表象までいかなくとも、この私がこの私を手放さずに(或いはこの私はこの私でしかないという断念とともに)この私ではない何かに近づいていく経験を(も)、演じると言うのだとしたら、演劇という経験はこの私がこの私以外の人々と共に善く生きるための実践及び思考の場として、もっと放流されてもいい(コミュニケーション能力なる即戦力の技術として以上に)。擬娩という習俗の演劇性ともいうべきものが決して俳優という職能に紐づいたものではなかったように、演劇もある経験を分け合う機能として万人に開かれうる。

photo: Yuki Moriya

  一方で私は、この作品が取りこぼしたものは何だろうとも考える。むしろ創作の半ば頃から、作品中で妊娠・出産に関わるすべての事象を扱うことは不可能なことであるということをうっすらと認識していたと思う。高嶋慈氏の言及(https://artscape.jp/report/review/10159403_1735.html)の通り、あのラストシーンは、この私のからだに起こる生物学的極私的事象とそれにまつわる様々な社会的事象のぎりぎりの結節点を示さんとしたが故の唐突さではあった。終盤この作品は、志賀理江子のテクストの力も借り、妊娠・出産のポジ面を目の当たりにした、保守的言説に回収されかねないほどのシンプルでエモでスピリチュアルな高揚というものに満ちていたと思う。しかし創作の過程でからだを経てそれを取り巻く社会に接近しようとしていたこの座組は、社会を避けきれなかったし避けなかったのではないだろうか。ラストシーンの「産めよ増やせよ…」のマントラ(?)はあのからだの高揚を相対化せんとする無意識の批評的抵抗(或いはこれは演劇に過ぎないとして俳優たちが我に返るための儀式)としてあの時は機能していたようにも思え、それは必然だったのかもしれず、今後改変/拡張するとしたらそのあたりなのかもしれない。

photo: Yuki Moriya

 言うまでもないかもしれないが、妊娠・出産のネガ面(という言い方が適切なのかはわかりかねてしまうが)について向き合った場合、この作品はまた少しその形を変えるのだろう。そして個人的なことと政治的なことを複雑に繊細に交錯させざるをえなくなるだろう。例えば、生めない/生まない/生みたくないなどを、この作品はこの枠組みでどこまで扱えるだろうか。仮にそこに足を踏み入れるとき、そこには無限の鉱脈が広がっている気がしてならない。 


したため#8『擬娩』
日程
|2023年2月9日(木)~12日(日)
会場|こまばアゴラ劇場(〒153-0041 目黒区駒場1-11-13)


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