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DayZの魅力に透けて見える「生きる」とままならぬ欲望の行使と現実逃避とゾンビと私(前編)

ここでは前提として
・電源を要し
・卓越した演算性能によって描出される体験
を「ゲーム」と称する。


DayZと言うゲームは、何を満たすか

もしも僕がゲームに何を求めるかと言われれば、その骨子は「現実逃避」だと答える。なぜゲームで逃げるのかと言うと、高度に発達した世界において進化論の如く多様化した願望や欲望を、或いは生命体原理主義的な本能の欲求を、一般的な収入や余暇などしか持ち合わせない人間でも、社会規範や法律を犯すことなく存分に充足できる時空が、専ら虚構の世界に属するためである。

こんな書き方をすると、倫理観に著しく悖る異常性癖の類いや戦争を止められない人類に対する諦観の如き暴力行使の正当化、そんな話の展開になってしまいそうなので単刀直入に先へ急ごう。

DayZと言うゲームで満たされる欲求は2つ。

①生きること
②殺すこと


である。

虚構における「生きる」と「殺す」について

無論、大方のゲームにおいて「生きること」と「殺すこと」は今更特筆するまでもなくほぼ必須のメカニズムの2つとしてゲーム設計の根っこのほうに深く組み込まれている。その深さたるや、プレイヤーは何の疑問ももたずエネミーを殺害しこれを抹消することで快感を覚え、その機会を最大化するために(或いはそれこそ何の疑問ももたず)少しでも長く生きながらえようとする。

しかし、昨今頻繁に感じるゲーム内の「生きる」と「殺す」は、果たして本当に我々の知る、或いは求める「生きる」と「殺す」だろうか。話をこと「武器を使って」「MMOな舞台で」「殺し殺されを繰り返す」と言う構造——命のやりとりがもっとも直感的に把握しやすい構造のゲームに限って言うならば、本来、生命体にとって最も重要な関心事である「生きる」と「殺す」は極めて希釈され希薄になり、もはや現実世界のそれとは別種とも言える概念に変容している。ように思われる。(それってあなたの感想ですよね対策)

YouTubeのアルゴリズムに見る、繰り返される生死へのインセンティブ

それはなぜか。YouTubeのアルゴリズムにおいて何が最も重要視されている(と言われている)かを想像してみると理解は手っ取り早いと思う。YouTubeと言うサイトは主に動画にくっ付いた広告で収益を上げている。そのため、YouTubeのアルゴリズムは動画の中身そのものや個々人がそれぞれ感じるであろう価値ではなく、視聴者がどれだけその動画によってYouTubeと言う場所に留まってくれたかを重視する。

先程のようなゲームには、明白な終わりを設定しづらい。例えば10回殺されてしまうとゲームが終了してしまったり、反対に10人のプレイヤーを殺害できたらゲームから解放されてしまったりすると、そこでゲームの価値が終わってしまう。殺せば誰かを終わらせ、殺されれば自分が終わってしまうリアルの人生とは対極的だ。ではどうするかと言うと、少しでも長くそのゲームに価値を感じてもらうため、ひたすら「生きる」と「殺す」を繰り返させるのである。

APEXなんかはその最たる例で、無料で誰もが戦場に参加でき、繰り返されるキルの快感とデスの興奮で試合の中毒にさせ、それを彩る要素に課金させることで収益を上げている。良い意味でとてもYouTube的だなと思ったりもする。

スピーディに繰り返される生死がもたらす新地平

しかし、ここで問題があるとすれば、本来「命」とは唯一一回の現象である、と言う点である。限りなくスピーディーに繰り返される「生きる」と「殺す」と言うサイクルと、数値の変動(APEXで言うRP)と言うデメリットこそあれど、むしろこれを回転率の底上げでねじ伏せられること。そこに「命あっての物種」的な物の見え方はない。現実から乖離した挙げ句、敢えて意地の悪い言い方をすると、私のような指先弱者からしたらガチャにも似た死生観すら感じてしまう。

それが悪い、間違っている、と言いたいのではない。むしろ、APEX的なゲームは人間の死生観に何か新しい見地をもたらすかもしれない。それによって現実世界に価値観の逆輸入をもたらすかもしれない。もはや生死すら超越したステージにおいて技量や精神性をひたすら研鑽し続けるゲームには、新時代の武道とでも言い表せそうな力強さと美しささえ感じるかもしれない。

しかし、私が言いたいのは、私自身がゲームに求める「現実世界で満たされない欲求の充足」と言う観点からすると、現実から輸入したのちゲームそれ自体によって変容してしまった虚構世界由来の欲求の充足ではDayZと言うゲームの魅力と底力を伝えきれない、と言うこと。

現実を模倣しようとする虚構がたどり着く1つの「重さ」

では何か。一度デスしたら二度とゲームが起動できなくなる。そんなのが理想なのだろうか。まぁ、そう言う振り切ったシステムはそれはそれで局所的だが強烈な需要を発生させるかもしれないが、何事もバランスである。言い換えればただのワガママだが、その代わりそのワガママを理想に近い形で答えてくれる対象に、僕は、人は、アホのように熱中してしまうのである。

なんか、初めての記事と言うことで気合いを入れて書いていたが、どんどん本筋から逸れていくような感覚がしてきたので、そろそろ話の舳先を元に戻そう。……えっと

そうそう、DayZである。DayZには「一度デスしたら二度とゲームが起動できない」と言うようなハードコアな仕様は存在しないが、僕がこの記事で再三繰り返した「生きる」と「殺す」の二要素を、平均的なゲームでは敬遠されてしまうであろう重さで楽しむための仕様がいろいろ盛り込まれている。

DayZが「重い」と言われる所以

平均的な生存者の日常

まず、DayZを起動すると、プレイヤーは広大な大地の沿岸部に着の身着のままでスポーンする。ひたすら道を歩き、

(とにかく広いので街から街への移動時間だけで普通に数十分が経過していたりする)

村や街に到着したらひたすら物資を漁る。

(概してとてもしょっぱいので数十分かけて丁寧に探索した結果、必要なものはほとんど見つけられなかったと言うのは極めて日常的なことである)

そして、それをひたすら繰り返す。そういうことをしているプレイヤーが最大60人おって、もしも他プレイヤーから殺害されたり、或いは空腹や喉の渇きや病気を癒やせなかった結果として減少HPがゼロになって死亡すると、苦労して集めた持ち物を全てその場に残して着の身着のままで沿岸部にリスポーンする。

回収も不可能ではないが、沿岸部だけでも既に充分広大な上にリスポーン地点は毎回ランダムなため、意地でも回収しようものなら大抵は再び数十分ほど歩き続けることになる。死んだ場所が内陸の方だったら更に時間がかかる。そしてもしもあなたが誰かからキルされた場合、その誰かはあなたの死体をそのままスルーしてくれるだろうか……。

どれだけ足掻いても あっけなく死ねる

それら一連の出来事がとてもゆったりとしたスピードで展開される癖に、キルだけは運が悪いと嫌になるくらい一瞬である。何が言いたいかと言うと、大げさに言うならば、少しでも長く生き延びるべく慎重且つ丁寧にプレイを続け、数時間——いや、数十時間と言うこともあるだろう。食料のストックもたまり、腹を下さない飲料水が入ったペットボトルもあって、もしかしたら発砲の機会があるかもしれない拳銃なんかも手に入れて、ようやく俺もいっぱしのサバイバーの仲間入りかなと満ち足りた気分で歩いていると、肉眼では視認できないほど遠距離で虎視眈々と狙撃銃を構えていた上級者にこめかみを撃ち抜かれて、そのたった一発で数十時間がなかったことになって、また最初からなのである。

そんな大げさに言わないまでも、まず都合良く食い物や飲み物が見つからない沿岸部を数時間かけて歩き続けた挙げ句そのまま死ぬか、喉の渇きをどうにかしようと生水を飲んでコレラになって死ぬか、かろうじて見つけた食べ物で食いつないでいた矢先、ちょっとした不注意でゾンビに囲まれてなすすべもなく死ぬか、雨に濡れて風邪を引いて、それを拗らせてインフルエンザになって死ぬか。可能な死因を挙げれば枚挙に暇がない。
プレイヤーはシビアなルールの中、常に死の恐怖に怯えることになる。
不条理だ。
あまりに不条理である。
しかし、完全な不条理ではない。
様々な死因に対して、様々な対策を講じることができる。無論、親切なチュートリアルなど存在しないので、ネットで先達が書き残した情報を検索するか、或いは文字通り命を賭けたトライアンドエラーを重ねるしかない。

そりゃ多少の不運で為す術もなく死んでしまうこともままあるが、絶対に死ぬことを回避できないゲームがゲームとして欠陥品であるのと同程度に、絶対に死ねないゲームもまたゲームとして欠陥品であるのだ。

ちなみにネットで調べた所、全ユーザーの平均生存時間は27分だそうだ。
(本作がリリースされた経緯については割愛するとして、この数値は言うなれば古いバージョンのもので、現在の平均生存時間はもしかしたらもう少しだけ長いかもしれないし、一級品の殺人鬼が複数人リスポーン地帯である沿岸部で血を求めて徘徊している場合や、生きるための足掻きを完全に放棄して無鉄砲に行動している場合でもない限り、むしろ死への猶予は嫌らしいほど間延びするような気がする)

DayZに引き込まれる所以 それはいのち

それでも……
DayZを始めた頃と比較して少しずつしぶとくしたたかに生き延びられるようになった時、昨日よりも長く与えられた命の長さが、単純に、もしかしたら本能的に、ひたすら嬉しいのだ。仮に他のプレイヤーが僕ほど単細胞でなかったとしても、長く生きていられたと言うことは、様々なリスクを知識と技術で切り抜けた証拠であり、それと同時に様々な物資を上手に漁ってこれを収集できた訳であり、その充実感たるや並大抵のゲームでは味わえない種類のものだろう。

話は少し、現実世界に戻る。
現代社会では、生きることが前提となっている。生きて、何をするか。そればかりが尋ねられる。それは文明が偉大なる先人達によってたゆまず進歩を続けた結果として死の危険が日頃意識しないで済む距離にまで遠ざかったのであり、言うなれば文明の恩恵である。現代人は不条理な死によって不当に残り時間が末梢される恐れも不安もなく、人生と言う与えられた時間を建設的に活用することができる。

これは無論、よろこぶべきことだ。私は安全と言う特権の上にあぐらをかいているだけに過ぎず、この地球上にはまだ戦争だったり貧困だったりで死の恐怖を身近に感じている人もいるし、今日の我が国とて不幸と呼ぶより他にない事故によって命を落とす人もいる。だから、ここから先のことをはっきりと明言すると場合によっては「不謹慎」「不適切」と思われかねないが、それでもこれは僕の中に確実に存在した感情だったから迂回せずに書く。もし不快な気持ちにさせてしまったら申し訳ないが……

前提として「生きていられる」と言う現実世界が恐らく死ぬまで続くからこそ、
「生きて、何をするか」
よりも先にある
「いかにして生き残るか」
と言うテーマに、或いは欲求に、今一度立ち向かってみたいのだ。それを現実世界でやろうとしたら、めちゃくちゃな山奥にでもこもるか、或いは遠い海外を訪ねるか。でもそうなるとDayZなんかと比較できないレベルの不条理にだって襲われるだろうし、その難易度は遥かに高いし、しくじればリスポーンなどあり得ないパーマネントデス。残された人間達が決して癒えない悲嘆に暮れることだろう。だからゲームでその欲求を充足するのだ。語弊のある言い方をすれば、お手軽に。

生きていられただけで、あぁ良かった。と心底満たされる。
生き延びただけで、すごいことをした気分にひたれる。

そう言う、すごく基本的だけど、基本的過ぎる故に現実の日常の中では忘れがちな感覚をこのゲームは思い起こさせてくれるのだ。押し込めがちな「無我夢中で生きる」「ただ生き残る」という欲求の充足によって。

そして、僕はあたかも現実世界を軽視するかのような、と言うか現実逃避なんて言葉を使っている時点で若干言い逃れできない気もするが、ゲームはいずれ終わる。夢は目覚めるからこそ夢なのであり、エンドロールがやってこない映画が映画として成立しないように、ゲームもまたどこかで現実世界に帰らないといけない。そのとき、少しでも「満たされた気持ち」みたいなものを虚構からお土産の如く持ち帰れたなら、誰がゲームをただの「時間潰し」の「穀潰し」と責められよう。それは立派で建設的な「現実逃避」なのだ。

この言い回しはちょっと手前味噌すぎるでしょうか。
どうなんでしょう。

おわりに

さて、初めてnoteで記事を書いてみましたが、思いのほか長々と書いてしまいました。
しかし現時点では本記事の冒頭で述べた2点のうちの1点目についてしか言及できておりません。
2点目の「殺すこと」に関しては、後編に続く、と言う形をとらせていただきます。

ちなみに、DayZの実況動画を上げています。
良かったら見てみて下さい。

兄弟で生き残るDayZ
兄ひとりでDayZ

それではごきげんよう

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