隣の客はよく肉食う客だ。

今日の晩御飯は、「ステーキよ。」とママが言った。子どもたちは飛び跳ねて喜び、パパはご自慢のひげを触りながら、その様子を嬉しそうに見ている。

「ねぇねぇ!今日はなんのステーキ!?」と子供たちがママに尋ねる。

「ビーフステーキよ。」

そんなママに子供たちは「ごちそうだね!!」と喜びを爆発させるのであった。

でも、その「ビーフステーキ」とは一体全体なんなのだろう。

こんな朝早くから、辞書的な意味を考えたいわけではない。ちなみにだが、ステーキとは、「厚切りに切られた一枚肉を焼き上げたものを指す」らしい。なんとなくイメージはついていたが、これまでこんなに言語化して食べていなかったので、勉強になった。

でも今は、今日の晩御飯に実際に目の前に並ぶかもしれない「ビーフステーキ」がどこからやってきたものなのかをまず想像してみたい。

ママはその「ビーフステーキ」をスーパーの特売で買ったのだ。いつもは少しお高くて、手を伸ばそうか躊躇してしまうのが、「2枚入り計400gで700円」。これは買いだと購入を決める。

でも、そのスーパーもどこからか仕入れている。実際にそのスーパーの並ぶまでには、食肉市場で売り手の卸売業者と、買い手の仲卸(なかおろし)業者が売買し合ってから、スーパーに販売する。しかし、その卸売業者もまた「ビーフステーキ」をどこからか仕入れている。

今日はこの流通の話を考えたいのではないが、こうしてどこから来たのかを想像していくと、最終的には「牛」そのものにたどり着く。そう、私たちが普段何気なく食べているものは「牛」だったのだ。その「ビーフステーキ」なる何日か(いや、何十時間程度かもしれない)前は、「生きた牛さん」だったのだ。

なるほどね、今日は『牛の命について話』なのねと思うかもしれない。でも、今日は違うのだ。いや、この話もとても大切で、これから実際に「ビーフステーキ」、「ステーキと名の付くもの」、「肉」を食べる機会があったら、食べる前に一呼吸置き、この食卓に並ぶ一連の流れを想像してから食べるとよいと思う。するのとしないのとでは感謝の度合いが異なるだろう。私も行っていこうと思う。

話は逸れたが今は、その「生きた牛さん」について考えたいのだ。

その「生きた牛さん」は、いったいどこで生きていた牛さんなのだろう。そう、牧場だ。銀座の一等地で歩行者天国を歩いていた牛さんではないし、富士の樹海に住む野生の牛でもない。まぎれもなく牧場で育てられた牛である。そしてその牧場で育てられた牛は、牧場主のかわいい一人娘であるキャサリーヌ5歳のためにプレゼントされたペット用の子牛が成長したものでもない。「食べるために、人に食べさせるために育てられた牛」なのだ。

みなさんは、「食べるために生き物を育てたこと」があるだろうか。残念ながら私にはない。でも、これからもしそのような仕事に就くとしてら、どんなことが起きるだろう。「自分の作るお肉を食べて、人々に幸せになってもらいたい」と願う僕は、熱をもって先輩たちにきっとこう質問するだろう。

「いいお肉を作るためのポイントはなんですか!?」

そしてきっと先輩たちは優しく微笑み教えてくれるのだ。

「それは、餌にこだわることだよ。」と。

そうだ。当たり前だが、牛も餌を食べている。自分たちが成長するための栄養を摂取するために食べている。私たちが成長するためにお肉を食べるのと同じように、牛もたくさん食べている。

牛もたくさん食べている。その量が問題なのだ。牛は体がとても大きい。その体を維持するだけでなく、どんどん大きく、さらにおいしいお肉にするために一体どれほどの飼料を必要とするだろう。かさかさに乾いた餌を食べるだけではない。運動したらお水を飲むように、牛だって水を飲む。その量は計り知れないだろう。目の前にあるのは、200gのビーフステーキだが、そのビーフステーキを生むために、必要とされた地球の資源を今ここで考えておくべきであろう。

私はヴィーガンではない。お肉を食べているし、これからも食べたいと思っている。でも、このお肉にかかるコストについて知る前と知った後では、行動は変わってくる。そして自分が食べているものは、何なのか。そのストーリーを想像してみることは、行動を変えるだけでなく、これからの未来を描くヒントになるかもしれない。

少なくとも、未来の環境を語る日に、何も考えず「ビーフステーキ」を食べて、「これなら毎日食べられますね」という何とも場違いな発言だけはしないように心がけたい。

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