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怪談作家の憂鬱

 大学生の頃、マンスリーマンションに住んでいるKという友人がいた。
 Kの住むその部屋は当時の家賃相場よりいくらか安かったが、彼女は「駅からも大学からも遠いから」という認識で、さして気にしていないようだった。

 しばらくは何事もなく暮らしていたが、部屋に一人でいる時に肩を叩かれたり、誰かの声が聞こえたり、何もないところで重い物が落ちる音がしたりといったことが起こるようになった。
 しかし特に実害はないし、はっきり幽霊を見たわけでもない。彼女は極力気にしないようにして生活していた。

 それから少し経ったある日の深夜、Kはアルバイトを終えて自転車で家に帰っていた。
 帰宅するためには十字路を右に曲がるのだが、その日はなぜか十字路の真ん中に男性がいた。何をするでもなくただぼんやりと突っ立っている。

 こんな時間に一体何をしているんだろう。
 Kはやや警戒しながら男性に近づく。狭い道ではあったが、極力男性と距離を取って進む。
 だらんと下ろされた男性の左手を視界の端に捕らえつつ、震える足でペダルを踏んで何とか通り過ぎた。

 それからすぐに駐輪場にたどり着き、十字路を振り返るとそこには誰もいなかった。

 男性の横を通り過ぎてから数秒ほどしか経っていない。
 周りに隠れるような建物はない。
 Kには男性が消えたとしか思えなかった。

 そして次の日、昼過ぎに玄関を開けて外に出ると足元に盛り塩があるのに気がついた。
 よく見ると他の部屋の前にも置いてある。

 昨夜までは何もなかったはずだ。
 誰が置いたんだろう。
 一体何のために?

 怖くなったKは今度こそ……




 という話を一人暮らしの部屋で文章にしていた。
 その時。


 ――コトッ


 玄関の方から聞こえて来たその音は、まるでテーブルに小皿を置いた時のような音だった。皿の上に綺麗な山型に盛られた塩、それが私の部屋の玄関先に置かれる様を思い浮かべてしまった。

 盛り塩。部屋の四隅に盛り塩を置いて結界代わりにすると誰かが言っていた。いや、そもそも幽霊が部屋の中にいる時に盛り塩なんか置いたら幽霊と一緒に閉じ込められることになるんだよ、と別の誰かが言っていた。ピシッ。今の音は何だ。部屋の中から聞こえてきたようだ。まさかラップ音。もしさっき本当に盛り塩が置かれたのだとしたら、もし今のが本当にラップ音だとしたら、私は今、部屋に幽霊と閉じ込められているのではないか――

 もちろん盛り塩は置かれていなかったし、ラップ音ではなく単なる家鳴りだろう。
 しかしこれ以降、怪談を書く時の私は妙に音に敏感になってしまった。
 そのため、怪談執筆にはにぎやかな音が欠かせなくなった。怪談から離れた楽しい音であれば尚良い。

 最初は好きな音楽を流していた。
 しかしそれも、コーラスや外を歩く人の声などが混ざった時に、これは偶然録音されてしまった幽霊の声なのではないか、と疑い始め結局は余計に過敏になるだけだった。
(偶然録音された幽霊の声がどのようなものかというと、レベッカの「先輩」やかぐや姫の「私にも聞かせて」のような声だと言えばお分かりいただけるだろうか)

 そのような理由で、最終的にテレビ番組の音に落ち着いた。
 リビングのテレビでにぎやかなバラエティー番組をやや大きめの音量で流し、私はその隣の寝室で怪談を文字起こしして物語に仕上げていく。もちろんBGM代わりのテレビ番組であるため内容は全く頭に入って来ない。大勢の芸人さん達が面白い話をする番組でもいいし、意外と料理番組の音も楽しい。トントントンという野菜を刻む音やジューッという何かを炒める音が落ち着くのだ。

 著名なホラー小説家の中には「怪談を見聞きしているといつの間にやら怪に囲まれて身動きが取れなくなる」といった理由で、塩や日本酒風呂などのお祓い(或いはお清め)アイテムが欠かせないという方も多いそうだ。
 本来ならばそうやって定期的に怪を遠ざけた方がいいのだろう。しかし私の怪談集めは趣味の一つである。本業作家さんのようにどっぷり漬かっているわけではないので、祓うほどの怪も寄って来ないはずだ。

 何より、この国では粗塩や日本酒が手に入らないというどうしようもない事情があり、テレビを使ってお手軽に怖いものと距離を取るだけで満足している。



 ……ところで、最近テレビが勝手についたり消えたりする。テレビだけではなく水道もおかしくなったようで、触ってもいないのに勝手に水が出ていることがよくある。
 色んな部分がずさんな国だとは聞いていたが、こうも不具合が重なるのは本当に困ったものである。

(冒頭の友人Kの話は大阪で起きた実話です)

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