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「退職のご挨拶」

「退職のご挨拶」は面白い。仕事をしているとたまに何の脈絡もなく来る、見知らぬ退職者からのメールのことだ。もちろん面白いと言ってもfunnyではなくInterestingの意味でだ。退職のメールに抱腹絶倒するようなやつは倫理観が終わっているので組織に属するべきではない。退職すべきだ。

そんなことは置いておいて、まず量が人によって異なる。その量によって、退職に対する感情が出ているような気がする。思うに、前向きな退職者は饒舌で、後ろめたい感情のある退職者は寡黙な傾向にある(気がする)。また、勤続年数の長いほど、役職者であるほどその分量は長く、勤続年数の短いほど、下っ端社員であるほど短く淡白に終わる。必ずしもそうとは言えないが、寡黙な退職者の背後にある耐え難い出来事や辛い感情を想像して悲しい気持ちになる。彼らは既存社員の「ご活躍とご健勝」なぞではなく「ご不振とご病気」を願っている可能性すらある。でもそれはそれで、人間の生臭さが出ていてすごく良い。

そしてもちろん内容も異なる。特に、饒舌な退職者においてそれが顕著だ。寡黙な退職者は思ってもいないであろう感謝の言葉を淡泊に並べるが、”饒舌"な退職者には頻りに笑いをとろうとするお調子者もいれば、至極真面目に感謝と希望を語る者もいる。「私事で大変恐縮ですが」で文を始めた割には私事を喋りまくるので、一般的な人が考える”私事”の大部分を公事の範疇だと考えている可能性すらある。でもそれはそれで、人間の香ばしさが出ていてすごく良い。

色々述べてきたが、個々の文章なぞ比にならないくらい「退職のご挨拶」それ自体に圧倒される。一つ一つにも圧倒されるのに、それが断続的に複数届く。多くの人にとって、退職は大きな決断だ。是非は置いておいて、仕事が暗黙裡にアイデンティティの大部分を為さざるを得ない現代において、仕事を変えるという決断は自己破壊に近い。日々の大部分を仕事をして過ごすのだから文字通り生活は一変する。にもかかわらず、その知らせは多くの場合に文脈から完全に切り離された形で、自分には何の影響もないものとしてやってくる。通常の仕事のメールとは異なり、自分に向けられたものでも自分に関連のあるものですらもない。ただ只管に、”断片的に”やってくる。

「断片的な社会学」という本の冒頭にこんな一節がある。

いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの意味のなさ。
これは「何の意味もないようにみえるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」ではない。
私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界に一つしかないものだった。世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。

断片的な社会学

退職というものはその当事者にとっては重大な出来事だが、全くの他人にとっては意味をなさない。退職は珍しいものではないが、その一つ一つが少なからず誰かにとってはとてつもなく大きな意味を持つ。誰もが理解していることだが、それを実感する機会は少ない。「退職のご挨拶」は、その事実をとことん具体的に突き付けてくる。

だからどうということではない。そんな事実は文字通り”無数に転がっている”。ただ、何の準備もなくその事実を突きつけられると少し怯んでしまう。だって、同じように自分の人生も多くの人々にとって何の意味もなさない。気楽だが、やはり切ない。

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