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隅田川から見た「東京」

隅田川を見るのが好きで、よく隅田川テラスに行く。特に日が傾きかけている時間帯に、午後4時くらいに自転車でふらっと行くことが多い。川を進む船や、対岸に林立するビル群、ビルの隙間から差し込む斜陽の光に、その光を乱反射する揺らめく水面。そのすべての景色になんとなく安らぎを覚えるし、自分を客観視できるようにも思える。都市の喧騒とは無縁だが対岸には都市が見え、東京自体を外から眺めることで「東京で生活を営む自分」も外から見ているような気分になる。

今日も、隅田川を見に行った。カフェで作業をしようと外に出たのだが、一日中降っていた雨が上がり、雲も霧散し、西の空が綺麗だった。突発的に「隅田川を見たい」と思ってしまい、家に戻り自転車を飛ばして隅田川テラスに向かう。

「安らげる場所」としていくことが多い隅田川。しかしふと、安らぎ以外の感情が同居していることに気がつく。当然心は安らぐし、「ずっと見ていられるなあ」なんて思いながらベンチに腰掛けているのだが、何となく切ないような、悲しいような、感傷的になっている自分に気が付く。これはどういうことだろうと思案していると、少しだけ心当たりのあることがあった。
多分、理想と現実のギャップに、苦しんでいるのだと思う。「東京」は、憧れだった。全てがキラキラしていて、全てが楽しい。当然、暮らしている全ての人が「東京」を楽しんでいる。対岸のビル群に、憧れていた「東京」を重ねてみてしまっていたのだと思う。

現実は違う。実際に町を歩いているときに「東京」を意識することはないし、楽しいことばかりでもない。仕事は辛いし、休みも少ない。心の底から何も気にせず、未来に何の懸念もなく楽しめる時間なんて、わずかだ。楽しいときにも、現実はそこここに顔を出す。結局、「東京」なんてどこにも存在しないのだという事実を否が応でもつきつけられ、自分の夢が崩れていくようなそんな感覚に陥る。あるのは現実のみで、とことん具体的だ。抽象的な「東京」という概念は、現実には存在しないのだ。

でも、歳月を経て、東京で具体的に頑張る自分が好きになった。仕事を終えた後のビールは美味いし、ヒリヒリするような会議を乗り切った後の夜空は、星なんて見えないのになんだかいつもより綺麗に見える。つまらなくて、しんどいことばかりのはずなのに、一瞬の快さのためにその辛さを求めるようになってしまった。最初はあれほど嫌だった仕事が、癖になっている。そして、そんな自分を誇らしくも思う。
すっかり「東京」は生活の一部になってしまった。自分の中の「東京」は、抽象的な世界から引きずり降ろされて、自分を取り巻く具体的なものの一部になってしまった。
たぶん歳を重ねるって、そういうことなんだろう。抽象的に漠然と考えていたものがどんどん具体的になって、その度に失望して、またその具体的な何かに美しさを見出すのだろう。

対岸に見える東京。かつて抱いていたような宝石のような美しさは損なわれてしまったけれど、鉄のように堅実でより確かな美しさはそこにある。歳を重ねるのも、悪くない。

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