息抜き:理不尽な怪異譚にみる異様な感情

はじめに

活字中毒な私だが、趣味とも依存症とも言える行動がある。「まとめサイト閲覧」だ。匿名掲示板のダイジェストで、専用アプリまであるので、そこそこ需要があると思う。

私は普段、新聞やTVをほとんど見ないので、世間の動きをここから収集している。見たことや人物、内容の吟味は自分なりにしているが、よくよく考えたら私にとって「世間を知る貴重な情報源」になっている。

じつは偏見に満ちた情報も多く、悪影響もある。(例えば男女対立、低身長差別などで私もダメージを受けている)ので、一時期、見るのを止めたりしてたが、何度アプリを削除しても、またインストールしてしまう。

しかし、世界情勢からアイドル、事件、政治・経済、なんでもあるので、ある意味で、私には欠かせないものらしい。記事のネタも拾っているし。

ここ最近「発達障害」について重い話ばかりしていた。しかし今回、ある記事から、大好きな妖怪について語りたくなったので書いてみたい。

理不尽すぎる回避不能トラップ

まとめサイトから、妖怪を語りたくなった経緯にふれる。
アメリカ人が、ゲイ差別していることを揶揄する「まとめ」に次のコメントがあった。※ 私の発言ではないです。

「ゲイだと思われている男性がゲイを否定するとゲイ差別になる」

5ch「アメリカ人のゲイ認定基準が厳しい」

つまり、根拠が無いのに、疑いを掛けられ、否定しても正解が無い。認めたら自分でゲイだと名乗ることになるし、否定すると「差別」扱いではメチャクチャだ。(LGBTの話でないため細かい議論はよそへ)

この理不尽さ、何かに似ていると思った。ここから本編です。

妖怪「片輪車」

寛文時代の近江国(現・滋賀県甲賀郡のある村で、片輪車が毎晩のように徘徊していた。それを見た者は祟りがあり、そればかりか噂話をしただけでも祟られるとされ、人々は夜には外出を控えて家の戸を固く閉ざしていた。しかしある女が興味本位で、家の戸の隙間から外を覗き見ると、片輪の車に女が乗っており「我を見るより我が子を見よ」と告げた。すると家の中にいたはずの女の子供の姿がない。女は嘆き「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ」と一首詠んで戸口に貼り付けた。すると次の日の晩に片輪車が現れ、その歌を声高らか詠み上げると「やさしの者かな、さらば子を返すなり。我、人に見えては所にありがたし」と言って子供を返した。片輪車はそのまま姿を消し、人間に姿を見られてしまったがため、その村に姿を現すことは二度となかったという

Wikipedia 「片輪車」より

この物語、いろいろ思うところがあり、感情の持っていき場が分からない。異様な印象で、心に残る。私なりにまとめると:

近所に、夜な夜な、恐ろしい車の妖怪が出現しているが、それについて語ることすら許されない。興味本位で見(てしまっ)た女が、妖怪の捨て台詞と同時に、子をさらわれる。しかし、深く悔いた女の情が、はからずも妖怪に届いた。

「つみとがは われにこそあれ 小車の やるかたわかぬ 子をばかくしそ」
(獅子意訳:私こそが罰せられるべきなのに、ものも分からぬ子供が車に誘拐されてしまうなんて!)

という、美しい歌を詠み、妖怪の見えるところに貼っておいたのだ。

「戸口に悔い改めの御札」とは、なんか旧約聖書の「過越(すぎこし)」を彷彿とさせる。(※ 興味あれば検索ください)

…人をさらう妖怪ではあるが、人間の情け深さに打たれたのか、その歌を「声たかく読み上げ」た上、「なんて優しいんだ、子供は返そう。こうなっては誘拐も中止だ」と姿を消した。。。

美談のようで美談と言い切れない理不尽さ

この話を私が好きでたまらないのは、一見「悪者が出てきたが、愛というカウンターを食らって、反省して姿を消した」という美談に思える。が、よく考えると何もかもが理不尽で、どこか消化しきれぬ後味の悪さを持つことだ。

また、「愛」とか、なにか教訓を伝える意図がある寓話とも思えない。

Wikiによると、甲賀(滋賀)版では、片輪車の誘拐犯は「女」である。私見だが、このことも「反省」に関係していそうな気がして「すさまじきかな」と感じさせる部分だ。

どういうことかというと、この話、京都バージョンもあり、車輪の中央に「すさまじい形相の男の顔だけ」がある。ビジュアルも強烈だ。…「ヨコハマタイヤ」じゃねーか!

男だけあって、こちらはオチが荒っぽい。途中まで似た話だが、最後は「子供は足を裂かれて血まみれになっていた。片輪車がくわえていたのは、その子供の足だったのである」ということだ。

強引にまとめると。

・遭遇してもいけないし、噂しても呪われる理不尽さが妖怪らしい
・人に危害を加える妖怪に、性差がある
・性差のためかオチが少し違う

気持ちのやり場が分からない

私の考えすぎかもしれない。片輪車に「正解」は無い。存在を知った時点で負けなのだ。

それこそ、私のnoteを通じてこの話を知ってしまった方も、ある種の被害者だ。出会ったら最後、片輪車を検索したくなり、そのイラストを見たり、片輪車に心奪われることだろう。

きわだって異常なのが、オスメスどちらの片輪車も「我を見るより我が子を見よ」と、警告してくることだ。ド派手な登場をしながら「オイオイ、こっちを見ている場合か?」と煽ってくる。しかも尊大なので、どうしても気になる。

…妖怪だから、と納得するしかないが、理屈を求めると変になりそうだ。そもそもなぜ攫うのか?よく考えたら脚を食いちぎっているではないか。目的も意味がわからない。殺すために殺しているのか

話がまとまらない。

甲賀版、女の片輪車は、「さらわれた子供が、母親の機転によって戻ってきた」という救いがある。…本当に美談なのか?

考えてもみたまえ。片輪車は何者で、なんの目的があって、そんな酷いことをしているのか。「優しい者だなあ」と、反省したようだが、この誘拐犯のその後はどうなったのか。なにか腑に落ちない。もしかして悔いて死んじゃったのでは?

妄想が飛躍してしまった。話の成り立ちや、なぜ、琵琶湖近辺で、男女の誘拐犯が噂話になったのか。そこに興味がわいてたまらない。

今でいう、暴走族、DQN、反社…もしくは、子の無い夫婦が、自転車とかで、寂しさまぎれに子供をさらった?承認欲求おばけ?犯罪系Youtuberだろうか。。。男女あるのは、単独犯ではなく、じつはそういう夫婦の噂があったとか。片方が陽動作戦をしつつ、片方が攫う。

それとも、べつにインスパイアされる人物があったわけではなく、私みたいな物好きな人が、面白がって、口裂け女の噂みたいなものを流したのだろうか。

ともかく、この話を私は大好きらしい。


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