厨二病なのか、それともHSPというやつか

はじめに

現在48歳、言語性120の運動オンチ(動作性100)、発達障害当事者(ASD>>ADHD)二次障害で「双極性障害」が酷い。大腸がんサバイバ(切除済、再発なしだが後遺症で普段は寝たきり)。現・在宅ワーカー。元SE。

簡単な自己紹介

私は「情が深い」のだろうか

つねづね気になっていて、たまたまそれを深く考えるような出来事があったので、自分で考えつつ、読者の感想も伺ってみたい。

私は障害者で、ガン切って以降、身体的にも不自由になってきたのも重なり「いい歳」して実家を出られない。親と折り合いが悪いので、人々は、家を出ろというのだが、引っ越しって体力が必要じゃないですか。ADHDで異常に荷物が多いのと、もう夏の暑さに絶えきれず寝込んでばかりいるから無理なんだよな。。。

さて、今日も部屋から出られず居たところ、午前だったか、何やら家の前が騒がしい。特殊な車のサイレン音がする。何だろうと野次馬心で窓から向かいを眺めていると、救急車。向かいには独居の老婆、その隣は三世帯くらいだがやはり高齢の老婆が居る家だ。

単身高齢者の孤独死

いつも無駄話が長いので、今回、結論だけ書くと、真向かいの独居のおばあさんが、様子が変なのでその隣人が声掛けに行ったら、すでに数日前に亡くなっていたらしい。(ゴミの日なのに出しておらず、先週のゴミ出しもしていなかったと)

私は親からの又聞きだが、几帳面なおばあさんは「先週のゴミ出し日」にも出しておらず、結果的には(おそらくこの暑さで)すでにその頃に死去、暑いので遺体も腐敗してしまい「臭いがしていた」と隣人が警官に話してたようだ。

さて、私はその老婆と面識があり、家の真ん前なので、見かければ挨拶程度はしていた。また、老婆の夫(おじいさん)は確か去年ごろ既に病死されている。以降、その婆さんは(ちょっと飄々としてるから)夫の死をあまり気にしてるようにも見えなかったのだが、話し相手もおらず寂しいのか、涼しい頃などよく家の前をウロウロしていた。

婆さんには子や孫がいるらしいのだが、既に独立して別居しているからだ。なので夫の死後は完全に独居状態であった。たぶん寂しがりで、人懐こい人だと思うのだが、私は自分が病気で体力がなく、めったに外に出ない。自分の車に乗る時くらいしか彼女を見かけないわけだが、そもそも車に乗る時は用事があるため、なにか話したそうな婆さんに挨拶くらいは交わしても、あまり長話はしていない。

決して悪い人でもないんだが、耳が遠いようで、何度も聞き返されたり、私は体力がないので声を張って同じことを繰り返すとかがしんどいし、億劫である。たまに私がゴミ出しとか、車で出かける以外の「時間のある状態」で婆さんに出くわしたとしても、私は「耳の遠い老人」と関わるのはすごく苦手なので(繰り返すが、私は地声が小さく、性格からも大声出すのが嫌いなので)「寂しくて喋りたいんだろうな」と思いながら適当にスルーしてきた。

後で書くことと矛盾するが、私は意地の悪いところがある。この老婆は猫好きで、私もそうで、互いにそれぞれ猫と暮らしている。なのでべつに話題もあるし、婆さんは、私が庭先に居て、野良猫(ウチで地域猫としてエサやってる)が来たりすると、「おー野良がおるなあ」とかブツブツ言うのだ。しかし「私に話したくてそうしているのか態度も曖昧だから」(独り言とも私に直接とも判断しがたい微妙さで、「俺にいっているのか」という状況だと私はすごくイヤだ、ハッキリしてほしいのだ)それもあって、めんどくせえなと思ってスルーしてきた。

他にも、もうヨボヨボで、ときどき歩いて買物しているのも見かけた。私は先述の通り、体力がないので、たぶん一般の方が歩きか自転車で行けるくらいのコンビニでも車を使うし、自転車数分のスーパーも同じだ。その行き帰りなど、婆さんがヨロヨロ出かけて、私が帰る頃に、重そうな荷物をまたヨロヨロ持ち帰っているのを車で追い越したりしたこともある。

…果たして「挨拶程度の微妙な年寄りを、毎回のごとく私は車にでも乗せてやるべきだったのか」皆さんならどうしますか。(相手と特別に親しいというほどでない)

人が亡くなるということ

いつもの悪癖で、「本題となること」の前置きが必要以上に長くなってしまった。

今回、自問したり、他の人々がどうなのだろうか疑問に思うことがある。

私はわりと、人の生き死にについて「カンがいい」ので、誰かに何かあるときはわりとすぐピンと来る。今回、サイレンが聴こえたとき(向かいか斜向かいのどちらかの老婆が)「亡くなったな」とすぐ思った。時期や様子など総合して憶測していた。

窓から救急隊員などの様子を見ていたのだが、しばらくしてから、母親に詳細を訊いた。案の定、ということだった。

母に確認する前から、私はすごく悲しくなって、「ああ、なんで人は死んでしまうのか」「夫に先立たれさぞや寂しかったろうに」「よりによってこんな暑い時に孤独死し、遺体もボロボロとは」みたいなことを思って、自室で一人で嗚咽を漏らしていた。隣室には、私を虐待する父親が居るため、部屋で声を出しづらい。

そのあと、改めて母親に状況を確認にいくと、堪えきれなくなって私「だけ」ホロホロと泣いていた。「アア死んでしまうのは誰にでもあることだが、夫に先立たれ、自宅で独り、無念だったろうに(息子や孫が居ながら孤独死、遺体も腐敗では気の毒だ)」などと勝手に感情移入していた。

繰り返すが、先に書いたとおり、私は老婆をそんなに好きでもなければ、それほど親しくしていたわけではない。猫好き同士ということで、自分に余裕があれば野良猫を一緒に見て「可愛いねえ」と雑談くらいはしていたが、それ以上ではない。

さて、この話をしながら私は「あんたは気の毒だと感じないのか(同じように泣けとは言わないがなぜ平然としてるのか)」と問うてみた。母いわく「歳も歳だし、何かしてやれるわけでもない、死ぬのは順番だしどうしようもないだろうに」とのことだった。

なおこの女(母親)は、実の弟(私が非常に大事にしてもらってた叔父)が亡くなった時も、ろくに涙も見せていない感じである。すこし遺産を継いだが、大半は依存症のスロットで遣いこんだような者だ。私は母のそういう冷酷さを憎んでいる。

母の、近所の婆さんに対する態度はともかくとして(母と婆さんは挨拶程度だし、どちらかというと、人間嫌いで誰とも親密でない女なので)「まだ」今回、母が淡々としているのは分かる。ただ、叔父の件といい、それ以外でも、うちの母が「情け」みたいなものを持っているのを、近年とんと見ていない。

書いてて脱線してきたが「母親が昔に比べてひどく冷酷になってきているのでは」ということに気づいてイヤぁな気持ちがする。怒ったり悪態をつくことは多々あるのだが、喜びや哀しみを表現することが異常に乏しい。

話を一気に戻す。私は「大して親しくもない人でも、通りすがりの他人とか動物でも」「生き物が亡くなる」という現象それ自体に激しい哀しみを覚え、可能な状況なら涙する。より可能なら大声で泣くことがある。

愛猫家なので、いぜん、寒い夜に道路で野良猫が轢かれているのを見つけ、道の真ん中だったので、車で通り過ぎたのだが、引き返して遺体を道のフチに寄せてきた。まだ体がホカホカで、つい先ごろ轢かれたようで、既に事切れてたものの、遺体がまた轢かれてボロボロになったら気の毒だからだ。

「それ以上」はできなかったが、道路わきに寄せ、布をかけて「気の毒だったな、せめて即死で痛くなかったらよかったけど、そうであってほしいよ(人類が轢いて申し訳ない)」と声をかけ、神に祈って、車で泣いて帰った。

他に、姉にDVをした結果離婚に至ったが、生前はしばらく付き合いのあった義兄の葬儀に呼ばれた際、私は焼香時に他の誰よりも号泣してしまった。また、昔バンドを一緒にしてた同年の旧友が、病死したんだが、数年会ってなかったけれど、やはり葬儀では号泣してしまった。

人前で泣く大人は異常者なのか?

このように、私は人の死や、悲しい出来事に際して、大人の男としては異例な感じに激しく泣いたりする。しかし、葬儀で涙ぐむくらいの男は見たことがあるが(女のほうが若干、もう少し目立つ形で泣いたりする傾向があるようだが)日常において、そもそも「泣いている成人」というのをまず見かけない。とくに男。

つねに異様に感じるのだが、たとえばニュースで事件や事故で家族を喪った夫とかお父さんとかが「悔しいです」と涙を我慢している程度のシーンは見ることがまれにあるものの、それ以外で「日本の大人の男は、人前で泣いてはならない刷り込みでもあるのか」と疑わしい。もしくは彼らには感情がないのか。

女の人の場合、職場とかで悔しいとか恐怖とか、辛いことがあると、若かったり、度を超えている場合に泣いてしまうことはある。それも世間は「泣けば済むと思ってるのか」みたいな(その場で言わないにせよ)webでそんな批判を見聞きする。あるいはせいぜい芸能人なんかがアイドル卒業とか、何か賞を取るなど「特別なことで嬉し泣き」くらいならギリ許容されているが、感動とか悲しいとかで涙を流すことを全体にあたかも「自制できぬ者」扱いしているような印象があるような。

ちなみに私は涙もろく、一種、単純なところがあるので、アニメなどでも分かりやすい場面では感動して涙を流すことが多々ある。(例えば鬼滅の刃で、登場人物の悲しい過去だとか、反対に、「優しい人物の思いやり」などを感じたとき)ただまあ、それについては「日頃、生活で苦しい思いをして我慢しているストレスを、意図的に泣くことで昇華するため意図的に感傷的になってる(泣くとホルモンが出て情緒が落ち着くらしいことが科学的にも言われている)」

さらに脱線するが、いぜん「レディ・ガガ」というアメリカの女性シンガーが登場した頃「あの人を見ていると、なんだか泣けてきて仕方ない」と感じていた。なにか痛みを持つ人だと感じるからだった。(実際いろいろ苦しみを抱えていたと思う)それについては、別の友人に言ったら「獅子さんとか、他の人で、そういう感受性を持つ人が羨ましい。自分はそういうことを感じる能力に乏しい」と言われたことがある。

私は、自分が泣くとき、正直そこに「合理性」や「冷静さ」みたいなものはない。母がいうとおり「高齢者が亡くなるのは自然なことだし、泣いたところでどうにもならない」という理屈は、その通りである。うがった見方で「泣いている自分に酔う」ような節がまったく無いとも言い難いが、べつに人に見せる目的ではない。自分の中ではやはり「生物の命が無くなる」というのは理屈抜きに悲しいのだ。

(もっと生きてたかったろう、無念だったやもしれぬ)というのはこっちの憶測に過ぎず、勝手な思い込みの可能性も高い。ただ、ともかく「死という事象」は純粋に悲しいし、自分なりに当事者が苦しかったのでないかという推測に基づくものだ。「もっとこうしてやりたかった」みたいな後悔とかが主ではない。

自分の中でいぶかしいのは、俺は「感動ポルノ」的な気持ちを持って、心動かす自分はどこかナルシシズム的な何かを持っているのか。という部分。また、過剰に感情移入しているだけで、相手の立場を無視して独善的なのだろうか?というのも分からない。

先日noteで「交通事故によって身体障害を持つに至った方」と知り合い、その方が(自尊心が低いのと、優しいゆえ)「自分と衝突させてしまって相手に申し訳なかった。あのとき死ぬべきだった」と書いておられるのを見て、やはり心苦しく悲しい思いがした。また、その方が(ガンはガンで大変なんだが、私がリハビリもせず病気である自分に苛立っているのに比べ)身体障害が残ったに関わらず、かなり懸命にリハビリなどに努め、ある程度、可能な身体部分を動かせるようになった部分などにおいても、激しく心を動かされた。(しかしそれは「感動ポルノとして扱ってしまっているのか」と自問している)

私を直接知る友人、知人、また過去の恋人なども、皆私のことは「優しい」と言ってくれるし、自分のことで恐縮だが、私はおそらく「かなり優しい心を持っている」と思っている。そしてまた、友人らが言ってくれるとおり「職人肌・芸術家肌」であるようにも思う。

そういう意味で自分はいわゆるHSP(ハイパーセンシティブ)なのかな?と思う反面、もしかすると、極端に他者に感情移入し、それが的外れであったり、エゴに過ぎない、いわば厨二病的なものなのではないか?と、判断がつきかねる。

「優しさ」に関して

一般に、優しいかどうか、なんて自分でエピソードを述べるべきではないが。便宜上、私がどういう感じで生活しているか少し羅列する。

街、病院、その他で、子供、女、年寄、(男でも必要なら)など「助けが必要そう」な人には、自然に手を貸したりするほうである。エレベーターを率先して開けたり、荷物を持ったり、車椅子の病人がいたら段差を押したりもする。

いぜん、車道から駐車場に入る際、反対車線で老婆が転ぶのを見かけたので、引き換えして起こしたことがある。関西に居た頃は、なぜか行倒れの方に数度、遭遇したので、つど、起こしたり、適宜救急を呼ぶなどした。

怪我している動物は、可能なら応急処置、もっと可能なら病院につれていったりする。親に産み捨てられた子猫を保護し、不眠不休で救命活動をしたり。

時にこういう場面で「自分が関与していいのか躊躇する」こともあるが、急いでおらず、他に助けてくれそうな人が居なければ基本的に私はまず声をかけて許可を得てから支援したりするほうだ。そうするのは自分では「当たり前」だと思っている。おそらくこうなったのは、自分が障害者で、助けて頂くことも多いからだろう。

また、批判するわけではないが、似たようなことをする人は世間ではわりと少ない。それゆえ、そういう親切な行いを(私だけでなく他の誰にでも)している方を見かけると「ありがたく、うれしい」と思う。

一般的に「自分は優しいのではないか」なんてわざわざ文章にアピールすべきことではないので、不自然で、奇妙に思わせるとは承知である。が、たまたま観察対象が私なだけで、他の人が、他の人に親切な行いをしていれば私はその人を「優しく親切だ」と思うので(私が私の行いを記事にするのは変だけれど、他に私の行いを書いてくれる人がたまたま居ないので)

私は、友人らが評価してくれるとおり(長く一緒に居て、上記のような私の言動を実際に見た上で)「優しいほうだ」という気がしている。


本稿で「自分は情が深いのか」だの「優しいのか」だの書いてしまっては、なんだか本当におかしな奴で、「自慢でもしたいのか」と思わせてしまうだろうから、本来こんなことは書かないほうがいいのかもしれない。

ただ実際、自分の中の「動機」を探ってみた上で、人によく見せたくてそうしているのか?なにか自分に異常性があるとか、利益を追求しているのか。みたいなものが、ハッキリしない部分もあるので、やや特殊ではあるが、自分の考え方や心の動き、それに伴う言動などを紹介させて頂いた。

「情が深いかどうか」については実際、いぶかしいところがある。というのは、私は「弱者(助けが必要だったり、謙虚さがある方)」に対してはすごく協力的だが、「敵対した相手」については、必要以上に攻撃的だったり冷徹な面があり、そこは二重人格だと思っている。


ちょっと昼間にいろいろあって、眠れなくなってしまったので、手すさびに記事を書かせていただいた。特に批判を受けてもやむを得ない内容なので(攻撃的なものはつらいですが)何かしら考察コメントなど頂けたら幸いです。

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