キリスト者向けの濃い話:「霊的な聴覚」

こんにちは。本稿はほとんど信徒向けで、その中でも特殊な環境でしか語られない内容。一般の方には、興味本位でお読み頂きたい。いちおう私なりの解説も交える。

※ 本稿における「体験」「見解」は特定のキリスト教派や団体ではなく、いち個人の体験や、独学によるものであることを強調しておきます。私はプロテスタント信徒で、現状、教会無所属(懇意な牧師が居る)。過去に聖霊派と福音派の両方にしばらくお世話になった経験あり。

神の声

※ かなり主観的なので鵜呑みにしないでくださいね。

まずキリスト信徒は、誰でも必ず「神の声」を聴いている。根拠は聖書で神であるイエスが「わたしの羊(信徒)はわたしの声を聞き分けます」と言っている。ので、信徒になった人は人生のある時期に神の声を聴いて呼ばれて応えた。

神の声について。これは基本的に「はっきりした肉声」であることは少ないと思われる。例外はあるが稀のようだ。私が思う理由として、あまりにはっきりした肉声が聴こえてしまうと、精神病の幻聴との区別が付きづらい。(ある信徒さんは幻聴を神の声と思い込んで、預言だと称してカルト的になってる様子)

私について。人にはそれぞれ得意分野があるが、たとえば私は聴覚が鋭い。発達障害も関係あるかもだけれど、聴覚過敏で苦しむほどだ。

事例として、床に落としたワイヤレスヘッドホンが再生中であるかどうか、生活音の中でも識別できる。戸外での異音に、私の飼い猫が反応するのと同時に私も反応できる。野生児。

「聴こえすぎる」ので、むしろしんどいことも多い。友人と喫茶するのに、調理場の皿洗いのカチャカチャ音まで耳が拾ってしまうため、気を取られて相手の発言に集中するに苦心する。

肉の聴覚にリンクしているのか、私は「霊的な聴覚」にも鋭いらしい。これはかなりの信徒らと比較した結果であり、権威ある牧師らも認めてくれている。神の「声」といっても「心の中に語りかけてくるもの」である。

奇妙な表現をするが、私は肉の耳は左利き(受話器を当てるのは必ず左耳)なのだが、神は私の右のほうから聴こえる感じがする。

「神の」声と書いたが、考えてみたら「霊的聴覚」が鋭いのであって、声にも3種類ある。神、人間、悪魔。これらについて聴こえやすく、後者に惑わされることもある。

識別法があるが、これは経験で養われる。この能力全体は「賜物(ギフト)」と呼ばれる。

声の主は?悪いほうの事例

きちんと予定せず思いつきで文章を書く悪癖を辞めたいが、この形式でないと私は億劫で原稿に着手できなさそうだ。なのでこのまま続ける。

ふつうの皆さんも、発話しないで心の中であれこれ言語で思考することがあると思う。これが「人(自分)の声」。

次に、もしかしてピンと来る方も居られるかもだが、必ずしも病気ではない場合に「自分でない声」がありうる。

自分が意図していないのに、ふいに入ってくる声。これが非常にネガティブなもので、たとえばそれに従うと悪い結果が出る場合に、悪魔の声の可能性がある。悪魔の定義をしたいところだが、長くなるので、すごく雑に端折りたい。

※ C.S.ルイス「悪魔の手紙」にかなり上手に表現されているので興味ある方はどうぞ。

分かりやすいが乱雑な事例を挙げると、理由なく唐突に「死にたい」と感じたり「お前は無能なんだ」みたいな自己否定的な心の声が、自分の中に繰り返される。

とか、殺人犯が言う「殺せと命じられた」の一部は、本当に悪魔からの声である可能性がある。私はある時、肉声レベルの明瞭さで悪魔に「死ね」を連呼された経験がある。これは病気のそれ(幻聴)ではない。病気での幻聴経験もあるから、それは区別がつく。

「まだ」信徒でない人でも、霊に鋭い人は居るので、中には悪霊の声を守護霊か何かのように聴いてしまっている方も居られるように思う。このような人が、のちに神の声を識別できるようになるケースもあるだろう。

声の主:良い方の事例

序盤で(霊的)聴覚は、経験で養われる、と書いた。まだ未熟だった頃のことを書こう。

2004年に、1年間、私はロサンゼルスに音楽留学のため住んでいた。ある日、学校の近くで野外ライブをしており、興味本位で覗いてたら、どうもキリスト関係のものだった。賛美歌とかを演奏してて、伝道もなされていたのだ。

ふと黒人青年が声をかけてきた。教会に行かないか、的な話だった。「自分はすでに信者で、行きつけの教会がある」と答えたが、彼は「ウチの教会も楽しくていいところだからおいで」と誘ってくれた。話してると彼の牧師らしき人が来て名刺などをくれ、次の日曜に車で迎えにいってもよい。という。(当時、現地で自動車を購入せず足がなかったのでありがたい提案)

青年の態度は表面的には良く、引っ込み思案の私には有り難かった。牧師も普通の感じに見えた。しかし、何か「心がざわついて落ち着かない」印象がずっとあった。のちに自分の世話になってる牧師に名刺の名を告げると、それは有名な「教会荒らし」で、いわば偽信者?のような人らしかった。他所の教会から信徒を奪って自分のところの信徒にするらしい。その行為は、人間的な勧誘みたいなものではなく、そもそも聖書的に怪しいものだった(カルト的なそれのこと)

この時は神の声というより「印象」また「不安なざわつき」という「第六感」に近いが、信徒に内住する「聖霊なる神」が私に警告してくれたと思われる。

※ 信徒は、イエスを救い主として告白すると、神からの賜物(ギフト)として「聖霊なる神」が、その人の肉体に宿ることを聖書は述べている。

声の主は:良い方の事例2

上の体験は、私がまだ神の声に未熟ながら、感覚が発芽した頃の話だ。のちに、いろいろあって「聖霊派」と呼ばれる、上述した「聖霊なる神」の働きや力について、重視する教派に関わるような出来事があった。それ以降…

話が前後するけど、私はミュージシャンなので、聴覚がいいことは長所だ。また、楽器や音楽において、耳は訓練するほど、使うほど、センスが伸びる。霊的なそれも同様だ。経験や、聖書知識、神を体験することで、伸びる。

私は他の信徒と違い、考え方がどうも奇抜らしい。これはアスペルガー症候群であるゆえに、とも言える。どう奇抜かというと。

私は神が大嫌いである。神を愛してはいる。しかし、「父なる神」のことが非常に嫌いだ。というか憎い。たいていの信徒はこういうことを口に出さない。なのでキリスト信徒が日本で増えない。理由は「不正直」だからだと思っている。私はアスペルガー症候群であるがゆえに苦しむ反面、思ったことを言わずにおられないというのも症状のひとつなので、こういうことを平然と言える。その点は、こういう自分で良かったと思う。

父なる神は、旧約聖書における主役だ。

私は生物学上の父親に、自分としては「虐待された」と感じて生きている。父自身が、片親育ちなので、彼には「父性」というものがよく分かっていない。それでとてもイヤな思いをしてきた。頼りなく、不安定かつ、押し付けがましい。結果、「父」と名の付くものがイヤで仕方なく、父なる神、などと聞くと、彼(肉の父親)のイメージが重なってしまうからである。

この前フリは、「良い事例」において、非常に重要だ。だから書いた。

私は神が嫌いで、基本的に神に従い「たくない」と思っている。こんなこというクリスチャンに会ったことありますか?我ながら変だと自覚している。だが、非常に正直だと思う。

他のお信徒さんたちは、お上品で、なにか模範的な生き方をしようとしたり、神を「素晴らしい方」だとか言っている。羨ましいくらいだ。この心情は、里親に引き取られた孤児が、新しい父親…らしき人を信頼できないそれに似てるかもしれない。

…脱線が過ぎた。話を戻そう。

こんな私だが、いや、こんな私「だから」こその特徴がある。それは、私自身の思いと、神の思いとのズレが識別しやすいことだ。

たとえば、私は非常にろくでなしで、日常から悪いことを平然と行っている。世の中の事件や災害を見ても、自分のほうが不幸なので(ガンで精神病で無職で見栄えもせず、いいところがない)、人のことを気の毒に思えない。そんな(利他心の薄い)人間である、ということのほうが惨めである。

ところが、そんな私の「意に反して」ときどき神は、弱者に対する「憐れみの心」を押し付けてくることがある。哀れみ(上から下目線)ではなく、憐れみ(compassion、同じ痛みを経験的に知った上での共感目線による愛情)のことだ。

違いは「私がそう思っていないのに、神が思っている気持が、心に湧いてくるので、区別ができる」ということだ。

くどいようだが、私の本質は利己的で自己中心である。そもそも人のことを思っている余裕がない。しかし、自分が病気で寝込んでるときにも、神は容赦なく?「彼らが気の毒ではないか」みたいなことを私に語りかけてくる。誤解されたくないが、二重人格ではありません。

祈らされた実例

まだ今ほど大胆に開き直ってなかった頃のことだ。大学の悪友が、婿養子になったのだが、義両親+妻に疎まれるようになり、彼から見て一方的に離縁の話になり苦悩していた。あれほどしんどそうな姿は初めて見た。会うたびにその話を聞かされたので、とてもつらかったのだろう。

このようなケースでは、性格的には「人間としての小賢しいアドバイス」をついつい述べてしまうのが私の本性だ。しかし、あるときファミレスで話を聴いていたら、心の右のほうから何となく、しかし執拗に「祈りなさい、祈りなさい」と響く。さいしょ無視してたんだが、だんだんうるさくなってきた。

無視した理由は、当時まだ「他人に、宗教の人、という変なイメージを持たれたくない」という恥意識があったからだ。そもそも祈ってどうなる?

だが、あまりにその声がしつこいので友人にこう切り出した。「あんたも俺がクリスチャンというのは知っているだろう。さっきから神が祈れとうるさいので、俺自身もその意味があるか分からんが一緒に祈ってみないか」と。

そこで彼の車内に戻り、駐車場でかなり具体的に祈った。「裁判沙汰の懸念があるが、それも疲れるので、彼(友人)の納得する500万という慰謝料を、スムーズに受け取ることによって、双方が後腐れなく納得できるようにしてやってほしい」というような内容だったと思う。離婚相手が資産家で、親戚同士でさえ裁判してるような家柄だったため、彼に対しても長期戦になりそうな状況だったのだ。

忘れた頃、その悪友と再開した。いわく、ある朝、額面キッチリの現金が机上に置いてあり、これを受け取って黙って出ていってほしい。という連絡があり、離婚成立(妻の親元の事業で働いてたので)退職して一旦は賃貸契約し、休養できる状況になった。名字も戻した。とのこと。祈ったこちらが驚いた。金額まで祈った数字どおりだったから。

このこともあってか、以降、私は非信者には「自分はクリスチャンなので、あなたがイヤでなければ自分の習慣として、ただ聞いててくれりゃいいんで、俺の神に、あなたのために祈らせてもらっていいか」という前置きで、祈らせてもらうことが増えた。

すごく抵抗のある人でなければ、きちんと説明すると受け入れて下さることが多い。説明というのは「あなたにまじないを掛けたりするわけではなく、私が、私の信じるところの、神に対し、あなたに関することを伝えてお願いしたりする、それを聞いててほしい」という具合。

ついでに、「締めでアーメンと言うけど、それは、今述べたことに同意しますってニュアンスだから、言いたくなったら言ってもらっていいです」ともお伝えする。心が開かれている場合、その方のために良いことを神にお願いするので、わりとアーメンと言ってくれる方も多い。

…驚くべきことに、この友人については、最近では、私が病苦なのをふまえてか、会ったときに、別れ際、私が「信じてなくていいから俺のために祈ってはくれまいか」とお願いすると、祈ってくれるようになった。

おまけに、非信者が神に接する態度というのが、「神慣れしている」私のような悪信者と違い、ものすごく真摯なので、こちらの背筋が正される。どちらが信徒か分かりゃしないような敬虔さなのだ。「神さま…」と、畏敬の念を持って非常に厳粛なのだ。私なんてプライベートではクソ神とか悪態ついてるのに。。。

神の気持の「押し付け」

いつもどおり、予定より長文になったので、この段落で締めたい。

これも強烈に奇妙な話なので、私としては「自分と神の気持の違い」ゆえに、神の声が識別できる事例として書かせてもらう。

私という凡庸な人は、イスラエルという国や、エルサレムという土地にとくべつな興味関心がない。アスペルガーは自分の興味あるものにしか強い興味を抱かないという性質が強く、とくに私は地理が苦手なのだ。

ところが、聖書の、神がエルサレムに対する嘆きの箇所を見ると、私の中で聖霊なる神がとんでもない激情を私にシンクロさせてくる。

ここまでの流れで読者が、私を「かわいそうな精神病の人」と認識なさってるなら、それはそれで致し方ないのだが。私は精神病であるけれど、自我を失ってはいないし、幻聴が聴こえたならそれはそれで自分で識別できる程度に病識がある。それを踏まえ。

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。
(マタイによる福音書 23:37-39)

本稿をMacで入力している今、私はとても体調がわるい。どれくらいかというと、鬱の症状で、長文がまともに読めない。「出力(書く)」のほうがしやすく、「入力(読んで理解する力)」はかなり落ちている。上の引用も、意味を噛みしめたり読解できる状態でもない。が。

この箇所を読むだけで、胸の中をえぐられるような苦しみが湧き上がり、涙があふれ、拳を握って耐えなければならないような感覚を「強制される」のである。

これは私が演技しているわけでも、そういう自分に酔っているのとも違う。たとえば私はヴォーカリストなので、歌を歌うにあたり、主人公に「感情移入」することで、歌詞に酔って泣くということができる。が、この聖句はそれとは異なるのだ。

私を知らない読者にはいささか乱暴な説明だが、私は「自分がどういう人間か、内省しまくるタイプなので」自分の躁うつ病の状態がどうなっているかとか、毎日30分区切りのエクセルシートに、出来事と感情をメモしているほど細かく自分を研究している異常性がある。病気を客観視するために、徹底的に自己研究するタイプなので、自分を突き放して見るようにする習慣がある、という意味だ。

ちなみに今は躁気味の季節だが、ハイであっても妄想しているわけではない。妄想なら妄想で、妄想だと分かった上でふざけて書ける。

執拗に自己弁護してしまったが、言い直すと、自分はエルサレムという場所に特別な興味が無い。行ったこともないし、聖書の舞台だな、というくらいでしかないのだ。ふつうの非信徒の皆さんが、キリスト教を「外国の宗教だ」と思われるのと似たように「我がことにあらず」な感覚なのだ。これが本音。

興味がない場所や対象に、むりに感情移入するというのは、意図的であってもとても難しい。でも神は、どうやらエルサレムに異常な興味があり、私にその感情を疑似体験させる。変人な表現をすると「取り憑かれてそう感じさせられる」みたいなふうだ。自我を乗っ取られはしないが、感情を強制的に共有させられる。

かわいそうな神

上の段落で締める、と書いたのに延長してしまった。

被造物である私が、異常な表現をさせてもらうと、神はとてもかわいそうに思う。というのは、自分が自分の能力で造った人類が、自分の思い通りに動かず、ろくでもないことばかりする。自分のお気に入りの場所が、「争いの場」になって、私が疑似体験するだけでも死にそうになるほどに胸を苦しめている。

(おそらく、人類が、神自身の苦悩を100%の出力で実際に疑似体験したら、本当に死んでしまうと思うので、私に対してはあれでも手加減されていそうだ)

神は、(方舟の)ノアの時代、人類があまりに悪事ばかりするので「非常に心を痛めた」と聖書に書いてある。それで全滅させようと決めたのに、ノアが神にとってある種の「希望」になったせいで、神は全滅を中断し、ノア一族だけ助けることにしやがった。(悪信徒なりの毒舌)

その後も、人類救済のために、神はあの手この手でもって、人類が幸せに生きられるように介入した様子だ。めちゃくちゃ雑に言うとこの歴史が旧約聖書に書いてある。

非信徒の多くが「神が居るならなぜこの世に悲しみがあるのか」と疑問に思われるし、信徒である私もそう思う。私の主観的結論は、神が馬鹿だからだ。馬鹿というのは、神が人類を異常に愛しすぎているという意味だ。頭がおかしくないと、こんなことはやってられない。

全知かつ全能なので、その能力を発揮すれば、一瞬で世界を抹消できる。神の能力はそのようなものだ。しかし、そうしないのは、神が人類を溺愛しているからであり、有限かつ、愛情の希薄な私から見たら「馬鹿」でなければできないと思う。この馬鹿って言い方は、作家の遠藤周作氏も似たような言い回しをされていた気がする。

利己的な私から見たら、自分を苦しめたり、命を懸けてまで相手を愛して忍耐して待って救おうなんて、まったく賢明には思えない。それを神は人類史上から今に至るまでずっとやっている。頭がおかしいんだと思う。

…とんでもない締めになったが、私は精神病であっても正気を失っているわけでなければ、自我はきちんとある。そして敬虔とは言い難いが、これでも神を「信じて」いる。

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