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【何故か気になる、重要でない色々なこと】

「はじめに」

物事には、重要であることと重要でないことがある。ある出来事が起こったときや、何かの説明を受けているとき、勉強をしているとき、人はその時々で「今重要な部分」について考える必要がある。
だが「ここが重要な部分だ」とわかっていても、そうでない部分が気になってしまうことが、多々ある。これから書くのはその「重要ではないが、気になる」内容である。
つまり、この記事の重要な部分は、実はここと一番最後にしかない。「はじめに」でそれは殆ど終わってしまったのだ。何ということだろう。


「算数の文章問題に潜む、どうでもいい謎」

小学校の算数の授業で誰もが解くことになる文章問題が、私は結構好きだった。問題を解くことが、ではない。毎回、変な謎があるところが好きだったのだ。寧ろ算数(そしてその上位科目の数学)は苦手分野で、点数もあまり良くなかったため、両親には呆れられた記憶がある。

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[問3]
たかしくんはくだもの屋さんに行き、1こ120円のりんごを3こと、みかんを4こ買いました。たかしくんは1,000円しはらい、おつりは280円でした。
このとき、みかん1このねだんはいくらになりますか?

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文章問題といえば、およそこんな風である。こういった問題が出たとき、何よりも気になるのが「何故、この店はみかんの値段がわからないのか」だ。


「商品の値段を明示してくれない店問題」


本文には「1こ120円のりんご」とあるため、たかしくんはりんごの値段を知ることができる状況にあるらしい(あるいは、すでに知識として知っているらしい)。描写がないので確実にそうとはいえないが、りんごには値札がついている可能性が高いのだ。
では、みかんはなぜ本文で「1こ○円のみかん」といった書かれ方をしないのか。もしかすると、たまたま店側のミスで、値札がついていないのか。現実の店でも、そういうことは多々ある。ほしいものに限って、値札がついていない人生だ。たかしくんも、そういう星のもとに生まれ落ちたのかもしれない。
あるいは、りんごにもみかんにも、他の商品にも一切値札がついていない、ちょっと特殊な店の可能性も否定できない。個人経営で、かつちょっとクセのある店主がいる店なのかもしれないのだ。そうであった場合、たかしくんはおそらく以前にもこの果物屋さんで商品をりんごを購入したことがあり、その値段情報を参考にしている可能性が高い。その場合、みかんは今回初めて買うから値段がわからないのだ。


「合計額がわからないまま精算を行う問題」

みかんの謎が一応解けてきたところで、さらにもうひとつ別の問題が浮上する。「たかしくんは、何故合計金額がわからないまま精算を行ったのか」である。

商品の値段を知る最も確実で早い方法は、その店の店員に聞くことである。しかし、たかしくんはその手段を取らずに、恐らくはレジに向かって行きりんごとみかんを購入した。合計金額がわからないままレジに行くことは、ともすれば合計金額が手持ちの金額を上回り、売買が成立しない問題を起こしてしまう。にもかかわらす、たかしくんは値段を聞かない。これは何故なのか。

ここで考えられる仮説は3つある。
1.「たかしくんはとても内気な子であり、店員に話しかけることがどうしてもできなかった」
2.「たかしくんは第三者からこの買い物を頼まれており、『これだけあれば買えるから』とお金を渡されたため、合計金額が渡された買い物用の資金を上回る心配をしなかった」
3.「たかしくんの所持金が極めて多かったため、金額の心配をする必要がなかった」

どれが正解であるか(あるいは全部違うか)は不明だが、1.が正解であった場合、私はたかしくんに親近感を抱かずにはいられない。人に声をかけるのは勇気がいるし、忙しくしている店員に声をかけ、自分のためにわざわざ仕事の手を止めさせることを躊躇するのは、何度も経験がある。
私自身、値札のない商品を見かけたら、まずは携帯電話でネット検索をかけ、そこのネットショップの金額を、その商品の値段と仮定して買い物を進める。店員さんの手を煩わせるのは、最小限にしたいのだ。でも、たかしくんは多分携帯電話を持っていない。持っていたのなら、みかんの大体の値段はわかるはずなのだ。頑張ってお店の人に尋ねるんだ、たかしくん。

こんな風に考えることが多々あったため、私は文章問題が割と好きではあった。内気かもしれないたかしくんが、値札のないみかんの前で途方に暮れたかもしれないことや、値札を意図的につけない癖の強い店主のことを考えることは、個人的には楽しい作業である。

だが、この問題で重要なのは「みかん1この値段」であり、「何故、この店のみかんの値段がわからないのか」や「たかしくんは、何故合計金額がわからないまま精算を行ったのか」は1mmも重要ではない。考える必要はないことなのだ。端的にいって無駄である。

「公園の周りをぐるぐる回る兄弟の問題」

先述のたかしくんの問題のほかにも、

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[問1]
さとしくんとお兄さんは、外周3kmの公園に遊びに行きました。さとしくんは時速2kmの速さで、お兄さんは時速3kmの速さで、同じ地点から公園を一周します。さとしくんは右へ、お兄さんは左へ同時に歩き出した場合、2人が合流するのは公園のどの地点でしょうか。

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といった問題が出ることがある。
このとき重要なのは「さとしくんとお兄さんが公園の周りのどこで再び出会うか」であり、間違っても「何故この兄弟は、公園に遊びに来たのに公園の外側をただ歩いているのか。もしや兄弟で競歩の選手を志しているのか」や「散歩をするならするで、何故2人は別々に歩いているのか。仲が良くないのか」といった問題はまったく重要ではない。

重要でないことは、わかっている。文章問題は計算の練習・学びのためにあり、解かせたい計算式を使うがために、みかんの値段は隠され、兄弟は公園で遊ぶことなく外周をぐるぐる回るものなのだ。

わかっている。わかってはいるのだが、何故だか真っ先に気になってしまうのは、いつも重要でない問題の方なのだ。
これを読んでいる皆さんにも、そんなことってないだろうか。

「彼があなたを愛していると彼女が私に言ったと思いますか?」

そしてこれは、かつて英語の授業で「この英文を和訳せよ」と出た問題の答えである。いったいいつの時代の、どの教科書(あるいは問題集)だったかは覚えていないし、そもそもの和訳する元の英文も思い出せないのだが、この奇妙な答えの文章だけは未だ忘れられずにいる。

「この英文を和訳せよ」の問題において、重要なことは「英文を正確に日本語に訳す」ことである。が、ここまで読まれておわかりいただけたと思うが、勿論気になるのはそこではない。私が授業中延々と考えたのは、「この文章の意味はどれなのか?」であった。この文章、区切る位置や解釈によって、結構意味が変わってしまうのだ。

この問題の原文には、日本語の鉤括弧に相当する“ ”などはなかったと思うのだが、わかりやすくするために今回は鉤括弧や補うための文章を入れてみようと思う。変な意訳が並ぶのを許してほしい。

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「彼があなたを愛していると彼女が私に言ったと思いますか?」は、どういう状況か。

1.彼女は「彼がAさんを愛している」と考えており、「彼女がその考えを私(Aさん)に言ったと思いますか?」とAさんが誰かに尋ねている。

2.彼が「僕はAさんを愛している」と彼女に打ち明けたことを、「彼女自身が私(Aさん)に言ったと思いますか?」とAさんが誰かに尋ねている。
※ややこしいが、「彼があなたを愛している」を発話しているのが彼女になるため、この「あなた」は私(Aさん)になる。

3.彼が彼女(Bさん)に対し「Bさんを愛している」と告白したことを、「彼女(Bさん)が私に言ったと思いますか?」とAさんが誰かに尋ねている。

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英語の授業中、ノートの隅に鍵穴型の人の絵を描き、そこに説明や吹き出しを書いてうんうんと唸った末の結果が、上の1.2.3.である。

だが悲しいかな、これは英語の授業。この問題の答えは「彼があなたを愛していると彼女が私に言ったと思いますか?」であり、それで話はおしまいなのだ。

「『重要じゃない』ことも考えたい」

私が重要じゃないことについて何か考えてものを言うと、周りの人は「えっ、そこ?」「何でそんなこと考えるの?頭おかしいよ(笑)」「それは○○○という障害の特徴だから、お前は障害者だ。病院で治してもらえ」「一応言っといてあげるけど、頭がおかしいと思われるから、そういうことは言わない方が良いよ」「そんなことはいいから、本題を真剣に考えて(怒)」と言った。
「えっ、そこ?」と純粋に驚いた友人はさておいて、この「(周りにとって)重要じゃない」ことに関する発言が、一番重要なことについて触れた後の発言であっても、一番重要なことが解決した後の発言であっても、何故か私は「一番重要なことが考えられない奴」と見做されがちであった。解せぬ。

確かに、値段のわからないみかんなんて、公園に入らずにぐるぐる回る兄弟なんて、判断が難しい英語の和訳なんて、どうでもいいのかもしれない。

でも、それはあまりにも不自由で、勿体ないことではないだろうか。

何かが起こったとして「一番重要なことを最初に考え、発言しなさい」ということは、間違っていないと思う。大抵の場合、物事には優先順位があるからだ。
だが、「一番重要なこと以外は考えても無駄なことだから、考えたり発言したりしてはいけません」は違うと思うのだ。

仮に「童話のシンデレラで重要なのは『不幸な目に遭っていたシンデレラが、最終的に幸せになれたこと』だから、『王子個人は、どういう人物なのか』や『シンデレラ自身、王子のことが好きなのか。それとも財産目当てなのか』や『シンデレラの父親はなぜ、義理の母や姉たちに虐げられるシンデレラを助けなかったのか。助けられない理由や、性格(酷く臆病だったとか)だったのか』や『シンデレラと足のサイズが同じ街娘も確率的にはいたかもしれないのに、なぜシンデレラしか靴が合わなかったのか。魔女の仕業なのか』などは考えてはいけない」となったら、それはあまりにも不自由であるし、物語を、想像を楽しむという観点においてあまりにも勿体ない。

想像の双翼は、広がるのであればどこまでも広がるべきものであり、発言して他者を傷つけてしまわないものである限り、自由に羽ばたき、飛翔して良いものである。それが物語への想像であろうと、現実に対しての想像であろうと。
勿論、広げないことも、飛ばないこともまた、同様に自由である。想像を広げることにメリットとデメリットがあるのと同様に、広げないことにも違ったメリットとデメリットがある。
だから広げるも広げないも、同等に自由であるべきなのだ。

だから何が言いたいのかと言われてしまうと、少し困る。

だが、もし誰かが。あなたに対して「たかしくんが行った果物屋さんは、どうしてみかんの値段を教えてくれないのか」と言ったとしたら。どうか、どうか「そんなことより早く問題を解きなさい」や「そんな無駄なことは考えなくていい」であしらったり、「そんな無駄なことを考えて、頭がおかしい証拠だ」と跳ね除けたりしないであげてほしい。

ただ、「えっ、そこ?」「そう来るとは思わなかった(笑)」「お前さんは、どうしてそうなっていると考えているんだね?」と笑って、相槌を打ってあげてほしい。

重要なことは人によって違うのだし、いつか「そんな無駄なことは考えるな」と誰かに言っていた人が、そっくりそのまま「そんな無駄なことは考えるな」と誰かに言われる日が来るかも知れないのだから。

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