充実感はどこにあるのか?

私は最近ゲーミングPCを購入した。

自分の財布事情やスペースの問題、PCの性能など、さまざまな観点から吟味。
実際にPC専門店に足を運び、店員に相談しながら、PCのパーツやケースを決定。
家に届いて段ボール箱を開封する瞬間。
PCの起動。

そのいずれもとても楽しかった。ワクワクが止まらなかった。
こんな書きっぷりだと既に後悔しているのではないか、と思われるかもしれないが、もちろん今でもゲーミングPCを購入して後悔はしていない。

ゲームだけではもったいないと思い、動画作成にも挑戦。実際にいくつかの動画をYouTubeに公開した。

ゲーミングPCデビューをしてまだ3ヶ月程度でありながら、なかなか使いこんでいるのだ。
しかし、どうも最近は虚無感を覚えてしまう。

ゲームも、動画作成も、目的もなくPCを触っている時も、その瞬間瞬間は楽しい。
しかし、その後に虚無感がやってくる。

なぜ充実感がないのか、それを知りたい。
単に疲れているだけなのか、あるいは飽きているのか。

ちなみに私はもう1年以上テニスをしているのだが、こちらに関しては基本的に虚無感を抱くことはない。
テニス教室に通っているのだが、その練習内容があまりにも酷いものであると、練習後に「今日は時間を無駄にした」と虚無感を抱くのだが、それはテニスのせいではない。
テニス自体はいつも充実感を与えてくれる。

私は今回の動画作成のように、何かを作って何かしらのものを残せば充実感を得られるのだと思っていた。
小説を書いたこともある。それは小説家になってウハウハになるというやましい思いもあったし、自分を知りたいと言う探究心もあったが、形に残せば私が死んでも一生残り続けるから充実感を抱けるはずだという信仰心もあったのだと思う。

しかし、何かを作れば必ずしも充実感を抱けるとは限らないようだ。

また私は何かしらの努力をすれば充実感を得られるとも考えたことがある。ただこれも怪しい。
確かに、何かに向かって努力をしている時は充実していると思う。しかし、その何かを達成した瞬間、燃え尽き症候群と呼ばれるように、虚無感に包まれてしまう。
それはこれまでずっと追いかけていた目標がなくなってしまったからなのだろう。追いかけていたはずの目標はいつしか友のような存在になり、自分にとってなくてはならない相棒だったのだ。
それがいなくなった時、達成感はあれど充実感はなくなってしまう。次の相棒を見つけるまで。

シーシュポスの岩をご存知だろうか。
神々を欺いた罰として、彼は岩を山頂まで上げることとなるが、岩は山頂に到達するとその重みで落下してしまうのだ。
そして彼はまた岩を山頂まで上げることとなる。
これが終わることはない。

シーシュポスの岩は苦行だ。辛くて終わらないものだからである。
しかし、私はここに充実感を永遠に享受するヒントを見出す。つまり、不老不死の相棒がそこにいるのだ。

結論を言えば、シーシュポスの岩のように永遠に終わらない目標を用意するということ、そしてシーシュポスの岩を上げることそれ自体が目的となるような行為(ただし苦行ではない)を見つけること、それこそが充実感を永遠に享受する方法だ。

私はテニスで食べていこうという気持ちはさらさらない。
大会に出て勝ちたいという意欲もない。
ただ、球を打たれてそれを打ち返す、その行為が楽しくてたまらない。

構える。飛んでくる球に合わせて移動する。ラケットを上げスイングの準備をする。胸から腕、手、さらにラケットの先端に至るまで、調和が取れた自分の一身とみなし、無心で振り抜く。身体に伝わる衝撃。その瞬間に鳴り響く打球音。飛んでいく球。思い描いた落下運動。コートに沈み込み、相手に返っていく。

これを実感するということが目的だ。そしてこの目的は終わることがない。何者も終わらせることができない。
終わりなき、それ自体が目的となる行為。これを繰り返すことが永遠に充実感をもたらす。

もしそんな行為がわからなければ、ぜひ探してみてほしい。
そんな高尚なものではない。意外と間近にあるものだ。
しかし、社会的評価や世間体、効率、実用性、そういった装いを捨てなければ見つからないだろう。

探す時は素っ裸で。よろしくお願いいたします。

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