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若松孝二監督『われに撃つ用意あり』(90) 1968年、原田芳雄と中上健次ーー血縁と朋輩





『われに撃つ用意あり』

原田芳雄がいて、桃井かおり、石橋蓮司がいて。まるでーー彼らの青春の記念碑の如き映画だったーー黒木和雄監督『竜馬暗殺』(74)のようなキャストのなか、松田優作がいない。優作は、前年(89)に亡くなっていた。そっくりさん俳優の又野誠治が姿をみせていることも、松田優作不在の印象を更につよくする。
優作で予定されていた役は、蟹江敬三に代わっていた。
原田芳雄を中心とした桃井かおりと松田優作の、長い特別な、三人の関係性。
刑事役が蟹江でなく優作だったら、まったく違う感情の充満した映画になったのではないか。

1966年秋。
今の新宿バルト9、かつての新宿東映/東映パラスの、新宿駅からみてその手前に、京王名画座はあった。
まだ17歳、高校生だった福間健二が、その京王名画座に『壁の中の秘事』『裏切りの季節』の二本立てを観にいったとき、〈映画館の前に大和屋さんと若松さんがいた〉。

〈都立大の福間っていう学生がいたんですよ。俺のたいへんなファンでね。俺と大和屋が新宿歩いていたら、ブルブルふるえながら「ワ、ワ、ワ、ワカマツさんですか」って声かけてきたんだ。「そうです」って言ったら「私、あなたのファンなんです。事務所に一回遊びに行っていいですか」って言うから「ああ、いらっしゃいよ」って答えた。〉
さっそく次の日、福間が若松プロに行くと、〈黒木和雄が若松プロで撮るというのが、黒板にスケジュールまで書いてあった。()黒木和雄のような人でさえも()若松孝二とやるということが、すごく冒険的なことだという時代だった。〉
『白の人造美女』『情欲の黒水仙』イン直前だったが、若松は福間にカツ丼の出前をとってくれ、数週間後に午前中遊びに行ったときも、味噌汁の朝飯を作ってふるまってくれた。
いつしか若松プロに出入りして、脚本を書き出演もすることになる福間にとって、のちに次第に離れていったあとも、〈最後の最後まで、〉〈血の通った人間としてのぬくもりを感じさせる〉男として、若松をハートのあるものと認識していた。
〈最後に会ったのは、二〇〇八年の十二月()私の長編第二作『岡山の娘』を上映していたポレポレ東中野にトークゲストで来てくれた。五千円しか入っていない「車代」を開けもしないで「飲み代の足しにしろ」と返してくれ、「安いところに行こう。そこのラーメン屋でいい」と〉。

若松孝二が亡くなったとき、福間健二はその追悼文で『天使の恍惚』(72)以降の作品について、〈打率は低かった。()最悪なのは『われに撃つ用意あり』(一九九〇)だと私は思っている。〉と『われに~』をワーストに挙げていた。
ヒドイ後期若松映画は数限りないなかで、少なくともがんばっている感じのする『われに~』に対するこの反応。別媒体でも当作を〈正義を訴える〉ゆえに最悪だと言っているが、本当にそれが理由なのだろうか。

*

『われに撃つ用意あり』について、〈自分が原作を持っていった作品〉と井上淳一が言う。こんなのありますよと若松に読ませたということだろう。1986年9月のことだった。
〈この小説にはモデルがいる。一九六八年十月二十一日、ベトナム戦争に武器を運ぶ列車が新宿を通るというので大騒乱が起きた。このデモに参加した男が新宿ゴールデン街に逃げ込んだ。今でも(99年)、ここで小さなバーをやっている()
ボクはこの店も、男も知っているので、何か運命的なものを感じていた。〉(若松)
一読後、映画化したいと作者の佐々木譲宅に電話をかけると、映画化権は既に石井聰互がおさえていた。
〈彼は台本を書いたが、どこの会社ものってこない。そこで「お前、できないのなら、原作権を早く手放せよな」と、ちょっと脅しを入れた。〉

〈88年11月、脚色に困難を極めシナリオの出来ぬまま映画化権は石井の手を離れ、若松のものとなった。〉(井上)
このあたり、シナリオが形になっていたのかなかったのか、話に多少の食い違いはあるが、製作の目処がたたずにその手を離れたのは確かなのでしょう。佐々木が冒険小説家仲間の船戸与一に相談すると〈「これは若松孝二にしかできない」と、答えたらしい〉と。
原作では、松田ケイジが演じた若者は元暴走族のリーダーで彼が仲間を集めて新宿から脱出させる一大アクションがあり、石井はそこに惹かれたと思われるが、それこそが映画化が難航する理由でもあった。

1988年、年の瀬の12月28日、原田芳雄の家でおこなわれる毎年恒例のもちつきがあり、出掛けていった若松孝二は、『われに撃つ用意あり』の企画を話し、出てくれと言った。参加していた〈桃井も松田優作も酔っぱらっているから、すぐOKした。松田の役は刑事だったが、その後、亡くなり、蟹江敬三になった。〉

*

『ツィゴイネルワイゼン』(80)から8年くらいの間、原田は映画/役者へのやる気を失ってしまう。映画賞を総ナメにした『ツィゴイ~』で主演男優の自分だけが無冠におわったことで意気消沈したとも、清順演出にアテられて絶望したとも言われるが、周りにも本人にも本当のところはよく分からなかった。ともかくしばらく立ち直れず、歌手活動に気分をうつしたりしていた。
〈僕は引っ込んでしまいました。しばらくは何もやりたくなくて、ただひたすら寝ていたんです。()自分の中で何か内発するものが出てくるまでは、何をやっても駄目だと()88年ごろになると、自分の中で胸騒ぎがしてきて、優作にも「そろそろきそうだ」という話をしていた。〉(原田)
〈そろそろ役者心がうずいてきた頃だったと思います。()若松さんとは気が合ったんです。()テストもしないし、撮るのが速いから。()最初に日活作品に出たとき、現場の進行が速くて、いろんなことを言ってどんどん変わっていった()その感覚、感触を思い出したんだと思います。〉(原田章代)
『キスより簡単』『われに~』等々と、続けざまに若松映画に参加することで、原田は映画への気持ちがよみがえっていくことになる。

〈10年くらいは映画からはできるだけ離れてた。映画を見てもいない。()それで、88年くらいに、なんだか知らないけどムズムズしてきたんだ。そろそろ少しやれそうな気がするな、ということを言っていたときに、若松孝二さんの話がきてね。(『キスより簡単』で)すごく新鮮にやれました。〉

優作が、若松による『われに~』出演交渉の翌年、この世を去る。元より交流のあった原田芳雄と中上健次の親交は、急速にふかまってゆく。原田は、中上の『日輪の翼』を原作として自ら監督することを、ひとつの夢とした。

ふたりの出会いは85年ごろ。〈ちょうど「火まつり」が映画化された直後ぐらいだったかな。ある酒場で中上さんと偶然会って、()それから何度か“飲み会”を重ねているうちに「日輪の翼」映画化の話がどっちが言い出しっぺということもなく極く自然発生的に持ちあがってきたんです。
信濃町の喫茶店で「日輪の翼」の打ち合わせをしたのが中上さんとの最後だったのですが、()慶応病院に入院中でかなりの細身であったにもかかわらず〉ものすごく大男に見えた。

〈「竜馬暗殺」を撮る中で、優作、かおりとのトライアングルが出来上がった〉(原田)
〈優作と芳雄とかおりの三人で飲んでるのが一番いいバランスだったんですよ、二人で芳雄をとり合って。だから、優作がいなくなってから、ホントに芳雄と困っちゃった〉(桃井)
〈最後のとき「血縁だけが家族じゃない」と言ってました〉(佐藤浩市)
「血縁だけが‥」は、原田が口癖のように繰り返し発していた言葉だった。
〈芳雄が優作の家に遊びに行こうって言うのね。それで優作の家に二人で歩いていく途中に「おまえだけだな‥まあ、もう血が繋がってるしな」って言うわけ〉(桃井)

原田×桃井の初共演となる『赤い鳥逃げた?』(73)は、クランクイン前日のカメラテストで、原田とヒロイン役がフィットせず、他にいないかと女優のオーディション資料を見せてもらった原田が桃井を指名する。この子は写真と違いますよと助監督の長谷川和彦がとめるも、会ってみたいという原田。長谷川からの電話に10分だけ猶予をもらい、その間に文芸座仲間の優作に相談し、考えることはないとの優作の後押しをうけて、桃井は決断する。
原田がその女優と会ってみると、本当に写真と全然違ったが、〈10年つき合ってるみたいな感じだったもん、会った瞬間から。()それが俺と、かおりの不思議な関係なんだよ。もう血縁のような。〉

その数年前、清水邦夫の舞台「狂人なおもて往生をとぐ」(69)で原田芳雄をみたとき桃井かおりは、(なんて綺麗な顔の男なんだろう)と感じていた。その後『赤い鳥逃げた?』(73)で原田と共演した桃井は、優作に、原田について「もうすごくかっこ良くて素敵なの。魂がいいの」と熱弁する。〈発想と、体で感じてる真実が普通と違う。()『赤い鳥~』で会ったときから芳雄はずっと兄貴()役者としてはもちろんだけど彼の知力に憧れて、この人がいる限り役者って面白いって、すごい仕事だって思えてた。それで信じられないくらい良い人間でしょ。傷ついてる人間とか痛んだ人間にこよくな優しい。〉

迷える異国の者に躊躇なく手を差し伸べる『われに~』の主役を、「これを演れるのは俺しかいない」と言って前向きになったのは、このような精神性が共鳴したのかも知れない。

原田芳雄と優作を会わせたのは桃井かおりではなかった。すでに芳雄にはげしく憧れていた優作は、『狼の紋章』(73)の現場で知り合った加藤小夜子に紹介を頼み、原田のすむアパートを訪れる。原田が仲間と麻雀を打っている所へのっそり入ってきた優作は、〈「『太陽にほえろ!』に出ることが決定したんですよ」と言ったっきり、何もしゃべらず〉黙って酒をあおり、麻雀を打ち、勝って帰っていった。憧れてきた人のまえで何も喋れなかった。
優作は原田の影響を大いに受けて、その俳優としてのスタイルを作り上げていった。『太陽にほえろ!』のジーパンも、原田の『五番目の刑事』『反逆のメロディー』のイメージの残響のなかにあった。

〈夏のはじめ頃だった()大男はゆっくりと四畳半の角隅まで行き長い手足を窮屈そうに折りたたんで正座をし()大男はときどき身体をモジモジさせていたがとくべつ言葉を発するわけでもなく()話らしい話の無いまま手土産の筈の安酒を空にして揚々と帰っていった。〉(原田)
それから毎日のように優作が訪れ、ついには隣人となり朋輩となるさまが、まるで原田が傾倒した中上健次そっくりの文体で語られる。(「龍平への手紙」)

『竜馬暗殺』での優作との共演は本当に楽しかったが、〈だけど、「生涯、もう、やらなくていいだろう」という感じでしたね。結局、いっしょに芝居をするのは、近すぎて嫌()勝手にそれぞれやっていることにおいて、一緒にいることが成立する関係〉(原田)だった。『ツィゴイネルワイゼン』以後ダウナー期に突入していて、消極的に出演した『陽炎座』(81)で原田は優作と共演するが、〈もう「竜馬暗殺」のようなぶつかり合いは全くなかった〉。気持ちが復活してきてのこの若松映画での共演は結局、実現には至らなかった。

原田芳雄の母が急死したその日、桃井と優作は原田家に駆けつける。〈優作は、その夜、しきりと、血縁について喋ってい〉たという。

石橋蓮司と彼らの付き合いも長い、桃井の初主演作で彼女と共演し、桃井と同じく石橋も舞台『狂人なおもて往生をとぐ』(69)で原田を初めて目にする。そこからは原田との交流に発展しなかったが、71年、自主公演で『はんらん狂騒曲』をやるさいに、原田から石橋に一緒にやらないかと誘いがくる。原田は、蜷川の芝居で石橋を見ていた。『はんらん狂騒曲』はかなり政治色の強い作品だったので、石橋は〈こういうことで集まってやった作品は途中で空中分解したりすることが多い()俺が出たとしても、途中で揉めることになるかも()揉めたら、すぐにやめてもいい〉という条件をつけて、出演を承諾する。
案の定、稽古に入ってすぐ、〈直接的すぎるし、これはもう演劇というより政治的アピール〉だと感じ、降りたいと言うと原田はそれを受け入れた。その後、『竜馬暗殺』の共演で、〈初めて役者として、同志として、ひとつのシチュエーションを共有した〉(石橋)
そして彼らの長い交流がはじまる。
優作、桃井に限らず「兄貴」「兄貴」と幾人もの者らに慕われた原田だったが、石橋とは上下でなく〈まぶだち〉だった。五分と五分の者として演技上でのセッションを二人で楽しんでいた。そのように『竜馬暗殺』『出張』『浪人街』『スリ』等、それぞれ距離感のちがう役の関係性を構築したのだ。
『われに~』で原田の経営する飲み屋「カシュカシュ」に集う、“あの頃”の政治的季節を共に生き、ある種同じ価値観を共有しているとおぼしき常連客のなかで、石橋蓮司だけが、ネジのとんだ野球ファンのような振る舞いで浮いているのを見ると、『はんらん狂騒曲』で〈政治的アピール〉に距離を置いた石橋のスタンスに、どこか重なるものがある。
原田は最後の入院で〈動けなくなったときも、「蓮司と股旅ものをやりたいね」と〉言っていたという。

家族なんて放っておいてもいつか壊れる、と言う原田は、子供らにはチチではなく「芳雄」と呼ばせる風変わりな家庭の関係性を構築していた。その一方で、多くの者が芳雄を「兄貴、兄貴」と呼び、芳雄は魂が共振した者へ親しさのしるしとして「もう血が繋がってる」と言いはなつ。もろもろのエピソードからは原田は、血縁によらない家族の縁を模索しているように見える。原田家の居間は、血縁なき人が自由に出入り出来るようにひらかれてもいた。
『枯木灘』でも『鳳仙花』でも『千年の愉楽』でも『奇蹟』でもなく、原田はなぜ『日輪の翼』の映画化に拘ったのだろうか。

秋幸三部作や『千年の愉楽』などに描かれる、路地の閉鎖的な血の濃さ、中本の一統や秋幸の一族といった、家系によるある種のエモーションの特権化を施す中上の「物語」に対して、血縁に拘りつつも反発するその感覚に共鳴しながらも、原田は疎外感を感じていたのではなかったか。『日輪の翼』は、それまで中上的風土を保証していたオリュウノオバという血統証明を統べる記憶者が、無責任な幾人ものオバらとして分離し分散し、オバらを連れて共に「路地」という特別な場所から離れ、それぞれ他人でしかない朋輩たちの開放的な物語を提示して、中上の次のフェイズを兆していた。その自由な風は、閉塞した映画業界のはしっこで破天荒に映画を撮っていた日活現場の空気に飛び込んだときのあの原初的な感覚に、〈感触〉が重なったのかもしれない。

〈導入された「移動」や「遊牧」の主題〉、〈「路地」にはじめて背を向けた作品で若者たちと老婆たちをめぐるあの束の間の解放感や疾走感〉(渡部)とも評され位置付けられる『日輪の翼』は、中上がアメリカに滞在したさい、故郷を離れた移動労働者のチカーノ達が、冬になるとアイオワからフロリダの方へと移動する姿を、取材で追った、そのイメージから発想された。

荒井晴彦〈最初は僕に(脚本の話が)来たんですよ。八〇年代の終わりかな、それまで俺も忙しかったし、それと「赤バス」問題とかいろいろ良くは思ってないから、若松さんとは没交渉だったんだけど、「シティロード」でインタビューしないかというんで、何年かぶりで千駄ヶ谷に行って、それからまた付き合うようになった。それで「『われに撃つ用意あり』を書かないか」と言うんで、「いや、俺は若松さんのホンは書かないことに決めてる」とは言わずに、僕の弟子の丸内(敏治)を学生運動で刑務所に入っていた奴だから俺より向いてると推薦した。〉

クランクインは90年4月29日。パンフレットのプロダクションノートには「新宿歌舞伎町528時間」とタイトルが。24時間で割ると22だから、撮影に要した日数が22日だったということだろうか。撮休もいれると約1ヶ月で撮ったのでしょう。
若松の知り合いの店、スナック「カプリコン」をゴールデンウィークのあいだ借りて原田芳雄の店「カシュカシュ」パートを一気に撮った。

〈『われに撃つ~』の現場なんか、とにかくずーっと怒ってて。監督が「ちょっといいかな?」って言っても「よくないよ!」で終わり。もう芳雄ちゃん来ないんじゃないかなと思ってると、出勤はしてくるんだね(笑)。それで監督に「どうやるんだ!?」「ここはこうして‥‥‥」「そんなのやらない!」で終わりだから(笑)、どうするのかなと思ったら、「廻せ!」って。「監督か、おまえは」ってかんじでやってるのに、すごくいいシーンにしたんですよ。〉(桃井)

「芳雄はさ、インすると口きいてくれないんだよな」と若松は嘆く。原田は気の合う、酒席を共にするような監督でも、いざ撮影に入ると口を閉ざして、助監督づてにコミュニケーションするというやり方で監督とは距離を置いた。例外は阪本順治監督だった。

歌舞伎町のロケ場面はゲリラ撮影。〈道は唯一つ。無許可撮影、いわゆる隠し撮りである。()アクションシーンが含まれている。簡単にはいかない。そこでひとつのシーンを一気に三台のカメラで追うという方法が採られた。昼間にリハーサルで動きとカメラの位置を決め、夜になるのを待って本番〉というスタイルでの撮影となった。

〈廃ビルに逃げ込むシーンの撮影のときには本物のヤクザが姿をみせ、「お前ら、誰の許可貰って、撮影しとるんじゃ」〉と詰められるというトラブルも。

早朝に撮影したラストの銃撃シーンだったが、同時刻、すぐそばで本当の発砲事件が発生。映画関係者は事情聴取を受けた。

撮影終了し、ポスプロの期間であった6月、出演者の松田ケイジが逮捕され、〈映画そのものの上映が危ぶまれ〉た。〈マスコミは挙って、その俳優の出演シーンのカットについて問い質してき〉たが、なんとかカットせずに11月の公開までこぎつけた。

〈六〇年安保はエリートが指導した運動だったが、六八年は有象無象が行動し実践した運動だった〉(絓秀実)

福間健二は『われに~』の正義の出しかたに対して「最悪」と判断した、となっている。
福間は1968年についての文章で〈1967年10月8日、のちに「ジュッパチ」と呼ばれることになる第一次羽田闘争がおこる。()私もジュッパチに行きそこなったひとりだ。〉と書く。その波を被りながらも、その運動に心身を全ベットしたとは言えない、当時そういう若者だった者がそこにいた。福間は〈有象無象〉のわずか外側にいたとも見える。〈大学生だった福間健二は中核シンパとつきあいながらも若松プロに出入りし〉(四方田)ていた。『われに~』の、運動の最中は果敢に暴力の場に身をさらして一目置かれた男が、当時の仲間が落ち着いてしまったあとも、限りない優しさをもって変わらず暴力の前に立つ、それを正義とする映画の姿勢に、遅れてきた青年は反発するのかも知れない。

中上健次も「ジュッパチ」から衝撃を受けたひとりだった。第二次羽田闘争から〈赤いヘルメットをかぶりゲバ棒を持ってデモに参加し、以降()転戦〉する。
しかし、
〈不思議なことに、彼がゲバ棒を持つ姿は見たが、機動隊とわたり合っている場面は一度も目撃したことがない。警棒や盾で殴られたという話も聞かなかった。〉(川嶋光)
新宿騒乱の年、中上は運動に対する熱も冷め、柄谷行人と出会い、詩『故郷を葬る歌』を書いて詩からも遠ざかる〈この詩を書いたことによって()詩人として生きることをあきらめたのではないか〉(高山文彦)

〈羽田デモのあとは、おれも左翼になってね、()30人ぐらいのセクトを作ってね。一応、ブント系だった。10・21反戦デーのときは現場にいたよ。七〇年になると、新宿もちょっと変化してね〉(中上)

早大ブントの花園紀男が、上京後新宿のジャズ喫茶に入り浸っていた〈いわゆる「新宿フーテン時代」の中上健次をブント系にオルガナイズ〉する。以後、中上はたびたび花園に〈動員〉され、その小さなグループの少数名を引き連れて運動に参加する。
大下敦史によれば、10.21の〈当日、中上は中大(駿河台)に集まり、数千名の一人として防衛庁に進軍した。解散後、自分たちの地盤である新宿・東口に直行し、数万の中のひとつとして、新宿地下行動戦線として活躍した〉となっている。
〈ずっとこだわっていたのは、俺が赤軍に来いって言われて行かなかったこと。()後はセクトに入んないで、集会に行ってただ石を投げてるみたいな〉(中上)

中上はのちに、自分は花園の〈子分〉だと表現する。彼への敬愛とともに、あの運動への参加は内発的なものではなかったという居心地の悪さも、その言葉にはあったのか。
暴力という表現ではなく、言葉という表現へ。〈撃つことのできぬこの俺〉〈ぼくはなぜ書くのか?()なぜピストルではなく万年筆なのか?〉

こちらも同時代に羽田や新宿をウロウロし、運動に触れるか触れないかくらいであったビートたけし/北野武、彼と中上健次はその対談で、当時公開後だった『われに~』について共に否定的に触れている。

〈北野 こないだ若松さんの映画観たら‥‥‥。()あれ観たら倒れたよ俺、ウワーって言って(笑)。この人、真面目だったんだと思ったよ。
中上 いや俺、若松さんはあんなにナンパだと思わなかったね。()もうちょっとシャキッとしてる人かなあって思ってたからね。〉
と、運動の季節に、本腰をいれていたわけではないがその近くにいた、のちの表現者たちが一様に示す、『われに~』への冷ややかな反応。

たけしはこの対談で、こうも言っていた。〈俺だったら、あんな奴を映画の中で絶対出さないと思うんだけど。ボブ・ディランの歌を流されたときには、どうしようかと思ったな(笑)。〉

あんな奴、とは誰のことだろう。「カシュカシュ」の閉店パーティーで、“あの頃”の武勇伝を披露して生徒をナンパする、じつに醜悪な予備校講師の小倉一郎のことだろうか。
「肝心なときはいつも(現場、修羅場に)いなかった」くせにと周りの仲間から揶揄される小倉。醜悪なナンパ野郎=最前線の暴力の場にはいない、という人物造形によって、あの時代その場に身を晒さなかった者を断罪しているようにも映る。
『われに~』における正義の価値観は、勇敢に〈機動隊とわたり合って〉、〈警棒や盾で殴られた〉か否かだと、“有象無象”ではなく“伝説の男”である主人公が示す。直接的な暴力にさらされていない無名の者らを軟弱で醜いとなじるシンプルな価値観に、その時代を通過したかつて若者だった者らが冷たい視線を送るのも仕方ない気もする。

閉店パーティーも終盤、合唱が始まる。「笛ふいてただけ」(=実際の暴力からは距離を置いていた)とこちらも馬鹿にされる斎藤洋介が、予備校の女生徒に近寄り「この歌しってる?ボブ・ディランの“風に吹かれて”。オジサンたちの世代の、賛美歌。」とのたまう、「賛美歌にしてはイイ曲ねー」「そうでしょ。オジサンたちが、全共闘運動やっていた頃の、賛美歌。」‥たけしがどうしようかと思ったと言ったのは、ボブ・ディランを全共闘の懐メロと囲い、賛美歌と言い放つことのミットモナサに耐えられない、ということだろう。

そして福間健二も、このシークエンスにこそ、怒り心頭だったのではないか。福間にとって、ボブ・ディラン〈こそは最大のライヴァルだと思って詩を書いてきた〉詩人だった。

〈「彼方」が見えなくなった一九七〇年代の初め、学ぶべき、着地点を見つけている表現者としてボブ・ディランが見えてきた。そこから私は彼を最大のライヴァルとして詩を書いてきた。〉
〈表現でも政治でも失速と停滞のおこった一九七〇年代前半、()その初期までさかのぼって聴いた。その時点で、出発点でつかんだ強度や柔軟性を、迷いながらも()レヴェルアップして持ちこたえているボブ・ディランがいた。()「初期」が死んでいない。「初期」がなおも活きる通路を確保している。〉
「停滞と失速」の時代を通過して、どう生きるか、どう表現するかというところで、「初期」の「強度や柔軟性」が今も生きている、と感嘆した福間健二にとって、全共闘の賛美歌扱いなるボブ・ディランの固定化ほど、受け入れがたいものはなかったのではないか。

これら〈全共闘世代の繰り言〉場面が、批判的に描かれていることくらいは、彼らも了解しているでしょう。しかし例えば、原田演じる主人公郷田をかつての自分に〈近いものだ〉と感じるライターの橋本克彦が示す、〈だらしのない全共闘くずれどもの会話は、心にしみる〉という感覚とは、違うだろう。

若松と仕事をしたくなくて、この映画の脚本の依頼を丸内敏治に押しつけた荒井晴彦は、中上らと異なり、学生運動やるために大学に行くと決め、オルグされるまでもなく67年春、大学入学式の日に自治会室に行った若者だった。すぐに4・28沖縄デーのデモに参加し、勿論半年後の「ジュッパチ」にも間に合った、“遅れてこなかった青年”だ。荒井は『われに~』を〈ラフな映画だけど、悪くない〉と評価する。〈色んな隙はあるけど、方向としては肯定したいと〉。
荒井によると、原作でもシナリオでも刑事の比重が大きかったのが、〈諸事情があって刈り込んだみたいです。()原田芳雄と蟹江敬三との因果をもっと突っ込んで、男と男の二〇年という時間を超えての再対決という風に持っていく手もありますね。()闘争の傷って抽象化されるけど、誰がやったんじゃなくて、権力だと。だけど、現実には名前があって顔があるわけで〉。

中上健次は『千年の愉楽』自作朗読パフォーマンスイベントで、自分は助詞を抜いて物事を考えていると気づいた、という。誰「が」誰「に」とは考えない。新宿、ジャズ、男のオルグ。数人を連れて、騒ぎのほうへ行ってみた。闘争があり、傷があった。現場にいた。赤いヘルメットをかぶりゲバ棒を持った。ただ石を投げた。そこには、正義感らしきものから発する運動とは別の精神のはたらきがある。

松田優作が生きていて刑事役だったとしたら、〈刈り込〉まれずに当初の予定通り刑事の比重は大きかっただろう。そうしたとき、ラストの原田芳雄との対峙ーー〈男と男の二〇年という時間を超えての再対決〉ーーはどのようなエモーションだったのだろうか。

沖島勲がラストについて書いている。〈シナリオでは、克彦も律子も死んでしまうように暗示して終わっている()然し、映画の方では、この点を()意図的に、曖昧なままに終わらせている。()全共闘の闘士を死なせるのは忍びなかったのかも知れないが〉‥

『われに撃つ用意あり』公開の翌年、91年の9月。脇腹に、腫れと痛みを感じていた中上健次だったが、これは肝臓が悪いと自己判断し、〈酒を控えて肝臓薬のハイチオールとか〉を飲みなどして対処していた。しかし寝たきりになるほどに痛みがつのった頃、〈原田芳雄の奥さんが、それは膵臓なんじゃないかというアドバイスをくれ〉、やっと病院に行く気になる。検査を受けると悪いのは肝臓でも膵臓でもなく、腎臓だった。

翌92年夏、中上健次はかつて「路地」のあった故郷の和歌山でその生涯をおえた。

〈死にいたるうめきをたてるわが故郷よ/俺は夢のような暴力にみたされた朝/おまえを葬る歌をうたう哀れな巡礼者だ〉(中上)


(引用:『1968 [2]文学』『迷路と青空』『俳優 原田芳雄』『風来去』『B級パラダイス』『俺は手を汚す』『若松孝二全発言』『優作クロニクル』『中上健次全集』『中上健次発言集成』『エレクトラ』『思想読本 1968』『1968年文化論』『争議あり』、『映画芸術』BN、『現代詩手帖』BN、『われに撃つ用意あり』『青春ジャック』パンフ)

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