寺山修司論『液体と規則性』
『1 万華鏡、動悸、向日葵』
*
わたしたちは寺山修司を
迷宮の使者、虚構の錬金術師、
前衛の覇者として信奉し、
ジャンルを越境するに勢いあまって、
五十歳を待たずして
彼岸へと跳ねていった
疾風怒濤の人と理解しながら、
しかし
彼の思惑通りに
置き去りにされている。
それも無理はない。
俳句・短歌といった定型詩から、
メルヘンや歌詞、
フィルムに直接彩色する技法で製作された実験映画、
*
恐山を徘徊する白塗りの登場人物たちの長編映画、
はては暗闇のなかで
観客を触りにくる演劇までと、
寺山が繰り出す作品は多岐にわたり、
わたしたちはどれが本当の彼なのか、
どこまでが本当の彼なのか、
それとも、
すべてが彼であるとするならば、
どのように理解すればいいのかも分からないまま
疑心暗鬼となり、
ただ前衛の廃王の前で途方に暮れている。
彼は、
寺山修司という名前は固有名詞なのか。
いや、
*
果たして彼は人物なのか、
機械だと退けてもいいのではないか。
いや、
彼が多彩な作品を次から次へと投げかけてくる
作品投下機械であるのではなく、
ただの万華鏡であると
仮定してみてはどうだろうか。
それを覗き込んだ者にだけ
多種多様の幻惑を可能とする
万華鏡であるとするならば。
そうすればわたしたちは、
彼をのぞき込むことで魅入られていた世界から
自分を引き剥がし、
しっかりと両目を開けて
*
寺山という悲しき玩具を手に取り、
それを分解することで
数個の光輝を放つ珠玉と鏡という
簡素すぎる装置を手に持つことになるのかもしれない。
しかしその代償として、
そのあまりに少ない素材から
壮麗な宮殿を作り上げた
彼の手腕の逞しさに
再び驚くことになるのかもしれない。
寺山はありうるものをあることへと変換できる
未来という空白への動悸を、
太陽に向かう植物に託してこう歌っている。
「一粒の向日葵の種まきしのみに
荒野をわれの処女地と呼びき」(修司)
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