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Nonsense Romance

 その日は朝から庭一面の薔薇が満開になったので、私は出かけるのをやめた。庭は薔薇の芳香と昨晩の雨の香りで充満していた。ガラス窓から庭を覗くのをやめ、廊下に戻る。日本家屋特有の回り廊下。庭の空気がほんのりとにじんでいる。自室へ戻るべく、廊下を進む。日曜日の朝。
 目の前に一匹の黒猫が座っている。昨日まで白猫だったはずの黒猫は言う。
「君は今日、黒いワンピースを着なければならないよ。喪に服さなければならない」
確かに。私は今日、黒いワンピースを着なければならないのだ。しかし私は、そう気付いた時には既に黒いワンピースを着ていた。続けて黒猫は言う。
「満開の薔薇を祝して、君は今日、薔薇の切り花を一輪、髪に挿さなくてはならないよ」
確かに。満開を祝福しなければならない。私は、手にしていた一輪の赤い薔薇を、髪に挿した。これで準備は整った。しかし、重ねて黒猫は言う。
「そういえば君はまだワインを準備していなかったね。案内するからついておいで」
すっかり忘れていた。私はまだワインを準備していなかった。言われるがままに黒猫についてゆく。回り廊下を左に曲がり、木の軋む床をまだ歩く。すると、目の前には、荘厳な黒い扉が現れた。
「今からこの部屋に入るけど、少し暗いから足元には注意するように」
先程までの黒猫は、いつの間にか私より少しばかり背の高い、燕尾服を着た人間になっていた。シルクハットを取ってから扉を開け、私を部屋の中に通してくれた。
 西洋の教会のような雰囲気のある部屋だった。四つの壁には、いずれも大きくて青いステンドグラスの窓が設置されている。部屋に入り込む光が悉く青い。その所為で、これ程までに天井が高いのに、海の底にいるような窒息感を覚える。部屋全体の青が、髪やまつ毛に染み込む。爪までもが青く染まる。
「君が今持っているボトルワイン、このサイドテーブルに置いてくれるかな」
先程まで黒猫だった人間が言った。私は、部屋の中央に進み、手にしていたボルドータイプのボトルを、ロココ調のサイドテーブルに置いた。すると、先程まで黒猫だった人間は、燕尾服の腰に差していた打刀を徐に抜いた。光に呑まれた刀身も、やはり青く光っている。そしてその刹那――打刀はボトルを斜めに、真っ二つに斬った。
 一瞬の事だった。ボトルの上半分は、砕けて床に転がっている。そして机や床に広がるこぼれたワインは恰も血の海の如くしみを作っている。
 元は黒猫だった人間は、赤紫に濡れた刀身を軽く払い、鞘に戻した。そして私に言った。
「では御機嫌よう、また薔薇が咲いたらお会いましょう!」

【この作品はLL Magazine 10月号に寄稿しています】


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