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ep11 グラシアスのオムそば

スーパー「グラシアス」は団地のほぼ中央にある。車で国道沿いまで降りたところに最近できたショッピングモールには超大型スーパーの「スーパーバリュー」があるから、団地の外へ働きに出ている人や、車で買い物に出かけられる人は大抵そっちにいってしまう。スーパーバリューは品揃えも価格もグラシアスとは比較にならないし、漁港から直送する鮮魚のコーナーも人気だ。

コウヘイも同じようにスーパーバリューにでかけてもよかったのだけど、なんとなく娘にグラシアスを見せたいと思って、歩いてグラシアスへ行くことにした。

娘が鳴海ニュータウンの実家に来るのは、これで三度目だ。0歳、3歳の時はもう覚えていないだろうから、実質これが初めてみたいなもの。次に来るのはいつになるかわからないし、そのときにはもうグラシアスはなくなっているかもしれない。

それほど広くない駐車場に車はまばらだった。店内にはでも、思ったよりも客がいた。ほとんどは、カートを押して歩く老人たち。赤ちゃんを抱っこした若い人の姿もある。グラシアスは、車に乗って買い物に行くのが難しい人たちにとっては便利なスーパーになっている。

「ねえ、お菓子見てきていい?」

いいよ、と言うなり娘はお菓子コーナーに走っていった。入ってすぐの生鮮コーナーの棚は、閑散としている。昔はもっとギュウギュウに野菜や果物が並んでいたような気もする。入り口左に併設されていた酒屋はもう閉まっているようで、簡単なパーテーションの奥は物置になっているみたいだ。

豆腐と、レタスと、お肉をもう少し。すぐに目当てのものは見つかった。お肉は東京で暮らすコウヘイの家の近所のスーパーよりも割高な感じがしたけれど、それもまあしょうがない。

久しぶりの懐かしさに店内を見回しながら歩いていると、娘が駆け寄ってきた。

「ねえこれ買っていい?見たことない。」

娘が手にしていたのは、ボンタンアメだ。

「うわ、なつかしいな。でもこれそんなに美味しくないかも。」
「いーの、なんかかわいいから。」

昔ながらのパッケージが、娘にはかわいいものに見えるらしい。

いろんなことが変わってしまった。近所の駄菓子屋もなくなって、バスの本数も、めっきり少なくなったという。父は先日小さな事故を起こしたことがきっかけで免許を返納してから、ほとんど家を出なくなった。久しぶりに孫を連れて帰ってきても、通り一遍の挨拶を済ませたらすぐ自室に戻って横になって過ごしている。

久しぶりに帰ってきたんだし、と近くに住む姉が気を利かせて、お昼を実家で食べることになったけれど、コウヘイは正直なところ、挨拶だけしてお暇すればよかったと、少し後悔していた。

気難しいところはあったけれど、若い頃は快活で知的な父だった。コウヘイがサッカーをはじめるまでは、週末になるとコウヘイをグラウンドや市民プールに連れ出して、一緒に遊んでくれていた。

母がいなくなってからの父は、体が小さくなるにつれて偏屈さが増していって、最近は姉たちもほとんど実家を訪れなくなっている。

「まあいいよ。全部ちゃんと食べろよ。」
「はーい。」

ほとんど空っぽの惣菜コーナーに差し掛かって、懐かしいものが目に入った。オムそば。中華風のプリントがされたタッパーにソースがかかった薄焼き卵が敷き詰められていて、端から焼きそばがちょこっとのぞいている。

「うわ、オムそばだ!」
「なになに?」
「これ、パパが小さい頃土曜日によく食べてたんだよ。おばあちゃんが買っておいてくれてさ。美味いんだよ、これ。」
「へー、買っていこうよ。」

食事を用意してくれる姉には少し悪いと思ったけれど、オムそばを買って帰ることにした。

食事の用意が整って父を呼ぶと、父はああ、と生返事をして立ち上がった。姉が用意してくれたすき焼きと、サラダと、オムそば。

いただきます。静かな食卓だった。しょっぱくない?いや、美味しいよ。サキちゃんサラダは?ありがとう。茶碗に盛られたご飯を半分位食べたところで、父が急に口を開いた。

「オムそば、懐かしいな。お前好きだったよな。」
「そうそう、懐かしくて、つい買っちゃった。食いきれるかな。」
「え、食べないならちょうだい。これ美味しい。」
「さすがサキちゃん。若いね。」

父が一瞬、ニヤリと笑った。コウヘイは涙が出そうになるのをぐっとこらえて、ごまかすように慌ててすき焼きをかきこんだ。

こんな小さなことを、父がまだ覚えていることがたまらなく嬉しかった。

「ボンタンアメ、なつかしい。でもこれあんまり美味しくないよ。」
「それパパにも言われた。」

姉と娘が話している。娘と姉はなぜか妙に馬が合うみたいだ。次に二人が会うのは娘の結婚が先だろうか、それとも、父の葬儀が先だろうか。

いろんなことが、変わっていく。きれい好きだった母がいなくなって、ほこりが積もって、いらないものが増えていく家。そんな家に押しつぶされるように、小さく偏屈になっていく父。父はもう、最近の出来事は覚えられなくなってきている。グラシアスの棚からは少しずつ食品が減っていって、町には空き家も目立つようになってきた。

もう取り返すことのできないものは多いけれど、かけがえのないものが減るわけでも無い。だから変わらないものにすがる必要なんて、これっぽっちも無いはずだ。だけど、ニヤリと笑った父の顔を忘れないようにしたい。コウヘイはそんなことを思った。

コウヘイが父の葬儀で鳴海ニュータウンの実家を再び訪れたのは、それから十年あまり経ってからのことだ。バタバタと忙しい中で寄ることはできなかったけれど、グラシアスがまだ開いているのを車の窓越しに見つけて、安心した。

惣菜コーナー、まだあるかな。そうつぶやくと、運転席の姉が不思議そうに、さあねえ、もう無いかもね。と事も無げに言った。


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