ep2

玄関のチャイムが鳴ったのは22時を過ぎた頃だったそうだ。鳴海ニュータウンよりもずっと北の田舎、Sさんの両親が住んでいたアパートを訪ねてきたのは、昼間の営業の女の子だった。

鳴海ニュータウンの、第二期の分譲。第一期の一丁目は飛ぶように売れて、二丁目の売出しも好調だった。

Sさんの両親はその日の昼間、鳴海ニュータウンの現地見学会に参加していた。玄関にたっていたのは、その時に対応してくれた彼女だった。

「なにを黙って帰らせてるんだ。お前は一体何を考えてるんだって、上司に怒られたんです。」

涙ぐむ彼女への同情が、Sさん一家がこの町に引っ越した決め手だった。

3人目の子供が生まれることがわかって引っ越しを急いでいたSさん一家は、モデルハウスだった家を買った。

小さなアパートから移り住んだニュータウンの一戸建ては明るくて、広くて、楽しかったと言っていた。まだ何も無いリビングに、弟とミニ四駆を走らせて遊んだんだよと、楽しそうに教えてくれた。

営業の女の子に絆(ほだ)されて一生に一度の買い物を決めた両親の人柄と同じく、Sさんも優しくて穏やかな人だった。

Sさんの家は、ニュータウンのほぼ中央、バス停も、中央公園も、スーパーも近い一等地。

だけどSさんは、高台の、どんぐり山のへりの団地にある私の部屋から遠くに見える海を見て、「いいなあ」と言ってくれた。

「私の家からは海が見えないから。こんなに海が近いのに。」

Sさんは頭が良くて、市内の進学校に行った。私は頭が悪いし、うちにはあんまりお金も無いから、私は近くの農業高校に行った。

朝、私がバス亭に向かって歩いていると、バスの中からSさんが手を振ってくれたことがあった。サラサラで、少し明るい、きれいな髪。Sさんの行った高校は、進学校だけど、制服がかわいくて有名。

私は夏休みで、金髪にしていて、ジャージで、ネットで知り合った彼氏のところに行こうとしていた。スーパーまで、車に迎えに来てくれるって。

結局その彼氏とは半年くらい付き合って、浮気されてすぐに別れた。

Sさんは関西の大学に行ったって、別の子から聞いた。きっとサークルに入って飲み会をしたり、バイトで素敵な先輩と出会ったり、おしゃれなものや、きれいなものを見たりしてるんだろうな。

漫画喫茶と、カラオケと、ビリヤードと、ゲーセンと卓球。ニュータウン近くのそんな遊び場は、平日なんて誰も来ない。今日はもうあがっていいよって先輩が言うから、夕方5時頃に仕事を上がって、家に帰った。

部屋が少し暑い。窓を開けると、爽やかな風が入ってくる。バスの中から手を振ってくれた彼女みたいな、風。夕方にはどんぐり山から影が落ちて、町も海も、ゆっくりタバコを吸うみたいに静か。よく晴れて、海がきらきら光っていて、きれい。

Sさん一家が家を買った時の話を教えてくれたのも、確かこの部屋だったな。おかしそうに口をおさえて笑っていた。私にはそのおかしさが、正直今でもあんまりよくわかってないけど、楽しそうに笑う彼女を見て、私も笑ったんだった。

Sさんの家の表札が変わっているのに気づいたのは、その翌週のことだった。彼女の帰ってくる家が、この町にはなくなった。もうこの町を通るバスに彼女が乗ることはきっと無いし、もう一度、私の部屋で並んで海を見ることも無いんだ。そう思うと悲しくて、久しぶりに少しだけ泣いた。

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