リレーとかバトンとかチャレンジとかに乗れない自分

コロナが始まった頃、情報収集や仲間の活動状況(とにかく舞台が一斉に休演していく時期だったので)を知るのに役立っていたSNSだが、だんだん距離をおくようにしている。

「何が正しい」、「正しくない」、「こうするべきだ」、「こうしてはならない」、「もっと怒るべきだ」、「文句を言うべきではない」。
それぞれの正義と善意で、普段冷静な人たちも、感情を抑えにくくなるのがSNS。無理からぬ、私だってここでぶちまけているわけだし。
そんな中でも定点観測的に、「この人はいつも美しい写真をあげる」とか、「この人の日常は地に足がついている」とか、「この人の情報はいつも欲しい情報だ」とか、その人の変わらぬスタンスに安心したりするじゃないですか。
そこにいつも救われているのでしたが。

まるで何かに感染していくように増えていったのは、あらゆるバトンやチャレンジやなんとかつなぎみたいなやつ。
しばらく気づかない、気にしないふりをしてたけど、いよいよゴールデンウィークになって、自分のタイムラインがそれ系で埋まったのを見て、参りました。

現実に立ち向かうためのいろいろな情報を探していて、支援情報(受ける方も送る方も)は急務だし、さまざまなアピールや署名も、必要なものは目を通したいし、知人たちが大丈夫なのか?メンタルやられてない?みたいなことも気になる。

そういう非常事態の中のチャレンジ投稿の数々。欲しい情報や、友人の日常がどんどん埋もれていく。
なんでこんなに多いんだ!?と思ったら、当然ですよね、1人が7人に回すとか書いてある。それに気がひける人は新たにルール作ったり、挙手制にしたり、亜種も乱立してる。

・・・元々子どもの時から不幸の手紙も幸せの手紙も自分のところで止めちゃう筋金入りに回すもの嫌いで(笑)あらゆる「拡散してください」系も拡散できない、非常時には必ず出回る注意喚起的なチェーンメールも、どうにも信用できない疑い深いあまのじゃくな私。

いや、善意だってことはわかるんですよ、ブックチャレンジだって、通常状態だったら、この人どんな本読んでる??って興味しんしんなはず。

でも、どうしてもひっかかる。この非常時に、みんなが同じルールで何かを拡散していこうとしたり、繋がっていこうとしたりする仕組み。絆とか一致団結の系統とおんなじ匂いを感じてしまう。いくら個々のセンスで物事を発表しても、「共通ルール」に収斂されて、中身はそんなに大事にされない気がする。

今コロナの実効再生産数(一人の人が移す数)とやらが2人以上から1人以下に下がったと騒いでいる最中に、このチャレンジ系の再生産数7とかになるわけですよ。
そのことの不気味さを、どうしても感じてしまう。そういうことを仕掛けるのが、本当に善意なのかな??しかも、親しい人や尊敬する人から指名されたら、とっても断りにくいという心理をついてるシステム。

もちろん、そこに参加する人を責めるつもりはありません。好きな本紹介してたりとかすると、時々「うわー!」って嬉しくなっちゃう投稿もある。
でも、私、自分がつながっている人の投稿は、その人らしいものが好きでフォローしているので、非常時でもそのままでいいのになーと思います。
もちろんこういう自分が苦手とするものは、自分から距離をとって自分のメンタルを保っているので、「投稿をやめろ」なんて思わないので続けていただけたらいいとは思うのですが、言いたいことは、

「私に回さないでー!回しても止まるだけ!!」