焦らせるな、社会よ
社会に「憤りを感じ」ている暇はない。
その間にも、私の大事な時間は流れていくからだ。
転職サービスで、「圧倒的成長」を標榜するヘッドハンター達に、「怒り」を覚えたりはしない。
なぜなら、私自身そのサービスに21歳の時から登録しているからだ。
だが、どうしても「自己責任化」が止まらない日本社会に、日々勝手に「焦り」を感じさせられてしまっている自分がここにいる。
これは「自然発生する焦り」ではなく「社会的に醸成された受動型焦り」なのだ。何もしていないことに対する焦りではない。何かに取り組んではいるが、なぜかまだまだな気がする、これをしておかないと後で困るだろう、という根拠もさしてない焦りなのだ。
内心は、麗らかな春の日差しに包まれ、ゆっくりと流れていく時間に身を委ね、古典を読んで「なんと美しい文章だろう。私の今は、これだけで充足している」と感じていたいのに。だがその手に持った本の隣には積読中の薄い内容のビジネス本があり、否応なしに震動するスマートフォンで時間を確認する度にメールボックスを開いてしまう。そしてまた流れてくる、
「このままじゃ不安? 副業の始め方」
のDM。最近増えたよね。自分の時間を売って始める副業のサービス。
人間は、一度成長を志すと、その連鎖にとらわれてしまうのだろうか。
なぜ、社会的に醸成された「焦り」は私達をこうも食い物にするのだろうか?確かにある程度のお金は必要だ。努力への対価も欲しい。だが、それは私の内面的からくる渇望なのだろうか?社会に作られた、「受動的渇望」なのではないだろうか…。そう考え、私は怖くなった。
そんな私が、最も不安や焦りを醸成しやすい現代のメディアについて生き方について思うことがある。曲がりなりにも社会学修士を持つ私は大学で、いかに「マス・メディア」が国民の不安につけ行って洗脳することが出来るかを、痛いほど聞かされてきた。
まずは、生き方について思うこと。
2016年に発売されてから2年後に32万部の売上を達成したリンダ・グラッドン、アンドリュー・スコット共著「ライフ・シフト 100年時代の人生戦略」が「パラレルワーク」や「自己投資」について新たな生き方を提唱し、一つの時代の転換期だったと言われているが、一方でその4年後、空前絶後の大ベストセラーとなっているオリバー・バークマン著「限りある時間の使い方」が昨年11月の時点で30万部を突破し、今でも高値で売買されている。
4年で、「長い人生、出来るだけ努力をして将来に備えよう」から「長い人生、かけがえのない時間の大切さを噛み締めよう」への変化である。
いや…たったの「4年」で皆だいぶ疲れていないか? 私は思った。
勿論、彼の著が、ビジネス書を普段から読む層の中で「異質なもの」として面白がられている可能性はある。だが、著者自身記者として「最適化」を求めてきた鮮烈な体験をもとにした牧歌的なテイストの「限りある時間の使い方」のヒットは、今の時代の疲弊感、「焦り」に対する反発を背後に感じざるを得ない。
更に、私は最高にこの本にテーマが合うと思っているのだが、米国では「カントリーソングは終わった」と言われている中、彗星のごとく現れたZach Bryanによる "Something in the Orange"がもう半年近くSpotifyのTop 100に残り続けている。
Youtubeに寄せられた、一人の男性のTop Commentに全てが詰まっているのでぜひ読んでもらいたい。
この曲のヒットを目前にして、遂に多くの現代人に、漠然とした不安があることが表出化したのではないのだろうかと思っている。
国内のSpotify自体のTop Songリストに目を移せば、豪速球でTopに「登り詰めた」YOASOBIの「アイドル」を筆頭として、1週間に1回の確認ではもう追いつけないくらいのペースでアーティスト達が非常に良質な音楽を産み出し続る一方で、「小さな恋の歌」や「気分上々↑↑」のリメイクが20代後半から30代前半の私達の心をつかんでゆく…。私達の心は、娯楽への大衆的憧れと享受と、今よりほんの少し時代の流れがゆっくりであった古き良きものを懐かしむ懐古主義の間で揺さぶられている。
続いて、お金について思うこと。
少し前に流行った厚切りジェイソンや両学長による「金融知識のリベラルアーツ」化、最近電車広告でも良く見るようになった「年収300万円でFIRE」「億り人」の投資本達。いつの間にか金融知識は常識の一つと貸し、まるで新興宗教や「怪しい」自己啓発セミナーにしか思えない「iDecoがわからない人へ」「NISAがわからない人へ」セミナーが大量にSNS上に流れるようになった。
それを知ってか知らずか、私の母親は元から雀の涙ほどだと言っていた手元の資金で米国株投資を始めたらしく、この1年、1日単位で株価をチェックし、一喜一憂していた。50代で現役事業主である母親を見て、私は悲しくなった。無難な長期投資について教えたかった。だが、時間もそこまでの熱意もない母親は、無惨に投資額の増減を見て、しょんぼりとしている。
「そろそろ始めようかな」と「焦り」を感じた母親は、知識を授けられる場所も時間も無く、射幸心を煽られ、心が落ち着かない。
何も、将来に備える為、老後の資金の為、投資によって若いうちから増やしていく流れに抗おうという訳では無い。実際に1億1千万円の資産を持つ日本人は23人に1人いるらしいから、「ふーん。私は困らないけど」程度に思う人もいると思う。ここで問題なのは、言わずもがな生活に苦難を強いられている人々、そして「何とか貯められそうだけど今から何とかしなきゃ」と焦らされる人々である。私の母親のように。
だが、いつの間にかお金について、メディアに不安を煽られる時代になっている。しっかり個人が投資について勉強すれば知識としての備えとなるし、NISAで推奨され、緩やかに成長し続けるインデックスファンドが存在することも事実だし、若い世代から少しずつ投資をすればシミュレーターを使用し到達額も用意に計算できる。長年研究されてきたメソッドへの投資自体は、大博打を打つようなことにはならない。「ファクトフルネス」が重宝されるゆえんでもある。
だが、私は最近気づいた。
圧倒的事実と、不安は切り離して考えなければならないということに。
事実によって安心させられるほど、社会の圧力は弱くはなかった。
ときに娘の話も耳に入らなくなってしまうくらい、「不安」が人を盲目にしてしまう。
最後に、仕事について思うこと。
私は、新卒で「若いうちから成長出来る」という言葉に誘われ、外資企業に入社した。就活中は、将来への不安から、もうそれ以外考えられなかった。このときから、私は名前のない病に侵されていたらしい。私には、ゆっくりと何がしたいか、等考える時間はなかった。
就職活動では、「裁量権」「2年目からマネジメント経験」「次期マネージャー候補募集」等、若者の「成長意欲」や「社会人への不安」を掻き立てるようなメッセージが犇めき合っていた。実際に、そう書いておく事によって、学歴も実力も文句の無い学生が、集まってくるらしい。
あれから3年が経過した。
26歳になった私は、会社の中の仕事内容と、「世間が求める」成長度合いとのギャップに悩むようになる。また、どこからともなく声が聞こえてきた。「不安を解消するために、より成長できる場所を見つけろ」と。私は真顔で転職サービスに登録していた。「月単価100万円」の「DXコンサル」の横文字に、惑わされる。どうやら、コンサルの採用担当者によれば、20代の頑張りで30代が決まり、それ以降は頭打ち、らしい。20代から、「成長すべく」頑張らないといけないらしい。じゃあ、なれば、不安は解消されるんだよね?もう、藁にもすがるような思いだった。
早朝まで履歴書と職務経歴書を修正し、
カチカチッと応募を出す。10社。15社。
これって、「私が」したかったことなんだよね。
社会に、惑わされていないよね?成長の病に、侵されていないよね?
はあ。
内心は、ただ静かに、1ヶ月でも2ヶ月でも、本を読んでいたいだけなのに、
だが、誰も、いや、自分自身が、そうさせてくれない。
いつから、私はこうなってしまったのだろう?
深呼吸をし、再び本を開いていた。
村田沙耶香の、「コンビニ人間」を読む。
白羽の、「僕を世間から隠してくれ」という言葉が痛切に心に響く。
息が詰まる思いだった。社会不適合者として描かれた白羽の言葉が、全く他人事のように思えなかった。今の時代だからこそ、「何も悪いことをしていない」、生きているだけなのに、社会からの声が聞こえ、背徳感と言うか、自分が誰にも惑わされず、安心出来る場所が、欲しくなる。
それから宮本輝の「泥の河」。
「時代に生きる」本。一行目から、ありありとその頃の様子が思い浮かぶ精緻な描写。これまで読んだ文章の中で、最も引き込まれる妖艶な日本語表現の宝庫だ。もう、この本だけあればいい。この本があると知っているだけで、私は救われる。読み返すたび、私は本気でそう思う。
私の人生、少しの時間と本と、お金さえあれば良い。
人にやさしく、出来るだけ人を救えるように。
それだけで良い。毎日私の心はそう言う。
落ち着いている時、じんわりとその思いが湧き上がってくる。
それは数分後には消されてしまうが、あの満ち足りた感覚。
きっとそれが本心なのだ。
だが、本当にゆっくりと生きることを、今の世間が許してくれるだろうか?
リトリートや田舎暮らしでさえ、ビジネスと密接に結びついていないだろうか?才能は、活かさないと無駄になってしまうのはわかっている。政治を改善していく為に、声を挙げなければならないこともわかっている。
発信する内容が、人の心をときに扇動し、時に癒やすこともわかっている。
私は何度も思う。そんな時代で、誰かを救う側の人間になれるのだろうか?
いや、心の底では、なりたいのだ。
今の時代で、本当に「受動的焦り」を感じることなく、心の安寧を求めるには、もたらすことが出来る人になるには、どうすべきか…。不安を押さえつける圧倒的事実の収集なのか。快楽主義に陥るべきなのか。それとも、慎ましく、マインドフルネスを鍛えるべきなのか。久しぶりに社会学に立ち返ったり、「嫌われる勇気」を読んでみたりして、答えを模索している。
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