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「生まれかわるつもりがあるならむしろカラッポのほうがええ」という台詞に救われた話

今年の10月、26歳の秋、これまでの自分の価値観を覆されるような事件、いや転換点を経験してから、私は文章がすっかり書けなくなっていた。noteに文章を書く時、おそらく執筆者のほとんどが、「無名の不特定多数に少しでもいいから読んで貰って共感を得たい」と考えていると思う。そしてその裏にあるのはおそらく、自身や自負、教養や知識、誰もしたことのない経験だ。おそらく一番大事なのは、「自信」

参照:Newtype対談記事

私は最近まで、文豪ストレイドッグス第一シーズンの主人公・中島敦の決め台詞、

「人は誰かに生きていいよと言われなくちゃ、生きていけないんだ
 簡単なことが、どうして分からないんだ!」

文豪ストレイドッグス シーズン1

多くの人に刺さるといわれるこの台詞がどうしても解せなかった。
文ストの中島敦は孤児院出身で修道士に虐待を受け、傷だらけの状態で逃げ、路頭に迷っていたところを仲間に救われたという背景を持つ登場人物だ。私は勿論そういった過酷な過去を持たないので状況が違うという前提はあるが、別に私は両親や友人達、職場の誰にだって「あなたは生きていていいんだよ」、やそれに近い言葉を言われたことなど勿論ない。

だから全く実感が湧かなかった。自分の置かれている状況を認識するまで。2か月も前になるが、10月に一度、価値観の違いで大事な人を傷つけ、失ってしまったという事実について記した。少し長くなるが、聞いて欲しい。

目の前の大事な人の思想と価値観を本当に理解することが、26歳の私が乗り越えなければならない人生で最大の試練だった。その上で、自分がしたことの過ちを素直に認めて反省すること。

大の大人である私は、これができなかったのだ。

ニューヨーク・タイムズベストセラー作家 Mark Manson は、「成熟」した状態をこう定義している。

"Maturity is being able to consciously choose your values and then act on them, regardless of the pain or sacrifice involved."
(成熟しているとは、自分にどんな痛みや犠牲が伴おうとも、常にあなたにとって大事なことを注意深く選び、そのために行動することだ)

私はまだ、大人でさえなかったのかもしれない。

本当に愚かな行動をしたと思う。
口が強い私は、何度も何度も、売り言葉に買い言葉で言い返したりもした。
自分の考えを一旦置いておいて、相手の考えを受け入れること。何故私はこれができなかったのだろう?これからだって、他者との価値観に大きな乖離が生まれることは人生で何度でも出くわすことだと思う。その原因は、生育環境。社会から受けてきた影響だったりするわけだが、私は「自分が正しい」と主張し続ける意固地な暴走機関車になっていた。

社会学の授業で学んだことがある。「LGBTQの考えにおいては、自分と違うジェンダーオリエンテーションを持つものの考えは、残念だが一生本当の意味では理解できない」らしい。自分と他人との間に、それくらい本質的に違うものが「ある」にしても「ない」にしてもまず「自分」を一旦切り離さなきゃいけないじゃないか。

そうして、私の心は、自分のこれまで生きてきた中でよすがにしていた他人によって成り立つ自分から一度切り離して、一人で再び旅発つことになった。

本当に一人で何かを考え始めた時、私の心は如実に形を現し始めた。

臨床心理士でエッセイストの東畑開人が、心は一人の時に宿る、と言ったように。人間特有の「クオリア」と「孤独」は表裏一体だ。
思い返せば私の周りには、いつも自分を気に掛けてくれる人がいた。不安は薄まって、どうでも良くなっていることがほとんどだった。
東畑氏は、不安には四則演算の法則は通用せず、「1+1=0.5」という。二人いれば、不安は半分になる。だから。

私は本当の意味で、一人で考えたことなんてなかった。

私達は普段、心のことを考えない。バンド仲間と「LOVE YOU ONLY」を熱唱しているとき、あるいは家族の支えのもとに忙しく子育てをしているとき、つまり周囲にふんわりと包まれているとき、私たちは心のことなんか忘れて、働いたり、遊んだり、愛したりしている。それで十分だ。

だけど、ときどき、そこに亀裂が入る。たとえば、子供が独立し、夫が定年を迎えたとき、心に空白が生まれる。「なぜ一緒に居るのか」と疑念がよぎる。それが「このままこのグループに(省略)居ていいのか」という疑念のときもある。家族や組織やグループ、つまり「みんな」から離れたところで、ポツンと一人になるときがある。そのとき、私たちは心に向き合い始める。私は何がしたいのか、そもそも私とは何か、そういう問いがやつてくるのだ。

「心はどこへ消えた?」 東畑開人 (p. 100)

幼少期、両親が家にいないときはずっと祖父母がいた。大人になっても、実家に住んでいた時はいつも家族が家にいた。私はずっと、守られて生きてきた。一人暮らしを初めても、恋人や友人に。

だけど、一人暮らしを始めたからこそ、私は本当に一人で自分を見つめなおす術を初めて学んだ。いや、今も学んでいる途中だ。
悲しい時、苦しい時、やるせない時、人は酒に頼るというが私は飲めないのでそれも出来ない。頼りにしていた友人とは決裂した。実家ばかり帰っているわけにはいかない。気晴らしに何をしようにも案が浮かばない。
仕事は何とかできるが、帰宅しては何もせずにただ寝る日々の繰り返しだった。そうして、私はふと、文豪ストレイドッグスの中島敦の冒頭の台詞を思い出す。

「私は生きていていい」

という証を、今までの自分の行動と、それから得られる社会からの反応と、家族、つながってくれている人達に、ひっそりと、探し始めた。

人ばかり頼ってきたわけじゃない。沢山の本を読んだ。好きだと言える実況者にも出会った。少しずつ、これまでの私の部分を入れ替える、一人で見つけた何かが、私を満たしていく。
その感覚が分かるようになってきても、やはり夜などは寂しくなってしまう。そんな時は寝る。を繰り返して、何とか私はここまでやってこれた。

寝るのが不安な時は、アニメを流し見した。
そんな中でも、本当に出会って良かったという作品に出会ったことも何度もあった。特に今年の後半は本当に素晴らしい作品と台詞に出会った。それだけは何事にも代えがたいのは間違いない。その中でも特に、

Netflix上で、2023年の前半6カ月で視聴されたすべてのアニメの中で5番目の視聴回数を稼いだという速報がX上で流れた「ヴィンランド・サガ シーズン2」。

https://vinlandsaga.fandom.com/wiki/Season_2


シーズン2では、主人公トルフィンの自分の過去との孤独な闘いが描かれる。24話の話の全てに通底しているのが、一人の孤独な闘いだ。
これほどまでに生々しく、常人には到底理解しがたい複雑に絡み合った彼の絶望を描き切り、それからの再生と希望まで導くストーリーは絶対に作者の幸村誠氏にしか描けない世界観であるのは勿論のこと、このストーリーが、不思議とぽっかりと心に穴が開いた穴を、満たしてくれる。

ネタバレは防ぐので省略するが、トルフィンが話の途中、過去に犯した過ちの重大さに気づき、

「憎しみがなくなったらオレ…カラッポだ」

ヴィンランドサガ・シーズン2

という台詞をこぼす。

この台詞の重厚さ、茫洋たるどうしようもなさを理解するには勿論原作を読むかアニメを観るかしてほしいのだが、その後に出会った、彼の仲間、スヴェルケルの台詞が、私が一生大事にしたいと思える台詞だった。

カラッポなら何でも入るじゃろう
生まれかわるつもりがあるならむしろカラッポのほうがええ

ヴィンランドサガ・シーズン2(10巻目)
https://www.shoshosein.com/personnage/vinland-saga/sverker


「生まれ変わるつもりがあるならむしろカラッポのほうがええ」。
一見あっけらかんとしたように聞こえるが、人生の核心をついている。
救いがあり、優しい。希望へと一歩、足が向くような力が湧くような。
私の今の状況に、ぴったりとまではいかないが、重なる部分があった。

もし、これからまた、新たな自分を築けるなら、一度捨ててしまったその状況を悔いなく、入れ替えていけるだろう。そう悩んでいた時に、カラッポで行けばいいのだと背中を押してくれた言葉だった。

私は勿論、今までの自分の全てを否定するとか、そういったことではなく、この社会を、大事な人達と、素敵だと思える何かと折り合いをつけてうまく生きていけるように少し変わっていきたいと思っている。
いつかはまた、noteでも自信を持って文章を書けるようになるために、私はこれからも筆を執り続けようと思う。

それこそ、過去のことは一旦置いておいてnoteを書けばよいのだが、愚直な私はそんなことはできなかった。この場があったことを、私は凄く感謝している。ほぼ2年になるが、続けてきてよかった。

最後にだが、
私が今回書こうか少し迷ってそれでも書こうと決心したのは、私が最も尊敬する現代作家の一人である小川哲さんの最新作、「君が手にするはずだった黄金について」に、彼の小説家としての価値観が現れていたのを目にしたことからだった。

小説家に必要なのは才能ではなく、才能のなさなのではないか。普通の人が気にせず進んでしまう道で立ち止まってしまう愚図な性格や、誰も気にしないことにこだわってしまう頑固さ、強迫観念のように他人と同じことをしたくないと感じてしまう天邪鬼な態度。小説を書くためには、そういった人間としての欠損ーある種の「愚かさ」が必要になる。何もかもがうまくいって、摩擦のない人生に創作は必要ない。 

 君が手にするはずだった黄金について p.140

結局のところ、「何かが欠けている」状態であること、そこから文章は生まれて、それを形にする気持ちが少しでもあってそれが自分、または自分以外の誰かの為になるのであれば、いやならなかったとしても、書く、「創作」という行為には意味があるのだなと思えたから、私は敢えて書こう、そう思ったのである。摩擦から、創作が生まれた。

小川哲さん、ありがとう。
私に摩擦をもたらしてくれたすべてにも、これから付き合ってくれる人達にも、感謝をささげてこのエッセイを閉じたい。

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