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【INFJ x HSP】市場化した繋がりで思うこと


プロローグ

美しいものをみて、美しいと感じるあなたの心が美しい。

恋愛市場

マッチングアプリが世に出て久しい。一般化したことが素晴らしいと思う一方で、市場化したことによる弊害が至る所で見られるようになった。
マッチングアプリ疲れという言葉が出てきたように、男性側女性側どちらも固有の悩みを持つようになった。
女性が選び男性が選ばれる構図が生まれたのだ。
自然恋愛を思えば、最初から恋人探しの観点で見ず知らずの人と接することが意味するのは、自身の人を見る尺度や価値観がよっぽど備わって確固でない限りは、その多くの例において数打てば当たるを体現することになるが、選択した数だけを打つように選ぶようになる。

ステータスに挙げられる条件が自由に選べれば選べるほど、進んで妥協する意義も薄くなり「いい人はいない」と嘆くこともあれば、ステータスを築くべく日夜努力に励む人も生まれる。

人は、商品ではない。
しかし、恋愛市場において異性は陳列された品々と化す。

視覚的情報が人にとって受け取りやすいもので、殺到するアプローチと宣伝文句を見ればさながらマーケティングと同じ体裁が見て取れる。
合わなければ次と候補者を選択するオーディションにもなれば、自身に見合う人を選び取る採用面接にもなる。

圧倒的に表面的判断材料で人が選び取られる様を見ていれば、エピソードありきで好意に繋がる内面的魅力や良さといったものは前提条件を敷かれたことで築かれにくいものとなった。

無難で当たり障りなくパッと良さが伝わる大衆向けポップ音楽と同じく、ニッチなジャンルは受け皿となる需要も供給も乏しいように感じる。

真摯にひとりと向き合うより様子見で複数人と関わる方が結果として目的の達成に繋がることもそうだが、求めている優しい人が100人いる中で本当に優しい人が1人のとき、本当に優しい人が選び取られる確率は数字通り1%未満だと胸を張って言える。

これは選ぶ側が未熟であるとか良し悪しが掴めないといったものではなく、それだけ一見して分かるようなものでもなく、表面的判断で選びとれるものでないところにある良さであるからだ。

多くの人に伝わりにくい良さを持ち合わせることは、恋愛市場において茨の道を進むだけのように感じてならない。

仕事上の特筆したスキルに市場価値が当てられ、個人としての能力値が高いほど企業から手放し難く喜んで迎えられる人材となるとき、恋愛市場に於いてピーキー過ぎる性能は拾われることなく埋もれるだけに感じる。
或いは、殊INFJやHSPに話を絞れば、搾取される側の立場として対等でない関係に身を焼かれる思いを重ねた人はRedditを見ても枚挙にいとまがない。

男性視点に限った物言いをすれば、分別も見境もなく片っ端からラブコールを送ることが戦略ではなく生き残りの術となっている。
我々は選ばれる立場に属し(尚且つサービスの肥やしになってると思えば)、競争社会に勝ち残るスキルを持ち得ることが必須に近い中で、内向的で思慮深いような輩がどれだけの優位性を誇るのだろうか、といった所に落ち着く。

持てる多くの可能性に於いて、不利かどうかで語ることより、不得手な環境で夢見る子羊のような脆弱性を潜在的に有していると感じる。
無論、だからと言ってそれを良しと認めて引き下がるわけにもいかずに、あれかこれかと面接対策と自己アピールに臨むわけだ。
ここに、自由恋愛の終わりとred ocean化した恋愛市場の限界を、商品化された繋がりを寂しく思う心地が存在する。

内向性が故に

「恋人を探しているならアプリを使おう」は1つの手段から市場へと変わってしまった。
内向的な男性諸兄に対象を絞れば、星の数だけいるのは我々なのだと、未婚率の高まりや草食化が進んでいるのは他にならない、何をどう尽くそうと乗り越えられない壁が立ち塞がっている訳であって、向こう岸から運良く舟が訪れない限りは渡れない河なのだ。
HSPに視点を置けば、およそ男性的魅力からかけ離れた位置に存在する感受性・共感性の高さや繊細さは、その素晴らしい特性や魅力はさることながら、知見深まれば高みが見えなくなることと同様、超人となるか哀しさに心砕かれるかの瀬戸際に立たされているようにも思える。

取っていくばかりで満足に返されることがないことが世の常と思えば、あなた方は見返りなく与え続けることができる才覚に恵まれている。
そんなあなた方を受け入れて包み込む心の持ち主、安らぎをもたらす人は限りなく母数が少ない。なんなら、INFJやHSPであることの希少性よりも稀有だろう。

ダーウィンの妻のような、清兵衛の朋恵さんのような。
女性に夢見る男性が陥りがちな罠として各々実態と実情を学んで酸いを噛み締める結果になる訳だが、ある一定のラインを越えるとここにもどうしても相容れない一線があるように感じてならない。
過ぎたるは及ばざるが如しと言えばそれまで、自身の意思や行動に関わらず積極性を持ち得ても運に勝る実力はないと言い切れれば楽だったのか。
自身の身の丈が繋がりを得ることが叶わない境地であるように感じる生涯を送ることが揺るがない事実に思えて現実が苦笑いする時、何を伴侶とすれば良いのかと問う人もいるだろう。

パパ活市場

着眼すべき面白さは、構造的に前者も自明の理ではあるが、こちらも飽和化しつつあるのかもしれないが、選ぶ側と選ばれる側が逆になっていることだ。
面白いと感じる所以は男女のつながりという視点で両者を比べた際(目的からして自明なことはさておき)、ここまで違うのかとハッキリ見て取れるくらい男性優位の構造を成している。
マッチングアプリという名の標榜に唆されて『あれれ?』となった愚かさはぜひご笑納頂きたく、逆に足を踏み入れたことでかえって無常さが増す結果に終わったことも加えて書いてみたい。

少し前までマッチングアプリが「出会い系」であったなら、パパ活は「援助交際」だ。どちらも(片方は然るべき)世間体としては受け入れ難いものだったが、両者とも社会に浸透して普遍化してしまった。
「レンタル彼女」「レンタル彼氏」があった頃が懐かしいくらい(今もあるのかもしれないが)、風営法に引っかからない以上はれっきとしたジャンルなのだろう。マッチングアプリにロマンス詐欺が流行ることを思えば、パパ活の方がかえって上手く線引きできていると思わないこともない。

あくまで異性との繋がりという入り口だけで捉えた際に;
・圧倒的女性優位
・圧倒的男性優位
の2つが現状世の中に存在している。
「女性側から声を掛けてくるケースは絶対に相手にしてはならない」というのは一種の暗黙の了解のようなもので、それだけ男女の関わりは特異なケースを除けば一般的に男性が追いかけ女性が応える社会だった。
それも古き価値観だと取っ払おうとする試みはあるが、平等などという概念が成り立たないというより平等は存在しないといった方が理解しやすく、均等と置き換えた方が公平であるように感じる。

瀬戸際まで考えても結局妥協することができなかった(倫理的・利用目的の観点から)訳ではあるが、こちら側は明確に「夢を叶えるための支援者」が「支援相手」を求めているのが基本構造だ。

恋愛市場に身を置いて満足した人とのつながりを築くことも見出すこともほぼほぼ不可能なことが目に見えているのであれば、パパ活市場に身を置いて搾取されるのではなく支援することに価値観を変遷させれば「大切に思う相手が成長して夢を掴む姿」を応援することができるという、献身的な性格気質に対する1つの答えなのではないかと方や錯覚し掛けた訳である。

そもそも他者への思い入れや大切なものへの関わりが深いのであれば、そもそも支援する側に成りきれない(どこかで情を抱く)から身の破滅だと、結局はwin-winの関係でしかつながりは存在し得ないのかと深く己が身の愚かさに悲嘆する。

しかし面白いと言えば皮肉にも自虐的にも映るが、本来の利用用途と異なる形で身の回りの生活に役に立っているちょっとした家具や物があるように、INFJやHSPといった気質が活かされる場がないのであれば、良きパパになることは資本社会に於ける資源の有効活用であるようにも感じる。

そこまで割り切って振り切ることが出来ないのは、未熟さや生半可な年齢であることは言わずもがなであるが、結局持って生まれた気質に真っ向から反する取り組みであることが最たる所以である。

大切に思う他者への奉仕を厭わないだけであって、他者への奉仕を切り取って利用できるほど便利に出来ていない不器用さを覚える。

仕事や身内といった大義があればともかく、ハッキリとした金銭的繋がりを意識すればするほどに誤った道であると道義感が疼く。(これは役者が役になりきれずに素のままで演じることと等しい。)

物は試しと誰かの何かの役に立つことを選んだとしても、必ず深入りして望まれぬ情を抱くだろう。
ここでも望むつながりは得られないだろうと気づくに至った。

エピローグ

満足した愚か者であるよりも、満足しないソクラテスであるほうが好ましい

飽和市場の果てに望むもの

お互いに理解し、尊敬し、支え合い、共に成長して二人の未来へと手を取り歩む人を見つけたい、または見つけてもらいたい。
6歳児のような願いであると言えばそれまで、だったら理想の職場を探す人の何割が理想の職場に行き着くのかという問いと同じことのように感じる。
職場ガチャ、上司ガチャ、姑ガチャ、親ガチャ…etc
当たりを引くまで回し続けるしかないことに変わりがないことは受け入れつつ、INFJやHSPが心地良さを感じる関係性は宝くじの一等並に難しいことがこの上なくなんとも言えない。

感受性の高さがダメなのか、共感性の高さがダメなのか、理解力・想像力に優れたことがダメなのか、繊細さがダメなのか、譲歩できることがダメなのか、歩み寄る姿勢がダメなのか、優しさがダメなのか….etc
普通でないが故に普通に生まれたかったといっても、左利きですら右利きに合わせて生きていく訳である。
持って生まれた才覚があるのであれば、限りを尽くして全うすることが責務といえば厳しいが、Blessing and a curseとメソついても良くて、それでも負けずに強く生きろと絶えず自身を鼓舞するよりないのかもしれない。

転勤を重ねて繰り返す出会いと別れに、新天地で迎える初めましてに常に余所者のラベルを貼られることとなり、それでも、そんな中でも掴めた友情や家族に迷惑掛けまいと言い訳を並べるより出来ることや得たものへの感謝と自分が目指すあるべき姿を突き詰めた結果、向き合い続けることが1つの解であると。

ハンディキャップの強さや大きさが時に才覚の源泉になると思えば、もともと考え深いところに考えざるを得ない状況が常に持ち運びこまれたことは良き試練であったとも言える。

悩みや解けない問題が尽きることがないことに不満を持つのではなく、この先も一人で向き合い続けるしかないのかという疲れと哀しさがある。

生きてきて良かった、生まれてきて良かったと喜びや生を実感できる機会がとてもシンプルな一方で難しいことに、理解に集約されている訳である。

異郷の地で自分と同じ母語を話す人に出会ったときに覚える喜びがそれに近い、詰まるところ「僕は一人ではない」と感じられることが幸せであれば、「一緒に同じ道を歩む人がいる」ことが幸せの極致である。

評価されずとも価値の本質は変わらない訳ではあるが、評価あって初めて価値は伝わる形になる訳である。
ただの絵なのか歴史的価値を持つ絵なのか、象徴的価値を持つ絵なのか。

いつも一人だったが故に、二人への感謝や気遣いや思い遣りが尽きない訳である。変わらずに注げる無尽蔵な愛がある訳である。

時として、その強さが故に一人なのではないかと弱点であるようにも感じる。しかし、幸いなことに大それた人間でないと思えば、取るに足らぬ存在と思えばこそ希望はあるのではないかと愚かなまでに夢を夢で終わらせたくないと足掻くのかもしれない。

蛇足

京大の方に「あなたのような人になりたかった」と言われ
音大の方に「今まで聴いた中で最も美しい声だ」と言われ
メンサの方に「世の9割には伝わらない良さを持つ狂った人だ」と言われ
年配者に「人生何周目の落ち着きと思慮深さを有している」と言われ
出会った人に「今まで出会った中で一番変わっている」と言われ
親しき友人に「知り合った人の中で比較先のない天才」と言われ
同僚に「どこに行っても重宝される手放せない人材」と言われ
老師に「この上なく優しくて気遣いができ魅力的な人だ」と言われ
ある人に「人と変わっているところがあなたの最大の魅力なのだ」と言われ

それでも、たった一人の大切な人と相思相愛になることが叶わない。
探し求めるには数多の選択肢に埋もれてしまい、見つけてもらうには一際難しく、時を費やしては実らぬ生涯もあると割り切れぬ心地に涙する日もあり、それでもあまりに人間的であると弱さや情に翻弄され、今日も1日を生きている。

継続以外に取る術がない先は万事に通じる訳で、焦る気持ちというより、ただ喜びを分ち得る機会が訪れればこの上なく幸せだろうと。
はやる気持ちと言うより、往々にして弱目に負けて挫けそうになっても前を向き続ける訳である。
それでも自分は不出来で不器用であると、ときに哀しさに目を向けることを大目にみて許してあげてほしい。


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