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読むことのスキゾフレニー、積むことのパラノイア


本が読めなくなった。

何冊も新刊を買うのに、月に1,2冊。多くても4、5冊くらいしか読めなくなった。漫画でさえ読めない。買って積んでいるタイトルが複数ある。

大学生のときはそうではなかった。大学生のとき、バイトをしていなかったので、時間と暇だけは無限にあって、その時間で読書をするのが好きだった。

舞城王太郎や伊藤計劃、森見登美彦、重松清などを読んでいた。いかにも大学生らしいラインナップだと思う。オタクだったけれども、見栄っ張りだったのでライトノベルはあまり読まなかったが、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』だけは読んでいた。インテリだと思われたくて、ポピュラー・サイエンスや人文系の新書や批評の本なんかも読んでいた。

デリダとかフーコーとか難しい本はちょっとだけ読んで、あまりにも頭に入ってこなかったので、読まなくなった。解説書だったり、軽めの批評・人文書かビジネス書入門書はたくさん読んでいた。ウィトゲンシュタインと『存在論的、郵便的』だけは頑張って通読した。東浩紀のファンだった。


バイトをしていなかったので、もちろんお金がなかった。ほとんどの本はすべてブックオフかAmazonの中古、大学生協の割引で買っていた。2017年くらいまでは258円あればネットオフでだいたいの小説を買うことができた。

お金がないのでハードカバーとか単行本は買えなかったけれど、楽しかった。


■就職1年目(1) 買えなかった本を買う

卒業して就職先が決まり、池袋に引っ越した。池袋に引っ越したのは、巨大な本屋があるからだった。ジュンク堂書店池袋本店。その横に三省堂もある。西武百貨店に入っている三省堂の内部構造は複雑怪奇だった。ジュンク堂の方がシンプルで、売り場面積も広い。研修所が目白にあったので、帰り道にジュンク堂に通うようになった。


仕事をするとお金がもらえる。

労働をし、収入を得るというのは、非常に刺激的な成功体験だ。そうした成功体験を自分ごととして実感するために、これまで買えなかった本にお金を使うようになった。

手が出せなかった単行本。

2019年頃、哲学では「加速主義」とか「思弁的実在論」、「人類学の存在論的転回」というタームが流行っていたので、それに関する本ばかり買って読んでいた。『現代思想』も、買った。生まれて初めて。2019年5月号は加速主義特集で、海外の邦訳が紹介されていた。ふつうの雑誌だと思っていたから紙質が良くて、びっくりした。それまでは、雑誌といえばコロコロコミックかジャンプしか知らなかった。


配属が決まったころ、純文学の文芸誌なんかも読むようになった。

きっかけは、千葉雅也という人の小説が雑誌に載るからだった。千葉雅也はドゥルーズという哲学者の研究者で、文庫化された主著の博士論文では当時まだなじみのなかった「思弁的実在論」の哲学者が紹介されていた。

いわゆる純文学と呼ばれる、芥川賞を取る作品。それらは、一度、5大紙と呼ばれる『新潮』とか『群像』のような雑誌に全編が掲載されて、評判がいいと単行本になる。それが売れると、3年後に文庫になる。村上龍や村上春樹は、最初『群像』の新人賞を取って、それから頭角を現してきたらしい。当時の僕はそんなことも知らなかった。

配属された開発プロジェクトではみんな忙しそうに仕事をしていた。全員が忙しかったので、新人である僕に教育担当はつかず、どんな仕事をすればいいかなにもわからなかった。わからないことがあれば聞けばよかったのだが、あまりになにもわからないので、そもそもなにを質問すればよいかもよくわからなかった。普通にプライドも高かったので、とりあえず見よう見まねでやってる感を出し、その間にとりあえず議事録などを片っ端から読んで、形から業務を覚える戦法を取ることにした。

みんながリアルの残業をする中、雰囲気だけやってる感を出し、定時後も無のExcelファイルを閉じたり開いたりする時間は苦痛だった。みじめな時間だった。


嘘の労働で水増しされた嘘の給料で、休日にジュンク堂で人文書を買った。文庫も好きだったので、それも買った。ちくま学芸と岩波の青。早川の青とJA。SFも好きだった。

家に帰ったら、それを読む。仕事はできないかもしれないけれども、プライベートでなにかしらの「文化」っぽいことをやって帳尻を合わせることで、傷ついたプライドを取り戻したかったのだと思う。小難しく役に立たない本を読むような人間は、当然のことながら職場では浮いていた。


■入社1年目(2) 状態のいい本を買う

家の本棚に本が増えてくる。すでにこの時点で引っ越したときの倍近くになっている。

本が増えてくると、不思議なもので、コレクターとしての自我みたいなものが芽生えはじめる。そうなると、本に関する知識なんかも自然と増えてくる。

まず、状態を気にするようになった。文庫やソフトカバーの本は書店で売れ残ると、版元の出版社に送り返される。そうして返本された本は、汚れている小口の部分を機械でガリガリと削られる。小口研磨だ。研磨された本は、別の本屋に出荷される。

この小口研磨がとにかく気になるようになった。

小口研磨は、食べ物にたとえれば、食パンの耳の部分がカビてしまったのでそこだけ切り落として同じ値段で売るようなものだ、とネットで誰かが書いていた。そのとおりだと思った。明らかに劣化して状態が悪くなった本を同じ値段で買うというのは、バカげていると思う。ありえないことだ。

だから、文庫は初回出荷時か増刷されたタイミングで買う。

帯も集めるようになった。基本的に、初版の本には帯が巻かれている。それらは1冊ごとに異なる惹句や推薦文が書かれている。材質も本ごとに違っている。それに鑑みれば、帯はカバーに劣らないオリジナリティをもつ、本に不可欠の構成要素だ。けれども、商業的には広告という扱いなので、おまけのような扱いを受ける。重版されると巻かれなくなってしまう。広告は商品の一部ではないので、傷んでいてもそれを理由にAmazonで返品することもできない。

帯が巻かれた本が手に入るのは、重版が掛かる前の、発売された直後に限られる。

小口研磨もなく、初版帯が巻かれた、「完全な状態」の本がほしい。そうすると、本を買うタイミングは、発売直後の新刊に限定される。


■入社1年目(3) 悪漢と密偵・猫の泉を追う

新刊がほしい。新刊を手に入れるには、あらかじめどんな本がいつ発売されるかを知っている必要がある。発売前に情報収集をしなければならない。

ネットに、悪漢と密偵、猫の泉という名前のアカウントが存在する。新刊の情報を、出版社が公開した直後に投稿して教えてくれる。書籍版の特務機関NERVみたいなアカウントだ。驚くことに手動で更新しているらしい。

新刊情報を網羅的に把握するために、定時的に彼らの全ての投稿を確認するようになった。場合によっては哲学書新刊botも参照して、文庫・単行本、可能な限りすべての刊行情報を確認した。取りこぼしがないように、出版社のホームページも直接確認した。目ぼしい本については、Amazonのほしいものリストに片っ端から突っ込んだ。念入りに、GoogleのSpreadSheetでも管理した。SpreadSheetに予価と書名を転記して、買い逃しがないようにした。

このSpreadSheetは、家計簿にも読書記録簿にもなる。購入実績から金額をSUMで集計して、毎月本にどれくらい使ったかわかるようにした。読了した本については日付を記入するようにした。


■入社2年目(1) 既刊をディグする

Spread Sheetで読書管理をし始めたあたりで、読みたい本の数が読める本の数を超えた。これは、言い換えると、本を買う速度が本を読む速度を上回ることを意味する。その結果として、一般的に「積読」と呼ばれる状態が発生する。

この頃になると、新刊に飽き足らず、既刊についてもチェックするようになった。自分が本に興味を持ちはじめるより前に発売された本。

過去に読んできたお気に入りの本の参考文献一覧を確認して、言及された中で気になった著者と、著作を網羅的に洗い出した。Wikipedeiaでそれらを検索して、その著者の略歴や主著、邦訳があるかを確認して、手に入れたい著作があれば、優先度をつけてジャンル別に作成したAmazonのほしいものリストに突っ込んだ。

お気に入りの著者がTwitterアカウントやブログを開設しているかどうかを調べ、過去の投稿とエントリーにすべて目を通し、来歴や交友関係を調査した。本棚の画像や買った本、献本の画像を投稿していれば、隅々まで拡大して写っている本のタイトルを確認した。ブログの中で言及された人物の中に自分の知らない人がいれば、その人物の来歴についても確認し、本を出していればほしいものリストに突っ込んだ。

明らかに興信所がする仕事だと思った。この時点で何かがおかしいと思うようになったが、見て見ぬふりをした。



■入社2年目(2) ディグした既刊を買う

仕事は忙しかった。

入社2年目ともなるとさすがに仕事を覚える。リアルの残業をするようになり、リアルの残業で水増しされた嘘の給料でジュンク堂で本を買っていた。

家に帰ったら寝るだけの生活をしていた。可処分時間はほとんどなかった。可処分時間がないということは、本を読む時間がないことを意味する。この時点で、本を読む時間よりも本について調べる時間のほうが長くなっていた。

平日に本を読む気力も時間もなかった。では休日に読むのかといえばそうではなく、本屋に向かっていた。本屋に行って、いつか読もうと思いながらついぞ読むことのないであろう本を大量に買っていた。


長時間の労働はありあまる富をもたらす。

とはいえ、サラリーマンの賃金はたかが知れているので、買うべき本を取捨選択しなければならない。取捨選択をするということは、ほしい本に優先度をつけることを意味する。とりわけ優先度が高いのは、絶版になりそうな本だ。絶版になると本は高騰する。高騰する前に買いたい。

人文書は読者が少ないので、初版の発行部数もたかが知れている。発行部数が少ないと、数年もすると在庫がなくなって絶版になる。しかも、発行部数は年々減っている。発行部数が減ると絶版になる速度も上がる。早いものだと1年で絶版になる。最近の出版業界のサイクルは常軌を逸している。


■入社2年目(3) 絶版を狩る

絶版には種類がある。本絶版、偽絶版、仮絶版だ。

絶版になると、本は新品在庫がどこにもなくなって入手できなくなる。たいていの場合、著作権が切れている。絶版の辞書的な定義に近いので、これを本絶版と呼ぶ。

ただし、まれに、主要な通販サイトすべてで在庫切れ表示となっていても出版社が在庫を隠し持っていて、新品が買えるケースがある。僕はこれを偽絶版と読んでいる。

偽絶版を頻発させる出版社はある程度決まっている。筆頭は水声社だ。Twitterで絶版ではない旨を謳っているが、客が問い合わせないと品切れしているかどうかわからないのであれば、それらの本は事実上の絶版と呼んで差し支えないと思う。水声社の本は、『スイユ』なんかの叢書記号学的実践の本が軒並み絶版だと勘違いされて高騰している。

水声社はこの間まで新宿のブックファーストでフェアをやっていて、新品がないと思われていた本が多数ドロップしていた。『ベンヤミン 媒質の哲学』『ジョルジュ・バタイユの〈不定形〉の美学』『詩的言語の脱構築』がドロップしていたので、買った。


問題は、版元品切れ、かつ書店にギリギリ在庫がある状態の本だ。もっと言うと、通販サイトや主要書店のネット在庫検索で軒並み品切れ表示されている状態の本だ。僕はこれを仮絶版と呼んでいる。

東京には、ネットでの在庫検索ができない大型書店が存在する。僕はこれを「接続されていない本屋」と呼んでいる。具体的には、ブックファースト(新宿)と青山ブックセンター(渋谷)、東京堂書店(神保町)、八重洲ブックセンター(東京)などのことだ。

「接続されていない本屋」は在庫の入れ替わりが乏しい。売れなくても、返本されずそのままになっている本が残っている。そこには、手つかずのままの絶版・高騰した本が眠っている。収集家のための最後のフロンティアだ。休日になると、目当ての本があるのではないかという一縷の望みを胸に、目を血走らせながらこれらの書店に遠征を繰り返した。この週末の遠征行為を「狩り」と呼んでいた。

ブックファーストでは『未来の考古学』や『他自立』を、青山ブックセンターでは『模倣の法則』や『サド・フーリエ・ロヨラ』を、『抵抗する理論』『テレビのエコーグラフィー』『留まれ、アテネ』『中身のない人間』を発見した。

HMV(渋谷)も良質な狩り場だったのだけれど、ネットで「選書のセンスがいい穴場」として紹介された結果、目ぼしい本はほぼ狩り尽くされてしまった。


■入社2年目(4) 古本を狩る

本当に絶版になってしまった本については、しぶしぶ古本を買った。

古本の相場は日々変動している。Amazonの中古価格の値動きは、株価のチャートに似ている。お目当ての本が値下がりするのを注視して、値動きが止まる瞬間を待つ。ここだというタイミングで注文する。それにはスリルがある日々の仕事に疲れきった中で、古本を買うときだけが唯一生の実感を得られる瞬間だった。

リアル店舗への遠征も欠かさない。

新宿以西の中央線沿線、および神保町にあるすべての古書店の特徴と営業時間を暗記して、遠征を繰り返した。

Twitterには古本屋の店主が運用しているアカウントがある。そのうちのいくつかのアカウントは、入荷して値付が終わり、棚だしする本の画像を日々アップロードしてくれる。「今日はこんな本が入荷していますよ」というアナウンスとともに本が並ぶ画像がアップされるやいなや、食い気味で画像を拡大し、その中に絶版になったレア本がないかを確認する。

Twitterには、似たようなことをするジジイが結構な数、いる。年金ぐらしをしている亜インテリだ。彼らは仕事をしていないので、フットワークが軽い。日がな古本屋をまわって、絶版になったレアな本が入荷するやいなや、それらをかっさらっていく。僕はそれをスマホの画面ごしに指を咥えて眺めることしかできない。これが本当に悔しい。血涙を何度も流した。

僕はサラリーマンだ。平日は仕事をしている。仕事をしている人間が、仕事をしていない人間にフットワークの軽さで勝つことはできない。


■入社3年目(1) 本棚を整理する

本の置き場がなくなりはじめた。

池袋のうさぎ小屋みたいなワンルームに住んでいるので、収納スペースには限りがある。引っ越したばかりの頃は、お気に入りの本を本棚に飾ってはうっとりとしていたが、この頃になるとそんな余裕もなくなってくる。

とりあえず、シューズボックスが空いていたのでそこを本棚にした。シューズボックスには十分な奥行きと高さがあり、しきいで9段に分かれていた。本をしまうのにはうってつけだった。クローゼットの上の方に隙間があったので、そこにも本を置いた。デスクの引き出し、電子レンジの上、枕元などあらゆる場所を本が占有しはじめた。

所有している本が多くなると、その中にヒエラルキーが生まれる。

好きな著者か。ジャンル。初版か。帯があるか。状態がよいか。定価が高いか。判型/サイズ。絶版か。今後絶版になる確率が高いか。限定品か。汚損した際に入手する場合の入手難度……。あらゆる観点で本を分類し、その観点に独自の重みづけを行い、保護の優先度を決めた。

本当に気に入っている高いハードカバーの本だけを、しっかりとした強度のある本棚にしまうことにした。これを「一軍の棚」と呼んでいる。「二軍」の本はシューズボックスに入れた。


■入社3年目(2) 本棚のルールを決める

本を収納するスペースが家のいろんな箇所に分散すると、本を買うたびに都度移動したり、並び替えを行う必要が出てくる。本のヒエラルキーが決まっていると、本棚の整理が一筋縄ではいかなくなる。本を移動する際には、かなり独特の操作が必要になる。僕はそれらの操作に術語を与えている。

たとえば、堅い木でできている本棚やシューズボックスの幅や奥行きは固定長である。本の幅は固定長なので、ちょうどぴったりに収まるように本の厚さを計算しなければならない。複数冊の本の厚さを揃える操作を「均圧化」と呼ぶ。固定長の収納スペースに本を限界まで収納してスペースを節約するため、「均圧化」の操作は必須になる。

本をまとめて「均圧化」する際にも、独自のルールがある。同じ重要度の本であること。同じ著者であること、もしくは近接ジャンルであること。上下巻が揃っていること。

たとえば、ちくま学芸文庫のレム・コールハース『S,M,L,XL』は、同じ著者・レーベルの『錯乱のニューヨーク』とセットで並んでいなければならない。そして、それらは〈都市系〉のカテゴリーに属する本であるため、『場所の現象学』や『空間の経験』とセットで収納しなければならない。

これらのルールに基づいて本がある程度まとまった状態を「徳が高い」と呼ぶ。岩波の青のカントや、白のウェーバーの本がまとまった状態となっている場合、これらの本は「非常に徳が高い」状態に移行する。

整理する観点として、他には「参照可能性」と呼んでいるものがある。ちょっと文章で引用したい、気晴らしに再読したいようなときに、その本をどの程度の時間で本棚から探し出せるか、そして本を読み終わったあと棚に戻す作業(現状復帰)にかかる時間はどれくらいか。それらを考えるときに用いる評価指標を、僕は「参照可能性」と呼んでいる。

「参照可能性」が低い本は「封印」される。

あまりに家にスペースがないので、参照頻度の少ない本は段ボールにギチギチに詰めて床に置いている。段ボールの上にさらに別の段ボールや本が積まれていると、それらの本を取り出して読むことは事実上不可能になる。事実上読むことができなくなってしまうことを、本を「封印」すると呼ぶ。

1冊新しい本を買うと、そのたびに整理が必要になり、収納スペースの状態が崩れる。たとえば、高価で、状態がよくて、いろいろな論文で参照される本が手に入ったとする。その本は「一軍入り」だ。そうすると、「一軍」の本棚から「二軍落ち」する本が出てくる。「二軍落ち」した本は次に重要な本がしまってある「二軍」用の保管スペース(シューズボックス)に移動する必要がある。そこももちろん満ぱんだ。そこから別の本を「三軍落ち」させなければならない。

本を買うたびに連鎖的に本棚の状態が移り変わっていく。それに際限はない。本が増えれば増えるほど、その管理の手間は指数関数的に増大していく。本の整理の時間が貴重な休日の時間を圧迫しはじめるのに、それほど時間はかからなかった。まる1日中、本棚の整理でつぶれる日もあった。


■入社3年目(3) イベントに行く

長時間労働と新刊チェック、本棚の整理で明らかに生活は崩壊していた。けれども、人間の欲望というものには限りというものがない。この頃になると、ISBNのついていない本や限定本に執着するようになっていた。

限定本が出るタイミングというのは、だいたい決まっている。本を買う人間には本を買うためのイベントがある。年間行事のカレンダーがあり、カレンダーにしたがって行動する。

5月と11月は出費が多い。文学フリマがあるからだ。

文学フリマは、さまざまな学生や社会人が自費で作った本(同人誌)を催事場で売るイベントで、素人もいれば商業出版経験者もいる。イベントで頒布される私家版の本には稀少性がある。後日通販があるものもあるが、個別に注文するとその分送料がかかるので、現地で買う。手順は新刊チェックと同じで、ネットにある公式の出展者一覧ページですべてのサークルを確認し、頒布本の予価と優先度をSpreadSheetにまとめて、それを暗記して片っ端から買ってまわる。

それから、5月には神保町ブックフリマと書物復権がある。書物復権は、法政大学出版局、勁草書房などの特定の出版社の絶版本が一括で重版されるイベントで、読書家のためのセーフティネットになっている。11月には神保町ブックフェスティバルがある。

神保町ブックフェスティバルでは出版社が野外でワゴンを出し、そこでサイン本や、書店から返本されて少し傷んだりしているゾッキ本が訳アリ価格で売られる。節約になるので、金のない人間が殺到する。予算の都合で美本の状態での入手を断念した本は、ここで回収していた。

神保町ブックフェスティバルは2日にわたって開催されるが、この催しには攻略法が存在する。

まず、開催前の段階でワゴンに並びそうな本のタイトルをあらかじめ予想しておく。出展者の面子はほぼ固定で、国書刊行会、河出書房新社、慶應義塾大学出版会、作品社、春秋社、堀之内出版、亜紀書房などが標的になる。新刊は並ばないので、各出版社ごとに数年前に刊行された本を調査し、疑似目録を作成する。これを僕は「予習」と呼んでいた。

開催予定時刻より前に前乗りし、ワゴンに陳列されるラインナップを観察した。「下見」だ。「下見」をする人間は、それなりの数いる。春秋社、慶應の美学系および分析哲学系の書物は開始数分で売り切れるので、「下見」をすることは、暗黙の前提になっている。

ところで、河出はまれに「仮絶版」の本をこの場で放出する。河出は、バーゲンブックか神保町ブックフェスティバルで数年前に出た邦訳系人文書のを安値で放出すると、その本を絶版にする傾向がある。絶版のシグナルを見逃すわけにはいかなかった。

これらの年次イベントに参加することを古本屋への「遠征」と区別して「出張」と呼んでいた。


■入社3年目(4) 落穂を拾う

歳時のイベントは他にもある。岩波文庫一括重版と新潮文庫の100選だ。

サラリーマンには夏休みがない。サラリーマンの7月・8月のカレンダーは、その他の月となんら変わることがなく普通に労働で埋め尽くされている。毎日出社していると、季節感を感じるセンサーはしだいに壊れていく。休みも取れず、バカンスにも行けないサラリーマンは、新潮文庫の100選ではじめて夏という季節の訪れを感じる。

新潮文庫は夏になるとフェアをやり、一部対象書籍のカバーがプレミアムカバーに変更される。表紙に箔押しでタイトルだけが書かれた、無地のパリッとしたカバーだ。カラフルで目に鮮やかなので、読書家のみなさんがこぞって買っていく。僕も買っていた。無地のカバーが好きだからだ。

僕はこれを毎年楽しみにしていた。名作が無地のカバーで出るのはかっこいいからだ。『1984』や『虐殺器官』や『人間失格』のカバーが真っ黒だったり、『素晴らしい新世界』や『ハーモニー』や『こころ』の表紙が真っ白なのは素朴にかっこいいと思う。コロナ禍でカミュの『ペスト』が売れた年、絶対に『異邦人』が対象になると思っていたら、案の定紫色のカバーに変更されていた。出版社の手のひらの上で踊らされていると思ったけれども、もちろん購入した。


年次の定例行事とは別に、書店で随時ブックフェアなどをやるので、これもチェックした。

ブックフェアが開催されると、まれに選書目録一覧に絶版本がドロップするためだ。「偽絶版」のレア本がゲリラ的にドロップすると、すかさずそれを買いに行った。僕はこれを「討伐」と呼んでいた。古書価が3倍になっていたルジャンドルの『ドグマ人類学総説』が突如池袋のジュンク堂にドロップしたことがある。これは、ネットでも話題になっていた。

ゲリラ的に売られる本があれば、どんなものでも手に入れたかった。個人制作のZINEやフリーペーパーがあれば、Spreadsheetに書き入れ、発売開始を待った。

大学の紀要も例外ではなかった。

大学の研究室には、レターパックを送ると、論文集を無料でもらえるところがある。院生でも研究者でもなんでもない素人にもかかわらず、大量にレターパックを買って、会社のプリンターで印刷した送付状と一緒に何通も大学の研究室に郵送した。ネットで論文のPDFが公開されているものでも、物理本であれば、万難を排してでもそれがほしかった。

この頃から、国内では飽き足らず、海外の出版社の新刊もチェックするようになった。ACADEMIAに登録して、会社の昼休みに読んだりもした。

本は読むものではなく、まず買うものだと考えるようになった。とりあえず買っておいて、読むのは後からでも遅くない。すぐに読みたい本は「読む用の本」として管理するようにしていた。明らかに何かがおかしかったが、それについてはあえて考えないようにしていた。

本を読むペースは当然落ちていった。それでもまだ本を読むのは好きだったので、少なくとも月に数冊は読んでいた。読み終わった本を再読するのも楽しみの一つだった。けれども、手に取るのはいつも、大学時代に読んだ、中古で買ってボロボロになった舞城王太郎や重松清の本ばかりなのだった。


■入社4年目(1) 本が金になる

金銭感覚が壊れ始めた。

5000円を超える叢書ウニベルシタスやみすず書房の本でも、ほとんど躊躇なく買うようになった。5000円を超える本を「デカい本」と呼んでいた。その一方で、新書や低価格帯のソフトカバーの購入の検討にはおそろしくシビアになった。円安や物価高のあおりを受け、本の値段が高騰しはじめていた。192ページの本が3520円で売られるようになっていた。本を買うとき、まず値段ばかりが目につくようになった。

買うべき本と、買わなくてもいい本がある。そう考えるようになった。たとえば、2000円弱のビジネス書や、社会人向けの新書は、すぐに値下がりする。たぶん、それは時の試練に耐えられずに数年後には投げ売りされているだろう。今買わなくてもいい。

逆に、人文書の新刊はどんなに高くても買う必要がある。リファレンスとして有用な重要書でも、数年後にはひっそりと絶版になっている可能性があるためだった。金に糸目はつけない。同じく、既刊の岩波、ちくま学芸や平凡社ライブラリーも買っておく。ちくまベンヤミン、バタイユ、河出ドゥルーズ、中公のショーペンハウアー。大きい本屋に行けばどこでも手に入るこれらも、数年後には手に入らなくなっているかもしれない。手に入らなくなったときのリスクの方が大きい。

数年後も価値が下がらない人文書を買っていると、必然的に小説や文芸書を買う機会は減っていく。新入社員になったころ心の支えだった純文学の文芸誌も買わなくなっていった。この頃になると、文芸誌についてもコスパの良し悪しの考え方を持ち込むようになっていた。

例えば、中編が1本しか載っていない『新潮』や『文學界』はコスパが悪い。値段が高くて、評論ばかり載っている『群像』は論外だった。紙質も悪いので、『群像』は好きではなかった。逆に、『文藝』は好きだった。「可食部」が多いからだ。書評やエッセイ、連載部分を除いた読み切りの小説の部分のことを僕は「可食部」と呼んでいた。

芥川賞を取るような純文学の中編は、シングルカットされて単行本になると、200ページ前後のハードカバーで1650円程度になる。ハードカバーはかさばるし、雑誌自体が1500円弱なのでコスパも悪い。「可食部」が多い号か、文庫本だけを買うようになった。

サイン本も買うようになった。買って、読まずに置いておく。サイン本にはシュリンクがかかっている。シュリンクは取らない。シュリンクを取ってしまえば、「未読」の状態が壊れてしまうからだった。サイン本には魔法がかかっており、その魔法は、署名が本人のものである限りにおいて保証される。シュリンクを外してしまえば、贋造の可能性が生まれる。本が作者の署名の真正性と切り離されるのが嫌だった。客観的に「本物」のままで手元に置いておきたかった。そのような理由から、購入日付のわかるレシートも手元に取っておくようにした。


■入社4年目(2) 本が数字になる

本を読むことに苦痛を感じるようになった。

買うだけ買っておいて、積まれた本の山が生活スペースを圧迫している。それらの本に責められているような気がしていた。もし自分が今死んだら、あるいは飽きたら、これらの本はどこへ行くんだろうということを毎日考えるようになった。そんな強迫観念を振り払うため、1ヶ月の間に読む本の数を決め、自分自身にノルマを課すようになった。

冊数で算定するようにしていたので、自然と薄くて、簡単な本ばかりを読むようになった。雑誌の「可食部」だけを読んで、エッセイや書評のパートを読まないままにしておくことに罪悪感を感じるようになった。通読し、一度読み通さなければ、その本を読んだとは言えない。つまり、その本の「元を取った」ことにならない。買ったからには、元を取りたかった。

3000円で本文200ページ、後注20ページ、訳者あとがき10ページの邦訳書を読むとき、まず、あとがきから読む。あとがきは要約みたいなものなので、本文を10ページ読むよりもなんとなく元が取れた感じがする。その後で本文を100ページを読むと、だいたい元は取れたという感じで安心する。読書という行為を、そんなふうにして無意識のうちに数字に置き換えて考えるようになっていった。

生活費・食費を除くほとんどの可処分所得を本に費やすようになった。満足するまで本を買った後、残った金額で食費を決めていた。これを「リバーシエンゲル係数」と名付けていた。

本にばかり金を使っていると、本の数字から版元が浮かび上がってくるようになる。出版社ごとに独特の価格帯というようなものがあり、数字を見るだけでなんとなくその出版社のことを無意識のうちに考え始めるようになるのだ。たとえば、1001なら岩波。1276なら同じく岩波。1210、ちくま学芸。2640、2860、3080は青土社。3630、勁草書房。3850は水声社か国書刊行会。4950なら人文書院(博士論文)。5060はみすず書房。6930、名古屋大学出版会。

「棚暗記」も会得していた。週に数回の頻度で池袋のジュンク堂書店に行くと、棚の状態からなにが絶版になったかある程度わかるようになる。最近ではアガンベンの『思考の潜勢力』とデリダの『プシュケー(Ⅰ)』が絶版になったのがわかった。「棚暗記」を会得していると、「仮絶版」の本が突如としてドロップするのにいち早く気づくことができる。

古書マニアは行きつけの古本屋を「棚暗記」していたり、「ゾーン」に入ると背を見ただけで古書の値付けがわかるらしいので、「棚暗記」は案外、普通のことなのかもしれない。


■入社5年目(1) 本を嫌いになる

どの本を読んでもなにも面白いと感じない、むしろ、明確に苦痛を感じる日々が続いていた。本のことを考えるだけでもイライラするようになっていた。

自らに読書の義務を課し、苦痛を感じながら本を読み、それを読書管理記録簿で管理していた。管理の手順や観点は複雑化し、読了日が月末の00:00をまたいだ場合の判定基準や、hontoなどのポイントで本を定価より安く買えた場合の算定ルール、本の購入タイミングと発売日が大きく乖離した際の入手タイミングなどの定義は細分化の一途をたどっていた。

読書ノルマが達成できないことがわかると、算定タイミングに特約を設けたりして、粉飾決算まがいのことをしていた。四半期の棚卸しみたいなこともしていた。会社でシステムの検証観点や検証エビデンス資料をつくり、家に帰ると、今度は本の管理についても同じようなことをしていた。自分の中で読書が「業務」に変わっていくのがつらかった。

本に関して怒りを感じることが増えた。

とくに「コソコソ値上げ」は気に入らなかった。出版社が発売を予価を告知なしでこっそり変更することがある。僕は、それを「コソコソ値上げ」と呼称している。早川書房が頻繁に行う。最近だと、予価1100円だった『三体』が1210円に変更された。『Ways of Being』も発売延期前に大幅に値上げされた。他社だと『非美学』やマーク・フィッシャーの論集などの予価が改定されている。

SNSを見ていると、どこかの読書好きのアカウントが家の本棚の画像をアップしていた。その中に『デュメジル・コレクション』や『死を与える』、『機械の中の幽霊』があるのを確認し、即座にブロックした。どれも絶版したちくま学芸文庫の中で最難関の入手難度に分類される本だった。いっちょまえにパラフィン紙をかけているのも気に食わなかった。「なめやがって」と思った。自分が入手できていない本を他人が持っているのを見ると嫉妬で猛り狂いそうになる。よくない傾向だった。

ずいぶん前から、本を買うときの喜びというものを感じなくなっていた。本を買うことには中毒性があり、麻薬と同じだった。「書籍ポルノ」だ。「本のドカ食い」をしていると、本が手に入ったとしても喜びなど一切なく、端的に「また積読が増えたな」としか感じなくなる。買うのが当たり前で、むしろ、手に入らないことに苦痛を感じるようになる。それも麻薬と同じだった。読書が義務に変わってから、積読が増えていくのがとにかく苦痛だった。


■入社5年目(2) 本を読むことができなくなる

コミックスも好きで、集めている。『チェンソーマン』と『呪術廻戦』は連載を追っている。『ブルーピリオド』もコミックスが出たらすぐに買っている。アニメイトで買うと特典がもらえるので、コミックスはそこで買っている。けれども、買ったまま読むことができていないものもかなりの数ある。シュリンクを開けるのが怖いのだ。まず、シュリンクを開けるという操作が、面倒くさい。そして、シュリンクを開けると新品の状態が壊れてしまう。新品の状態が壊れると、本を読む「義務」が発生する。それが嫌だった。

1巻から初版で買い揃えているのに、シュリンクを開けようとした形跡がないシリーズが、それなりにある。新刊も出つづている。新刊が出るたびに、シュリンクを開ける責任の重みがましていく。怖くて開けられないでいる。

本があふれかえってきたので、台所のシンクの下の開きに本を収納し始めた。水場の近くに本を置くのはよくないことだ。けれども、視界から本の山が消えてくれると、すっきりした。もう見たくない。読みたくない。

SNSでは読書好きのアカウントが、「積読はいつでも本が読める権利を買うこと」だとか、「通読だけが読書じゃない」だとか、いろんなそれらしいことを言っていいねを稼いでいた。嘘ばかりだ。本を積んで、積んで、読むのを諦めて、ただ本という物体に対する憎悪だけが募っていく存在がここにいるのに。「適当なことばかり言ってんなよ」と思った。「バカにしやがって」と思った。本を積んでいても、苦しいだけだ。

枕元にトマス・ピンチョンの『重力の虹』がある。上下巻が平積みしてあって、眠るときに圧迫感をおぼえる。この前重版されるときに値上がりしたので、値上がりする前の版を、在庫が残っている店であわてて買ったのだった。まだ1ページも読んでいない。眠るとき、この『重力の虹』を見るにつけて、自分はこのままこの本を読まずに死ぬんだろうな、と考えるようになった。おそらくこれから数十年生きたとしても、『重力の虹』を緊急で読まなければいけなくなるようなシチュエーションは考えられない。限りなく優先度は低い。それでも、いつか読みたくなる瞬間が唐突に、天啓のように訪れるかもしれない。今はそっちの可能性に賭けているので、売ったり捨てたりすることはない。


それにしても、不思議なことだと思う。本を読んだり買ったりすることで、自分の部屋がユートピアになると思っていた。違った。気づいたら、読書は官僚制のシステムそのものになり、あまつさえディストピアそのものになっていた。もう本を読んで感動することはないのだろうか。本を読んでもう一度自由になりたい。



■入社6年目

少し前に、ポール・オースターが死んだ。

ポール・オースターは数年前にAmazonでほしいものリストを作ったとき、たしか一番最初に登録した作家だった。会社帰りにジュンク堂に寄って新潮文庫の棚に行くと、オースターが平積みしてあった。作家が死ぬと、その著作が重版される。大江健三郎のときもおんなじだった。

オースターの著作は一冊も買ったことがなかった。いつか読もうと思って、結局買わないままにしていた。買わないうちにオースターは死んで、後になって重版されたタイミングで本を読むなんて失礼だなと思った。少し迷って、買った。あらかじめ買う予定がない本は極力買わないようにしているので、もちろん買う予定はなかった。けれども、買った。今読みたいから、買った。読みたかった三部作と、ムーン・パレスを全部買った。読みたかった『ワインズバーグ、オハイオ』も買った。奥付は見なかった。見てはいけない感じがした。

そもそも自分は哲学とかが好きじゃなかったことを、その瞬間、ようやく思い出した。本当に好きなのは、重松清とか、村上春樹の翻訳とかだった。重松清の「小さき者へ」とか、カーヴァーの「大聖堂」とかが好きだった。そういうベタな物語が、好きだった。

もう一回だけ、ベタな物語をちゃんと読みたいと思った。もう見栄を張るのはやめて、ちゃんと読みたかった。もう一回、物語にちゃんと感動したかった。


家に帰ってオースターを読んだ。それなりに面白くてびっくりした。泣くほどではなかったけど、本を面白いと感じていいんだと思った。本は読みたいときに読むべきだと思った。働きはじめても読めなくなることはない。昔のようには読めないかもしれないけれども、それはそれでしかたない。次は大江健三郎を読もうと思う。ギターとかも弾いているので、それなりに時間はかかる気がする。でも、いつか読もうと思う。読めなかったら、それはそれでいい。

本を読むことは別に義務ではないのだから。



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