逆⇔本能寺の変-さいごに①-
「本能寺の変」真犯人 諸説も多々あり、事実は今となってはわからない
だが、今回本能寺から亀山城を道のりを辿ってみて、個人的な考えではあるが、やはり明智光秀自身が企てたことに違いないと思っている
その理由と独自の考察としてこれから改めて紹介したい
要するに信長であれ義昭であれ関係なく、時が来ればクーデターを起こそうと、本圀寺の変から12年に渡り、構想を描いていたのだ
その上で、信長に取り入り、坂本城、亀山城、福知山城と京都近辺で立派な軍事基地を作っていたとも考えるとしっくりくる
因みに「私怨説」もよく挙がる
だが、信長個人へ怨みがなかった訳でないと思うが長い浪人生活を経験した光秀が短絡的な理由で周りも巻き込んでこんなことをする人物にはどうも思えない
ただ「山陰へ転封」を信長から命じられた時、「京都クーデター計画」は破綻してしまうため事を急いだことはあり得る
京都クーデター計画」説
では、ここからは、独自の完全なる妄想なのであしからず
当初の考えでは、毛利攻めで信長が進軍している間に京都を「占拠」するつもりだった光秀
信長を討つことが目的ではなく、まずは京都でクーデターを起こし成功させることが目的だった
だが、賛同を呼びかけた「協力者」たちが次々と噛み合わず、結果、単独で動かざるを得なくなり、さらには本能寺で信長を討つ目的に変わることとなってしまった
「協力者」とは、主に羽柴秀吉、徳川家康、荒木村重、長宗我部元親、細川幽斎の計5名
この面子で連携して、中国地方へ進軍中の信長軍に対して、第3次信長包囲網をかけるつもりだった光秀
また、1573年、槇島城の戦いで信長が義昭にしたように、光秀もまた信長を生捕りにしてするつもりだった、かも
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