お父さんとママ
今日は私の大切な友達のひとりの誕生日だった。
彼女といると、気持ちがポップになる。メッセージのやりとりも自然と絵文字を使うようになる。普段一切絵文字を使わない私が、唯一絵文字を打ちたいと思える相手である。これは彼女がそういう気持ちにさせる性質があるというだけの話であり、絵文字を使わないからと言って相手を大切に思っていないということではない。
彼女が次の1年も健やかに生きていてくれたらいい。
さつまいもの甘煮を作った。砂糖としょうゆでさつまいもが煮詰められていく匂いが、ママの作るそれと同じ匂いであったことがうれしかった。
小学生のとき、父の日か父の誕生日かのどちらかで、父が「今日からパパのことを”お父さん”と呼んでほしい」と言った。
それまで私と弟は両親をパパ、ママと呼んでいた。我々がパパのことを”お父さん”と呼ぶにふさわしい年齢になったと判断したらしく、父の宣言はすこしの照れと多くの誇りによって構成されていた。
我々姉弟は納得した。こうなると、母にも聞かざるをえない。
「ママは?お母さん、と呼んだほうがいい?」
「”お母さん”なんて半可くさい。”ママ”にして」
「半可くさい」とは、北海道の方言で「馬鹿みたい、あほらしい」のような意味である。
この言い分を聞いたとき、母方の祖母が「”おばあちゃん”なんて呼ばないで、半可くさい」と言っていたことを思いだした。祖母のことは”名前+ちゃん”で呼んでいる。
広く名称として使われている”お母さん”や”おばあちゃん”を「半可くさい」と言ってのける思考の自由さには恐れいる。
さつまいもの甘煮はおいしかった。でも、”ママ”はもっとしょうゆを入れているようだ。
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