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ずるずる


1月2日(月)

就職してから、祖母と会話をすると必ず「家庭を持ち、子どもを育てよ」と言う話に帰着するようになってしまった。精神的にも肉体的にもできないことではない。私はできることをしないことで、好きな人の願いを捨てなければならない。「大切なものが多すぎる」というセリフがとある映画に出てくる。男は多くの大切なものに目がくらんで、信じられず、失くしてから、それがとりわけ大切だったのだと気づく。私には大切なものが多すぎる。何か1つここに捨てていかなければならないが、捨てられるべきは。


1月3日(火)

日記を書く暇もないほど好きな人の隣で眠りたい。


1月4日(水)

一日中眠かった。隙があれば眠った。

久しぶりに帰った自宅には年賀状が2通届いていて、まだ年賀状が届くような交友関係があることに安心した。これは交友関係が広い・狭いの話ではなく、年賀状を出す習慣がまだ残っている人と交友しているという話である。

実家は楽しかったし、疲れた。私はこの人たちにまっとうな恩を返せないかもしれないということがうっすら苦しかった。何があっても生きていかなければならないのだと思った。


1月5日(木)

仕事始め。九死に一生を得た。

外のきんぴらはピリ辛だし、かぼちゃの煮つけには出汁が入っている。

肉あんかけチャーハンに惹かれたが、見た目のわんぱくさを恥ずかしく思い、肉まんにした。他に2つ買って、しかし素手で持って帰ろうとしていたら、目を離したすきに謎の袋に入れられていた。透明でやたらしっかりした袋である。なんだろうあれ、とぼんやりしていたら「お箸もつけときますか!?」と問われた。

あなたはぼんやりしているから、運転免許証を持っていると聞いたら皆驚くでしょう、と言われた。


1月6日(金)

朝早くに恋人から連絡あり。喉が痛く、微熱があるとのこと。然るべきところに連絡するよう伝え、私は飛行機をキャンセルした。私たちは今日から4日間を共に過ごす予定であった。ごめんねえ、楽しみにしてたでしょう、と言う恋人の声を聴きながら、楽しみにしてたでしょうと言える人もなかなかいないだろうな、とまたひとつ好きになった。

なんとなくカップラーメンが食べたい気がしていたが、それは嘘だと思っていた。私がカップラーメンを欲するはずがない。しかし昼時、外に出るとどこかの家庭からラーメンの匂いがして、負けた。どうやらカップラーメンを食べたい気持ちは本物らしい。私はシーフードヌードル一択である。カップラーメンを食べると、舌ではなく脳髄に直接味の情報が届いているような気になる。おいしかったというか刺激的だったというか、刺激的なことをおいしいと言うなら、おいしかった。

『ハウルの動く城』を観た。『ハウルの動く城』を観ていると『風立ちぬ』が観たくなる。たぶんこの2つが好きなのだと思う。『人生のメリーゴーランド』は天才的だ。すごく好きだ。勝てない、と思う。勝ちたいと思ったことはないが、まるで頂の見えない塔を見上げているような気持ちになる。


1月7日(土)

厳しい。

やらなければいけないことから目を逸らしたくて資源ごみをまとめて出した。恋人と一緒に聴こうと思って買っておいたアルバムを開封した。そのアルバムを聴きながら新しい毛糸を使って窓辺で編み物をした。アルバムは冬の柔らかな日差しによく合った。冬、誰もいない丘の上でひとり夜明けを待つ。その間にノートに書き溜めた歌をそっと見せてくれているような、そんなアルバムだった。


1月8日(日)

どうしても起きることができなくて、ようやく立ち上がったのは10時半前だった。焼きりんごが食べたいと思ってベッドの中で作り方を検索した。りんご1個に対してバター20gに砂糖大さじ2という凄まじいレシピの焼き方だけ参考にした。バター10gに砂糖なしである。おいしかった。そのままの勢いで窓を開けて掃除機をかけた。動き出してしまえばこっちのもんだ。

母方の祖母に手紙を書いた。箱根で買った富士山の絵が描かれたはがきである。太宰治の『富嶽百景』を再読してから富士山にはまっている。

春菊の袋に期間限定と書いてあった。それは、まあ、そうでしょうね。

ノートパソコンのファンが回る音がかすかにする。秋の虫みたいだ。




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