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【前編】鶏を屠殺・解体してきた日記(ふんわりイラストのみ)

 
世の中には2種類の人間がいる。

「屠殺体験いきたい人ー?」
「はーい!!」
になる人と、ならない人だ。

というわけで鶏をやってきた。

 

いま、私の手元には

「ムネやモモ、ささみ、手羽といった
オーソドックスな部位ごとの肉」

「レバー、砂肝、ハツなど
焼き鳥で見かける内臓たち」

「肺がくっついたままの肋骨」

「子宮管、卵巣、黄身になる予定のやつ、
卵の殻になる予定だったドゥルドゥルボール、
謎の何かたち(説明はあったはずなんだよな)」

「とさか」

「なんだこれ」

「アナル」

「ぼんじり」

などなど、

「おいしく食べられます」に始まり、

「食べられます
(おいしいとは言っていない)」

「食べてから食べ方考えてください
(食べられないとは言っていない)」

「食べられないけどダシにできます」

までのパーツがひととおり冷凍されている。
 

調理についても別で記事にできたらと思う。
ひとまず屠殺の話を聞いてほしい。
 

悩んだけれど、最中の写真は載せません。必要に応じてふわっとしたイラストにします。

しかし、性癖のイカレポンチによる日記のため、グロ方面に詳細な記述が多く、人格を疑うような感想がしばしばあります。
楽しめるであろう人に読んでいただきたい。

そんな記事です。

 

▶︎ そもそも、屠殺体験とは

対象の生き物を自分の手で"しめ"て、調理用に解体する体験。

今回は鶏なので、「鶏が鶏肉になるまでを学ぶ」ということだ。

いきもののつくり、いのちのありがたみ、食肉加工業のありがたみを知る……みたいなのが一応便宜上のそれ的なあれ。

上記を読んで、色々と想像したと思う。
私も「首切って…羽むしって…パーツ分けするのかな…」くらいの、ざっくりながら正解に近いであろうという想像を巡らした。
実際は、思っていたより細かい工程があって、力も使うし、臭気など五感への刺激も強く、なかなか複雑な行為だと実感を伴って帰宅した。

みんな、ご飯がどんなふうに炊かれていて、どんな味がするか知っていると思う。でも、自分で炊いたことがある人とない人では、その事柄への想像力が決定的に違う。
炊いたことがない人は冬場に米を洗うだるさを知らない。炊いてる途中に炊飯器の蓋を開けてしまったときの絶望を知らない。

私は……知った……!!!!!(にわか)

屠殺後の私は、屠殺前の私と一味違うぜ(にわか)

 

▶︎ 今回お世話になったところ

田歌舎(京都府)
https://tautasya.jp/

めちゃ山奥。道路が整備されていて助かった。終わらないトンネルを抜けた先から対向車が来なくなってドキドキした。水道来てない。電波は奇跡的に届いた(一部のキャリアは沈黙)。トイレ水洗式でありがとう。清潔でした。
犬小屋に繋がれている犬の鳴き声が野生。
稲や野菜の畑、ヤギ、カモ、エトセトラ。

シベリアの暮らしとか見ていてもそうだが、効率良く連携しなければ食糧や事故などで死に繋がりやすいコミュニティの人間、コミュ力高い。

 

▶︎ いざ、屠殺体験

※ 鶏の屠殺・解体手順は様々あり、田歌舎さんから教えて頂いた方法はそのうちのひとつに過ぎません。
また、記憶をたよりに書いています。省いている事柄もあります。
この記事を読みながら鶏を解体しようとしないでください。

■ しめる

「鶏が逃げたら追いかけっこするハメになるけれど、まず勝てません」

鶏って野生化する?
そんなことを考えながら鶏の足を握る。
掴まれた彼女(卵肉兼用種)は、ゲージから引っ張り出すときこそしがみついて抵抗したが、それきりおとなしかった。

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2羽1組でふんじばる。
腹をさわるとぬくもり。羽毛は硬かった。でもそれが良かった。ふかふかだったら家のネコを思い出してそこで試合終了していた。

頭を下にして、物干し竿のような竹へ吊るす。

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インストラクターのお兄さんが実演しながら手順の説明をしてくれる。
切断ではなく、切り込みを入れる方法の血抜きだった。
頬骨の裏あたり(首の動脈)を切り、あとは心臓のポンプの力で血を吐き出しきらせて失血死させる。

お兄さんが握る包丁が押し付けられたときも、刃が引かれて、トゥーーーと血が流れはじめても、鶏は静かだった。

数秒ほどしてからばさはさと羽ばたいて暴れ、徐々に動かなくなった。血はもう流れていない。

死んだ鶏、力が抜けた首がだらりと垂れて、羽が重力にならって半端に開いている。
他のまだ生きている鶏たちは他人事だ。

順番に包丁を持ち、1人1羽 担当した。

首の傷口から地面へと、一本の紐が垂れるように赤黒い血が流れていく。それはサラサラしていて、黒い腐葉土にぶつかって跳ねると光の加減でピンク色にも見えた。
いびつな血溜まりの色がなんだかウソっぽくて、白いキノコを半分だけ染めた鮮やかさも「できすぎている」とさえ感じた。

吊られた鶏たちと血溜まりの間に、大量の蝿が集まってくる。


私の番が来る。包丁は小ぶりで軽い。


鶏のトサカをつまんで頭を包み持つ。触って予習した頬骨の裏に刃を押し当てた。

食道を切ると、吐瀉物があふれて失血死するより先に窒息死してしまうため血抜きにならない。深く切りすぎてはいけないのだ。

かといって、浅すぎてもダメ。
私も含め、ほとんどの人が恐々やるために切り込みが浅く、ちゃんと動脈が切れるまで何回も刃をスライドさせることになっていた。
鶏の首がクレジットカードのスキャナー状態。本当にすまない。

切ってみた感想は、「ほとんど感触がない」である。
「切れないがー!?と、ごわごわの羽毛を撫でていたら切れてた」ってかんじ。

コツがわからず押し付ける力で切ったが、上から下へはっきりと刃を引けばもっと軽い力で手応えを感じながら切れたんだろうなと思う。


後から知ったのだけれど、「鶏に痛覚がないとは言い切れない、不安や恐怖を感じていないとは言い切れない」という研究状態で、気絶を伴わない屠殺はそれなりに野蛮な部類で扱われるんですね……(アニマルウェルフェア)
そりゃそうかとも思うが。
※体験内容を非難する意図はありません。

私は今後、上位存在に食用肉にするため生きたまま手首を切られ血抜きされたとしても、食糧難で飼い猫をも食用肉として提供しなければならなくなり生きたまま熱湯に放られて茹でられても、文句は言えない立場になったわけだ。かなしい。致し方なし。
倫理のバランス感覚って難しいわね……。


そんな感じで、そのとき私は確かに鶏を1羽殺したわけだが、リアリティがなくて、感動もないまま進んでしまった。
これ以上のリアルなど、ないはずなのだが。

鶏だからか、包丁を引くだけの大したことのない動作で済んでしまうからか、ものすごく「あっさり」していた。
体の芯からゾッと冷えるような死への恐れとか、心臓をバクバクさせて命を奪う興奮に体を熱くするとか、わかりやすい感触がなくて、はっきり言って拍子抜けである(自分がそういう人間ではないことはよく知っているが、なんか期待はしちゃうじゃん?)

流血や死への「ただごとではない」という認識と、その「ただごとではない」ことを目の当たりにした自分の反応の軽さ、ギャップが「リアリティがない」という感想に至ったのだと思う。

かと言って、たとえば落ちてきた鉄骨が人を潰してゾッとするような血溜まりを作ったとしても、それはそれで感情の許容量を超えて「リアリティがない」と言いそうだけれど…。
自分の予測できる範囲に収まる事柄でしか「リアリティがある」と言えないの欠陥だと思う。


ともあれ、死んだ鶏のだらんと弛緩した首。それが鶏にとっての死の象徴っぽくて、この段階ではそれがいちばん感情を揺らした。

人間も逆さまに死んで弛緩したら、首が長く見えるのかなぁて思った。
1が2になるんじゃなくて、普段0.7のものが1になった…みたいな、肩に力が入っていたせいでわからなかった本来の首の長さが死んで初めて現れるという解釈をしたのだけれど、それがわびさびの「さび」って感じでイイね。

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(こういうことをどうしても感じてしまうわけだけれど、その場で実際に言うとか、鶏で遊ぶとか、失礼になるようなふるまいはしないよう努めたつもり。切り取った後の肛門は嬉しくてしばらく見つめてたが……。命捧げてもらったぶん、なるべくおいしく食べようと思っています)

次回は羽むしったりする話。
最終的に肉切り分けて内臓も切り分けていく。続く。


【後編】鶏を鶏を屠殺・解体してきた日記