考える冒険の記録:【禿げる】について
抗がん剤治療を開始するにあたって,禿げることについてものすごく抵抗を感じる自分に驚いた。
以前は禿げるなんて,また生えてくるっしょ,くらいに軽く思っていたのだが,いざ自分が禿げはじめるとものすごく落ち込んだのだ
なんでこんなにも,禿げるのが嫌なんだろう?
それが私の持った問いである。
生きていて,ずばっと心に問いが浮かんだら考えるしかない。
私はこの問いについて哲学することにした。
哲学って高尚なものじゃないの?と人々は考えるかもしれないが
高尚かどうかは問題ではない。
哲学は自分の人生を自分で生きるためにあるだけだ。(by梶谷先生)
自分のぶち当たった問いについて考える。
仲間と一緒に。それは,冒険のようなものだろう。
そう思って,私は,自分の企画する哲学対話に名前を付けた。
冒険てつがく対話の始まりである。
数年前から哲学対話の仲間であった二村さんに声をかけてみたら,考えるための仲間を集めてくれるという。私は素早くzoomのURLを作って,二村さんに送った。
10/1,冒険哲学対話第一回の当日,私は仕事を終えてそそくさと,ルール説明のパワポを作った。
以前作ってあったものを作り直したので,すぐにできて,それからzoomの部屋に入った。30分前くらいだったので,まだ誰もいなかった。当然だ。
冷凍ペスカトーレをレンジで温めて,粉チーズをかけて食べた。
もりもり食べながら気がついた。
私は緊張している。本当にみんな来てくれるんだろうか。
結果として,みんな来てくれた。
対話はめちゃくちゃ面白かった。
なによりも,平板に凝り固まっていた自分の「禿げる」ことに対する考え方が,高く,幅広くなった。見晴らしが良くなった。
やっぱり哲学対話は身体にいい。
開始時点で自分は「とにかく・絶対に・禿げるのは・嫌!!!」と考えていたが,対話の終わりに考えたことは「ああ,私がこの今の超薄毛の状態で街に出たり,出勤したりすればいいのに。仕事したり会議したりしてる途中で髪の毛が落ちたりするけど,それも落ち葉が落ちるみたいになんともないことのように,そこに居られればいいのに。」ってことだった。
そのくらい,対話というのは,考えの移動に効果がある。
今日の冒険をざっくり振り返っておこう。
うまく書けないかもしれないけど書いてみる。
まず問いは,8人いたので8個出た。
1. ハゲはカッコ悪い。と思われるのはなぜか?
2. 頭の毛が禿げると、恥ずかしいのか?
3. なぜ毛のひとつに過ぎない髪の地位がこんなに高いのか。
4. 「禿げたい」という人を見ないのはなぜか。
5. なぜ頭がいい人ははげているのか
6. 少しずつ禿げていくのと、一瞬で禿げるのとどっちが嫌?その理由は?
7. 禿げることは、本性がバレるという意味か、それとも元々あるべきものがかけちゃっているという意味のどちらか?
8. なぜ禿げるのが嫌なのか?!
私の出した問いはもちろん,他でもない
8. なぜ禿げるのが嫌なのか?!
であったが,どれについて考えても,「禿げる」ことについての考えは促進されることが分かっていたので,最初の問いはどれでも良かった。
みんなで考えたい問いに挙手をしてもらった。結果として
6. 少しずつ禿げていくのと、一瞬で禿げるのとどっちが嫌?その理由は?
がスタートの問いに選ばれた。
きちんと全部の話を憶えているわけではないが
とにかく記憶と記録を活用して,どんな考えが出て来たかを書いていく。
だいたい,少しずつ禿げるのと一瞬で禿げるのとであれば,少しずつ禿げる方が嫌だよな,という意見が多かった。
抗がん剤治療で禿げる人々も,禿始めると剃る,という人が多い。それはなぜそうするのか,というと,「禿げゆく過程」が耐えがたいという人が多いからである。
ではなぜ「禿げゆく過程」が耐え難いのだろうか?
それは,日々変化する自分の姿に,日々アジャストしていかなければいけないからではないか?という意見が出た。100%だった髪が1%ずつ減っていく日々は,0になるまで100回負けるようなもので,「髪があるのがいい」という価値観そのままで過ごさないといけない日々が,全部負けた日になる。
日々「禿げていく」という過程で,「禿げ終わり」の日がくるまでずっと,負け戦をしている。負け戦は恥ずかしい。
そういう話になった。
逆に,禿げ終わったら「髪がある方がいい」という価値観自体が一変し,まあ言うと,髪のことなんか考えなくなるからつらくないという。一瞬でその地点に行けばなんともない。それは確かにそうかもしれない。抵抗をしている日々こそがつらく,抵抗してるのに思い通りにいかないから悔しく,恥ずかしいのである。
その話の続きで,
何かの機械があって,部品がひとつずつなくなるのと,いっぺんに部品が全部壊れるのはどっちが嫌か?いっぺんに全部壊れてほしいか?ということを話した人がいた。いっぺんに全部壊れてほしくはないし,部品が少しずつなくなるのも嫌だよ。とその人は言った。
その話にとくに結論はなかったのだ。
しかし私はそれをききながら,あ,そうかと思った。
いっぺんに全部壊れることに比べたら,いっぺんに禿げるのは,たいしたことではないという気がする。不思議なのは,「禿げた」状態は,「壊れた」みたいに終わった状態ではないという感じがすることだった。
「禿げた」状態というのは,植物を植えていない空き地みたいなもので,それはそれで,有りの状態なんである。
髪がないというのは,人間が死ぬことや,機械が壊れることとは違うことなのかもしれない。つまり,禿げたからと言って終わりではない,人間として破滅するわけではない。
また,自分で選んでるか選んでないかが恥ずかしさにつながってるという話にもなった。おならを自分から「今出してやろう!」と思って出す人がいたら,その人はたぶん恥ずかしく感じないんだけど,おならが「出ちゃう」というのはすごく恥ずかしい。自分が選ばなかった結果に対して,人はすごく
敗北感を感じるのではないかという。なんか「運が悪いことが恥ずかしい」みたいな。
また,「弟がハゲを気にし始めている話」をしてくれた人がいた。その人が言うには,弟は禿げているわけではないが,いろんなサプリメントを飲んだり,特別なシャンプーを使ったりしている。その人は,禿を気にして生活いること自体が,禿始めているということではないかと言った。
それをきいて,「神様の目線で考えると,人はうまれたときから死に始めている」と別の人が言った。(その人はなにかと神様の目線で考えてみるのだった)
そうか・・・と私は思った。
私は禿げることをすごく気にしていたが,それは,髪がある状態をデフォルトとしているということなのだった。私の心は,ずっと禿げに囚われていた。禿げに囚われているとき,私は禿げているんだった。
それから,ある人がこう問いかけた。
「自分で選んでないことでも,恥ずかしくないこと」はないか?
ここで私は,ある人からきいたことのある話を思い出した。
ある会社で,みんなで残業しないといけなくなったとき,
近くのご飯やさんで,適当にいろんなものを頼んで出前をとった
食べものが来て,みんな「俺はカツ丼」「私は天丼」みたいに,自分の食べものを選ぼうとしたけど,ひとりの人は「俺は最後でいい」と言った
その人は最後に残ったお蕎麦か何かを食べた。それを見ていた人は,自分で食べものを選ばなかったが,格好良かったって言っていた。
その人は「自分で選ばなかった」のに,何故格好良かったんだろう?
それは,「自分で選ばないことを自分で選んだから=人に譲ることを選んだから」格好良かったんだろうっていう話。
結局,能動的にというか。受け入れることができる人というのは格好いいということなのかもしれない,と思えてきた。
それから,また別の人が言った。
「自分は,髪がなくなるのは気にならない気がするけど,性欲がなくなることは怖い」そして続けて「髪がなくなるのはそんなに怖くないけど・・・昔,子どもの頃,目が悪くなることはすごく恐れていた。でも結局眼鏡をかけなくちゃいけなくなって,すごく恥ずかしかったし,すごく嫌だった」って。「自分も同じように嫌なことが分かって良かった」って。
だんだん分かってきた。
失われていく何かに対して,それを気にして,くよくよしていることが,一番そのことに囚われて,結果的に格好良くないことのようなのだった。
自分で選んでるか選んでないかが,恥ずかしさにつながってる。
自分が選ばなかった結果に対して,人はすごく敗北感を感じる。
私は,自分で選ぼう自分で選ぼうとして,本当は,ものすごくなにかに囚われていた。髪がある方が格好いい,元通りになりたいと思い込んでいた。
では,自分で選んでみたらどうなんだろうか。
同じように抗がん剤をした友達を思い出した。
その子も,髪が抜け始めたら,自分でバリカンで剃ったっていう。
そして,ふわふわした毛が生えてきたって。
私は,よく何も考えずに無防備に抗がん剤ができるなぁって
半分呆れるみたいな気持ちでその話をきいてたけど。
あの子の方が自分より格好いいかもしれない。
そういう思いが小さく心の中からわき上がってきた。
私は今,入院までして,必死で頭皮冷却をして,頭がいたくなって嫌な思いをしている。
私は,自分がそんな自分だからこそ,こんなにきつい思いをしていたのかもしれないなと思い始めた。
これを書きながら考えていて,
なんかもういいかもしれない
禿げてもいいかもしれない
と思うようになっている自分に気がついてきた。
禿げるかもしれないけど,もうそれでもいいかもしれない。
哲学対話を終えて,いまこれを書きながら,考えが変わったことに気がついている。驚いている。
私は,もうしなくていい入院はしたくない。
もう頭も冷やしたくない。
もう,必死に抵抗して,負け戦をするような生き方をしたくない。
そう考えるようになった。
禿げを気にしていないとき,人は禿げてないんじゃないか。
そもそも,禿げはそんなに嫌なものなのか。
なぜそんなに嫌なのか。
髪があるということは永遠の象徴。
髪がないというのは成熟の象徴。
髪が抜けゆくのは死へのカウントダウン。
髪を整えることは社会で生きる準備をすること。
どんな風にでも考えられる。
色んな体毛があるけど,なんで髪だけそんなにありがたがられるんだろう?という問いもあった。
そうなんだ。本当は髪にも。
本当はそんなに,深い意味があるわけじゃ,ないんだ。
髪がなくなることがなぜそんなに怖かったのか。
その奧にあったのは,自分がなんでもコントロールしようとする心,
変化を恐れる心,可哀想だと思われたくない心,
病気を否定して,元通りにしたい心があったんじゃないか。
そうだ,私は,何事も無かったかのようにしたいと思っていたんだろう。
でもそういう,無理に何かをしようとすること自体が,
すごくすごく、逆に無理をしていて,だから可哀想で,だからダサかった。
そうだ,私はすごくダサかった。
何にも対策をしないで禿げているおばさんや,
何にも対策をしないで,また髪が生えてきてる友達の顔が眼に浮かぶ。
彼女たちのほうが,私より格好いい。
私は,いま禿げているからではなく,
無駄な抵抗を必死でしようとしていることがダサかった。
私は何を守ろうとしていたんだろう。
そうなんだ,本当に欲しいのは髪の毛ではない。
私が欲しかったのは,
「病気なんて無かったみたいに生きる未来」であった。
でも,トラウマ治療でも,うつ病の治療でも
目指すのは,元通りになることではない。
目指すのは,起きたことを事実として受け止めて,
それと一緒に生きる方法を,折り合いを付ける方法を,見つけ出すことだ。
なぜか,私はもう今,はやく坊主頭にしたいと思っている。
入院したくなくて,もっと能動的に生きたいと思っている。
頭皮冷却を,もうやめたくなった。
髪が戻っても,病気はなかったことにはならない。
なかったことにしたいということにこだわって,
能動的に生きられなくなって,自分は苦しくなっていたのではないか。
私の頭は,永遠に変わってしまうかもしれないけど,
もうそれでもいいような気がしてきた。
もっと,何かを失うことを恐れないで生きたい。
なぜ禿げるのがこんなにも嫌なんだろう?
ということを考えたくて哲学対話をしてみたら,
もっと,何かを失うことを恐れないで生きたい
と思うようになった。
もしかしたら,私は選択を変えるかもしれない。
また明日になると考えが変わるかもしれないけど。
だけど今日は,問うことで
仲間と一緒に考えることで,
自分の人生を少し取り戻した気がする。
考える冒険につき合ってくれたみんな
どうもありがとうございました。
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