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わかりあえない私たちのための教養

前に、別のところに「教養」というテーマをもらって書かせていただいたものになります。生意気な書きぶりかもしれませんが、ご容赦いただければと思います。また、ご指摘や感想等あれば優しくいただけると飛んで喜びます。

 コミュニティをテーマに学んだり研究したりしていると、コミュニティという概念の変容とそもそもの曖昧さに触れることがある。例えば、地域コミュニティがコミュニティと同義だった時分は「地域性と共同生活の存在と共属感情による基礎社会集団」*1のような定義が多かったものの、近年では「人間が、それに対して何らかの帰属意識をもち、かつその構成メンバーの間に一定の連帯ないし相互扶助(支え合い)の意識が働いているような集団」*2といった地域性を問わない定義も出てきている。
 そもそも、そのコミュニティという言葉がどのようなものとして扱われてきたのか、その定義の数に目を向けると1955年にすら94以上もあったことがわかる*3。今や相当な量になっていることは想像に難くないだろう。昔、ゼミの教授から「君たちが卒業するころには”コミュニティ”について自分の言葉で説明できるようになっていてほしい」と言われ、一番納得感のある”答え”を探すのだろうと思っていたが、今考えるとそれは自分の中にある”コミュニティ”という概念をなるべく忠実に自分の言葉で定義できるようになりなさいということだったのかもしれない。
 このように、その言葉は共通でもそれぞれの想像するものは違うなんてことはザラにある。”地域”という単語で想像する範囲が違う、みたいなものもそれに類するものだろう。そう考えたときに、我々はコミュニケーションを通じてどの程度情報を(劣化させずに)伝え合うことができているのだろうか。平田オリザは著書の『わかりあえないことから』の中で会社が新入社員に求めるコミュニケーション能力を「異文化理解能力(=異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景が違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見いだすことができる。そしてそのような能力を以て、グローバルな経済環境でも、存分に力を発揮できる)」とした上で、明示されないだけで同時に求められる「上司の意図を察して機敏に行動できる」等といった従来型のコミュニケーション能力とのダブルバインドを指摘している*4。これが本当であれば、異なるコンテクスト間でのコミュニケーションの難しさを理解しつつも心のどこかでは”わかってくれる”という思考が存在しているのではないだろうか。

図1 求められるコミュニケーション能力のダブルバインド(筆者作成)

 ”同じ”会社だから、”同じ”年代だから、とある共通項がまるで全てのことをつなげているかのような感覚に陥り、つい”その他のコンテクストの違い”に気づけないなんてこともあるのだろう。綾屋は『つながりの作法』の中で、自身の抱える困難に「アスペルガー症候群*5」という名付けがされたことで安心し、他者の語りを自身のものとして仕入れることができるようになったと語っている*6。しかし、程なくして自身と他者の同じような困難の中にも細かな違いがあることに気づき、それが彼女らを包括するコミュニティから排斥させるような圧力に感じるようになったという*7。このように、”同じ”の中に”違う”があるなんてこともある。

図2 同じの中にある違い(筆者作成)

 さて、教養についての論考で「コミュニケーション」について延々と述べているが、つまるところ言いたいのは”教養”はそういったコミュニケーションの一種の橋渡しになるのではないか、ということだ。教養について広辞苑を参照すると「①教え育てること。②学問・芸術などにより人間性・知性を磨き高めること。その基礎となる文化的内容・知識・振舞い方などは時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる(下線引用者)」*8と書かれており、それ自体が準拠される集団や時代の影響を受けていることが伺える。多くの人に良いと思われたもの、その分野の先端を行く人が良い感じたそれらを”教養”と名付けることで尺度(Scale)を設定し、それらをなるべく同じようになぞらえることでそれらを共有する人々は”同じ”に近づくことになる。例えば、同じ”歴史的教養”を身に着けたとする。〇〇年に◎◎が起きたことについて知り、語ることができる私たちは、(たとえそこから感じ考えることが違っていても)設定された”教養のある人物”として同型化に一歩近づくのである。もしくはそういった価値観の共有行為なのではないだろうか。
 もちろん、それだけではないだろう。教養は、ドイツの新人文主義運動でも掲げられたようにそれをもとに新たなものを創造、展開するためのものにもなる。それらを刺激として吸収した後に新たなものが生まれる。それぞれ独自のパーツ(コンテクスト)を持った計算機(人間)だと考えれば、はじき出す答えがバリエーションに富むのも頷ける。であるならば、教養はわかりあえない私たちをつなぎ、コミュニケーションの質を引き上げるだけではなく、それらの差異から自身を発見する道標にもなるのではないか。

 これらのことから、ただ身につけ何かを目指すだけではなく、自身の考える教養が一体何からどのように形成されたのかと思いを馳せることも重要なのではないだろうか? といった問いを投げかけ終わりに代えさせていただく。

*1 倉田和四生. (2000). コミュニティ活動と自治会の役割. 関西学院大学社会学部紀要
*2 広井良典, 小林正弥編著. (2010). コミュニティ:公共性・コモンズ・コミュニタリアニズム.勁草書房. P.13.
*3 Hilary. G. (1955).  Definitions of Community: Areas of Agreement. Rural Sociology, 20, pp.194-204.
*4 平田オリザ. (2012). わかりあえないことから. 講談社現代新書, pp.16-17.
*5 現在では自閉症スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder)と表現されるものだが、ここでは書籍内の表現に従う。
*6 綾屋紗月, 熊谷晋一郎. (2010). つながりの作法. NHK出版生活人新書, pp.85-87.
*7 綾屋紗月, 熊谷晋一郎, 前掲書. p.90.
*8 『広辞苑』第六版. 岩波書店, 2008


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