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可哀想についてのメモ

こんにちは。
昔に考えたことを、ひょんな機会から考え直すことがあったので、そのメモになります。

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 よく、誰かに対して「可哀想」という言葉を使う人を見かけます。
 例えば、「〇〇さん、自分のことしか見えなくて可哀想な人だな」とか「〇〇さん、ひどい目にあったみたい。可哀想」などといったものでしょうか。
 この場合、可哀想は一見その人の状況を表す言葉のように見えますが、私はそれが疑問でした。

 可哀想という言葉には、"あわれで、人の同情をさそうようなさま"とあったりするので(コトバンク)、相手の状況を表すことは言葉としては間違いではないのかもしれません。

 一方で、その"あわれ"は誰が判断するのでしょうか。
 少なくとも、対象となる人ではないように思います。もっと言えば、それは「可哀想」と発したその人なのではないでしょうか。

私は あなたのことを 可哀想だ と思う

 そういった言葉として可哀想を扱う時、相手の事情をお構いなしに自分の感性の中に相手を閉じ込め、あたかも相手を知った風な姿勢で同情心を差し向けているように感じてしまいます。
 彼/彼女は、自分自身で可哀想だと感じているのでしょうか。あるいは、なにか私達の目に見えない社会というものが、彼/彼女に「可哀想」のラベルを貼っているのでしょうか。

 自衛として、「可哀想」のラベリングを使うこともあるともいます。相手に「可哀想」のラベルを貼ることで「可哀想ではない自分」との距離を取る。それは、相手との差異を同じ人間として受け止めきれない時(例えば、なんでそんなマウンティングしないとやっていけないんだと憤ったときなど)に、自身と相手との差異の謎を「可哀想」という距離感に担ってもらおうとしているのかもしれないと思ったりします。

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 色々なことを書きましたが、「可哀想」と光を当てられてできた影以外にも、対象から描き出せるものがあるのかもしれない、と思って生きていきたいと思ったという話でした。


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