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備忘録『ケアとアートの教室』(左右社)

 最近、『ケアとアートの教室』(左右社)を読んだので、その中で印象に残ったいくつかのことについての備忘録です。

でもね、例えば十三年間お風呂に入っていないというひとがいたら、福祉施設は入浴の支援につなげちゃうと思います。そのひとはお風呂に入らないままその場にはいられない。そこにはある種の社会的規範があって、どうしてもその規範に当てはめてしまう。

『ケアとアートの教室』(左右社) p.185 飯田さんの発言より

 この話を読んで、たしかにそうだと思いました。仮に十三年間お風呂に入っていない人が目の前に現れたとして、私はきっと「お風呂に入ることができなかったのかも。入れる機会をつくれないだろうか」とかバックグラウンドを自分勝手につくって押し付けてしまうかもしれない。もしそんなこともなく、「彼(彼女)にも彼なりの理由があって自分には想像も難しいのかっもしれない」と思えたとして、そのひとを入浴なしに同じ場に受け入れることができるだろうか。今の私には難しいかもしれない。

場やひとの性質は、「ハレ(非日常)」ではなく「ケ(日常)」の積み重ねがつくり出す。

『ケアとアートの教室』(左右社) p.209

 この文は、読んだときにいくつか頭をよぎるものがありました。
 一つは、ヘミングウェイの『移動祝祭日』に出てくる「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」という一文。小杉湯の「ケの日のハレ」との接続になるなぁと思ったりしました。
 もう一つは、ブルデューの『ディスタンクシオン』。これは100分de名著で読んでいたものなので、原著を読んだものというよりは、岸政彦さんの解説になります。細かい部分はまた別で話すか、実際に読んでいただきたいのですが、ブルデューも「ハビトゥス(行為や価値判断の傾向性のようなもの)」を考える際に、会得する場所として家庭と学校を区別していたようです。そして前者は空気のように自然に振る舞うものとして働き、後者は禁欲的な規範のようなものとして働くとしているようです。ちょうど同時期に読んでいたこともあり、ケのほうが自然に浸透しやすいみたいな意味合いで繋がりました。

 一旦こんなところで。読んですぐ忘れちゃうのは避けたいので、定期的にアウトプットの機会をつくりたいところ。

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