自分を立て直すために
先日この記事を書いた。
私の仕事は単なる受託業務の事務作業だ。
お仕事をもらってそこから対価をいただく。
ただ私の仕事は受注性のあるような仕事ではないため、ノルマなどはない。与えられたことだけを行えばいいのだ。
しかし、その与えられたことのほとんどは委託元は細かい仕事内容を知らない。知らないまま、毎月の業務報告を受け、請求に従う。その業務内容にたとえミスがあっても業務委託契約のため委託元はしっかりと支払ってくれる。ミスをしてもペナルティがあるわけではない。
今回の私のミスもそうだ。
例えインシデントを起こしたとしてもそれは金額には跳ね返らない。事務ミスをした人間へも何もなく、ただお金を支払い、みんながそれぞれに自分周りの作業を片付けていく。
「次からは気をつけて」と。
受託先がミスをすることについての責任については契約書には書いておらず、そのため受託先がミスをすると、普段作業をしない委託元はわけがわからないままの状態で、私のせいで至極迷惑となるのだ。
他人ごとにするわけではないが、私は委託をしてもそれはいわゆる「連帯責任」なのだからと言いたいが、私の事務ミスによるものなので何も言えない。「受託先が、、、」「担当者が」という委託元内のエスカレーションの説明に対してももちろん何も言えない。「末端にすべての責任を押し付けて、自分の地位を確保しそして体裁だけを整えているか。」なんて口が裂けても言えない。
目に見えるペナルティは無くとも、圧力は半端ない。
先日の記事で組織について述べた。
「確認した?」「確認した内容を説明して」
と言われて説明したところで、所詮それは私が行った作業をなぞるだけ。それはこの作業の責任はすべて私にだけあると説明をしていることと同じ。
作業に間違いがあろうがなかろうがちゃんと順序通りにやっていると理解をすれば「ちゃんと確認したんならいいよ」と承認される。
確認した?として承認をすることは、決して責任が移行したことを意味するわけではなく、確認した?ということに対して「はい」という1択しかない答えを聞き「わかりました」と承認することだけにしか過ぎない。
だから結局責任は私にしかない。そのあとでわかった事務ミスは「あの報告はなんだったの?承認しちゃったじゃん」と言わんばかりに目を合わせず「次から気を付ければ」という虚無の言葉へとつながり、報告書には「担当者の確認漏れ、経験未熟」などの言葉がつづられる。
承認した人の責任は?と言いたいが、何も言えない状況がこうしてまた出来上がる。
作業の責任。単なる事務仕事は人の生き死に関わることはない。ただ空気のよい場所で「職場内の空気の良い環境づくりに取り込みましょう。」と楽しいそうな笑い声が聞きながら、その見えないところで息苦しく空気を取り込むことのできない窓を叩き間違えてはいけないという環境下で、作業の責任を全うしている人がいる。事務仕事だって命がけなのだ。
厚生労働省が2006年にメンタルヘルスの指針を公表し、多くの企業がお国のおっしゃることに従い従業員のメンタルヘルスケアに取り組んでいる。
とても大切なことでそもそも当たり前のことであると思っているが私にはどうしても懸念することがある。
それはストレスチェックだ。
ストレスチェック制度は、労働安全衛生法に基づき、2015年12月から企業に義務づけられている。
その名の通り、ストレスの度合いを自己チェックするのものであるのだが
このストレスチェックは約100項目近くあるので、
これを全部やる方が私はストレスを感じる。
しかも業務中に、必ずやるようにと会社の指示に従う。
これで本当に従業員のストレスを図れるとおもっているのだろうか?
もし、パワハラにセクハラに悩んでいる従業員がいて、本当にその人はこのストレスチェックに正直に答えるだろうか。
ここは企業の中の組織ですよね。
この環境下でおこなう、義務化されたストレスチェックはただのデータ上のものにしていませんか?報告義務の材料にだけ、していませんか?
あれをやれこれをやれあっちはやったのかと言うものに優先順位をつけて自分の作業の効率を図ろうとしても、
さらに上の指示のより私の優先順位の一番上に「最優先」が乗っけられる。
実はこのインシデントには、ミスの弾数がまだ残っており、それが発射されたときは「またか、」という顔から「私をクビにするき?」という言葉がでてきている。
「言い訳」は言ってもはじまらないが、このインシデントは事前に提言していた。繁忙すぎる中での運用変更、システムの導入はやめてほしいと、あれだけインシデントシミュレーションを説明したのにもかかわらず会社は委託元からの要請としてたった数万円の委託契約費用の上乗せだけ事を進めた。
実際にこうしてインシデントが起きると「経緯、原因、再発防止」といった報告書をつくるのだが、どこにあの時私たちが訴えたことがかけるのだというのだ。文字を並べて、文章の体裁を整えて「はい、これからはこのようにして進めて」という。
また間違ったら、何が違ったと文章をDELETEして書き直し、もっともっと間違えられない状態を作り上げる。
人間だから間違っても仕方がないなんてきれいごと。そんな生ぬるい話通用するはずがない。間違えない方法をつくっても間違えることがある、そしてそれは間違えた人間にしか責任は乗ってこない。間違えた人間はさらし者とは言わないけどみんなに共有して、みんなにも注意してもらうからと、建前上かばうふりして、隅に追いやる。
「確認した?」
「もう大丈夫だよね?」
悪魔ささやき。
「確認した?」は「はい」を聞くためだけの言葉。
あとで「そう聞いたよね?」と言うための、相手側の自分への擁護。
荒い言葉の使い方は先が鋭い凶器。
結局、末端で作業をすることはその他誰にも頼れない。
完璧に出さなくてはならない。
だから考える。
どうすれば、自分を守ることができるのか。
兵庫県のパワハラ事件の悲痛さが痛いほどわかり、手を差し伸べる人はいなかったのだろうかと、苦しくなる。
でもそんな人いても言えない、言わない、それが現実なんだ。
262の法則。
どんな環境でも2割の人は自分のことが嫌い。
どんな環境でも2割の人は自分のことを信頼してくれている。
6割はどちらでもない。
自分を守るため、法則に当てはめる。
私は、後者でいたい。
残りの8割の人は決して信用せず、人任せにはせず目をつぶって完璧に提出できる作業を行うしかない。
真剣に、私を信用してくれる人がいるから。
安心して、真摯に、言葉は丁寧に。
ギュッと握りしめたこぶしを開くには時間がかかる。
みなさんのとなりに、手を握りしめている人はいませんか?
優しく声をかけた瞬間、目に涙を溜める人はいませんか?
企業の皆さん、現場の本当の声、知っていますか?
パフォーマンスだけで、コミュニケーション図っていませんか?
ただ、「がんばって」といっていませんか?
「次、気を付ければ大丈夫」って言っていませんか?
それ、
苦しめていますよ。
先日のニュース。
順天堂大学のオリンピック選手の方のこと。
順天堂大学は
と言葉を残した。
彼女は救われただろうか。
どうか19歳の子の目をつぶさないでほしい。
どうか、
「また次があるよ」「次、がんばれいいよ」「次から注意すればい大丈夫」
なんて浅はかに、彼女の小さな心に針を刺さないでほしい。
確認をすることは当たり前のこと。
作業は間違えてはいけない事のもちろん当たり前のこと。
それを怠ることも甘えることもしない。
仕事が繁忙でできないといっても人材を増やさず、時間外も制限し、行く道を奪われてもなお、ミスしたことの責任について、会社は考えると言うことを真に受けるふりをして、自分と自分を信じてくれる人のために確実に確認をして自分の手から離さなくてはならい。
もう、このこぶしを握らないために。
自分を擁護しないと言った私は、結局こうして、自分を擁護してしまった。
だって、あした会社行きたくないんだもん。
まだ頑張れるかな。
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