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私の「優しさ」の根源|100%、相手を思った「優しさ」は存在するのか

人に「優しいね」と言われる度、
『優しさ』とは何だろう、と考えてしまいます。

私の大好きな辞書、新明解国語辞典(第七版)によれば

【優しい】
相手に対する思いやりや心づかいが十分にあるととらえられる様子だ。

三省堂 新明解国語辞典(第七版) p.1522

だそうです。

しかし、私が人から「優しい」と言われる際の言動、その根源を辿ると、

  1. 「嫌われたくない」という怯え

  2. 本当に嫌なことを避けるために徳を積む意図

  3. 親切にされたことへのお返し

  4. 場の公平感を保つための自己犠牲

  5. 「良いことしたな〜」という自己満足

正直に書くとこんなところです。

お恥ずかしい話ですが、
相手に対する思いやりから生まれた「優しさ」など、
はっきり言って、無いわけです。


「嫌われたくない」という怯え


幼い頃から
「自分はいつ虐められてもおかしくない」
という謎の怯えを抱えていました。

トラウマなどがあるわけではありません。
しかし、人見知りで引っ込み思案、
当然気も弱い。

そんな自分のことを、
どこか他人事のように、
「いかにもイジメに合いそうな人だな」
と思っていました。

中学時代、いわゆるカースト上位の子たちが
特に怖かった。

校外学習のとき、その子達の傘を差していたこともありました笑
今思えば従者かよという感じですが、
当時はとにかく
「優しくしないと虐められる」
と思い込んでいました。

相手を思いやった優しさではなく、
自分を守るための優しさです。


本当に嫌なことを避けるために
徳を積む意図


これも主に学生時代の話です。

リーダー的な立ち位置
人前に出ること
何かの代表や選抜メンバー
そういったものが本当に苦手でした。

そこで考えました。

普段から皆が嫌がることを積極的に引き受けたり、
みんなに親切にしたりすることにより、

「しろくまさんはいつも色々してくれてるから」

という理由で、やりたくないことを避けやすいのではないか?

と。

教室のゴミ捨て、音楽祭のポスター制作、委員会の雑務 etc…
こういうものは徳積みチャンスと思っていました。

人に好かれるため、というのも近いですね。
「円滑な人間関係のために徳積んどこう」みたいな。

これは学生時代だから通用した技かもしれませんね。
社会人でこれをやりすぎると、面倒事や雑用をどんどん押し付けられる危険性もありそうです。


親切にされたことへのお返し
場の公平感を保つための自己犠牲


自分にとって「公平感」や「平等」は
非常に重みのある言葉です。

コミュニティ内で特定の人物の不満度が高い。
あるいは、自分だけが良い思いをしている。
そういったアンバランスな状態に強いストレスを覚えます。

親切にしてもらったら、
お返しをしないと気が済まない。

場の中に不満を抱えた人がいれば、
自己犠牲を払ってでもその不満を軽減し、
場の満足感をできるだけ公平にしたい。

自己犠牲による不利益よりも、
不公平感が強い状態のほうが
遥かに強いストレス
なのです。

相手や周りのためではなく、
完全に自己満足です。

※この話はまた別の機会に深堀りしたいなと思っています。


「良いことしたな〜」という自己満足


小さな幸せに浸るのが大好きなのですが、
そのうちの一つ、

布団の中で、
「今日、人に親切にした経験」
を思い返してニヤニヤすること

が大好きなんです。
恥ずかしくて人には言えませんが。笑

自信なんてこれっぽっちもない。
自己肯定できるような材料もない。

そんな自分でも、
「誰かに親切にした」
「人のためになることをした」
という小さな事実があるなら、
ちょっとは自分を褒められます。

道端のゴミを街のゴミ箱に捨てるとか、
運転中、別の車に前を譲るとか、
店員さんにちゃんとお礼を言うとか、

ひとつひとつは
全然大したことじゃないんですが、

「理想の自分なら、こういう行動を取るだろう」
という動機で行動することで、

「少しは理想の自分に近付けた気がする」
と嬉しくなるんです。

感謝されたらさらに嬉しさ倍増。


いかがでしょう。
自分で書いておきながらこんなこと言うのもなんですが、

なんて自分本位な人間なのでしょう……。


最初の辞書の説明、覚えていますか?

【優しい】
相手に対する思いやりや心づかいが十分にあるととらえられる様子だ。

三省堂 新明解国語辞典(第七版) p.1522

……うん?
相手に対する思いやり?
どこが?

言動の根源を見ると、
見事にすべて自分のため

こんなに自己中心的な考え方なのに、
「優しいね」と言われると、
居た堪れない気持ちになります。

だけど、
相手のためを思った優しさなんて、
この世に存在するのでしょうか。

本当の優しさには、
「こうなったらいいな」という意図も、
「こうしなければならない」という義務感も、
「良いことしてやったぞ」という自己満足もない。

私はそう思うわけです。
そして、そんな優しさは、
私なら不可能だと思ってしまいます。


……とまあ、グダグダと考えてきたのですが、
ぶっちゃけ、どうでもいいんですよね。

人のためだろうが、自分のためだろうが、
外から見たら何も変わらない。

見ているのは行動の部分のみで、
根源の部分はどうでもいい。

それが世の中の答えである気がします。

うん。
やっぱり、こういう答えのないことを考えるのは楽しい。
何の生産性もないけど。

今後も、「優しさとは」は一生考え続けるテーマの一つだと思います。
進展があればまた共有するかもしれません。

それでは、また別の記事でお会いできることを祈っています。

2024年6月24日 しろくま

P.S.
ここまで読んでくださった方には、
BUMP OF CHICKENの楽曲
『ひとりごと』
オススメします。

ねえ 優しさってなんだと思う

BUMP OF CHICKEN - ひとりごと

という歌い出し。
かなり哲学的な一曲だと思います。

歌詞についての感想を論じる記事も書いてみたいな。

ではでは、今度こそ本当にさようなら。

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