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コロナはコミュニケーションの質を引き上げた

マニアックな雑感。

もし,ファシリテーションがまだdoingだけでなくbeingを中心に行われるとしたら,このコロナっていうのは,壊滅的にワークショップという集まりを食い荒らしているんだろうなと思う。私が習ってきたワークショップの現場は,超三密どろどろの涙と鼻水と唾飛沫の嵐だった。

とはいえ、ファシリテーションがまだ社会にニーズがあって、人と本当に向き合いたい人の願望(欲)があるかぎり、新しい手法は生み出されていくだろうし、試みる人は終わらないだろうなと思う。ただ、たぶんコロナは消えないし、社会は変わらざるを得ない。

これまでの話を批判するような流れになってしまうが、私は、もう10年も前に、ファシリテーショントレーニングを受ける中で、本当にファシリテーションって何なんだ??と足りない頭でずっと自問自答していた。
エンカウンターグループを続ける中で、ファシリテーションって結局何かをやってる感じがしないと何度も思った。何かやる、人に働きかけるって考えること自体がとても変だと思った。もっと自律的で自動的なもの、自由でシンプルなもの。
つまり、ごく簡単に言えば、何もしないこと。何もしないファシリテーション?何もないワークショップ、場作りって何??
って、そもそも「すべてはつながっている」はずなのに、何で場を作って集まって、つながってるねごっこ(失礼)しなきゃならんのだろうという傲慢な本音を隠しきれなくなり、(それだけの理由ではないけれど)いつしか場作りもやめてしまった。

ファシリテーションは日常にあるはずで、全てはつながっていて、今にすべてがあるのなら、コロナがどんなに表面上のつながりを分断しようとも、私達はつながっているのだし、そのままでいられるのだと思う。まだ、はっきりとした確信ではないけれど。
そういう意味で、コロナは私達のある種、スピリチュアル的で、コーアクティブ的なつながりを一段階引き上げざるを得なくさせているし、ジキルとハイド的な気がしている。語弊しかないが、私はある意味で楽しみだ。

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