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冷蔵庫ひとつ

大学時代から一人暮らしを始めた。

何もない、畳の匂いだけが新しい六畳一間の安いアパート。

古い学生街の名残で、風呂無しの格安な物件だったから、まずは風呂を探しに近所を散策した覚えがある。

一人暮らしを始めるにあたり家電量販店で買い揃えたセット家電の中に、小さな冷蔵庫があった。

大学に通い始めると、程なくたくさんの友人ができた。

毎晩のように、溜まり場となった友だちの家でくだらない話をして過ごした。

そんな家はいくつかあったし、連日のように友達の友達と友達になって、そいつの家に遊びに行っていたから、家に帰るのは、日に数分程度だった気がする。

時折帰ると、買い置きのペットボトルを冷蔵庫から一つ取り出し、わずかな一人の時間をぼんやりと過ごしてはすぐに出かける。

そんな日々の繰り返しは、今思い出しても、最も自由を謳歌した楽しいひとときだった。

大学に入学して一年。

大学が引っ越すことになった。

もともと街中にあった大学は、老朽化が進んだこと、総合大学として非常に大きな大学だったためにその場所では手狭だったことから、何年かに分けて少しずつ移転をしていた。

とうとうその順番が、俺の文學部にもやってきたのだ。

新しいキャンパスはJRの鈍行で8駅くらい、それからバスに乗り換えて15分程度離れたところにあった。

隣の市の山を切り開いたところに広大な土地を取得し、そこに多くの学部がすでに移転してきていたから、すでにそこには学生の需要をあてにしたマンションや飲食店などが集まり、一つの大学を中心とした新たなコミュニティが作られていた。

バイクに乗っていた友人の中には、引っ越すのが面倒だからと言う理由で、元の場所から新しいキャンパスまで通っていたものもいたが、多くの友人は引っ越すことを選択した。当然俺もそのうちの一人となる。

当時、俺の移動手段は徒歩と市電。市電は当然新キャンパスまで伸びてなどいないし、さすがに引っ越さないわけには行かなかったのだ。

多くの友達が大学そばのマンションに移り住む中、値段が安いという理由で少し離れたユニットバスの1DKに移った。

徒歩ではとても過ごせないくらいには辺鄙なところに大学があったので、友達が古い原付を手放すと聞いて三万で手を打ってもらった。

しばらくはそこに住んでいたのだが、その頃には女の子の家に転がり込んで、そこで寝泊まりするようになっていたから、安いとはいえ初めてのアパートに比べて、倍近くの家賃を払うのがもったいなく思っていた。

その頃、友達が風呂共同の格安物件に空きが出たと教えてくれた。しかも、大家さんが軽トラを貸してくれるという。

時折隣から喘ぎ声が聞こえてくるという特典はあったものの、それでも家賃は倍だったので、安い物件の魅力が勝り、引っ越すことにした。

あいかわらず家には戻らなかったが、たまに一人になるときそこは最適な場所だった。

俺は昔から自分の部屋があっても本当にたまにしかそこに行かなかったから、生来の気性なのかもしれない。

大学を卒業し、先生になることが決まって宿を引き払うとき、多くのものは大学院に残る友人にみんなくれてやった。

そうは言っても今度は社会人として一人暮らしが始まる。さすがに仕事をしながら友達のうちを渡り歩いたり、女の子のところに転がりこんだりはできない。

先を見据えて、クロネコヤマトの単身引越しパックに入る冷蔵庫と洗濯機、炊飯器だけは鹿児島に持ち帰ることにしたのだった。

結局、その後俺は30で結婚するまでこの冷蔵庫と暮らしている。

炊飯器はどんなに上手に炊いても、必ず外側カリカリ、中がジュクジュクに炊き上がるようになっておさらばした。往年は炊飯器チーズケーキを作ってくれた立派な勇士であった。

洗濯機は、安い物件で室内に置くことができなかった過酷な環境に耐えて、よく頑張ってくれたが、ポンプとは違う、謎の場所から水が漏れるようになり、現役を退いた。

つまり冷蔵庫だけが、大学時代のみならず、就職後の最初の4年も、結婚に至るまでの最後の5年も、俺の一人暮らし時代、全13年間を知る唯一の証人なのだ。

彼は晩年、妻の持ってきたもう一つの一人暮らし用冷蔵庫と二人並んで、安らかな余生を過ごし、その後俺の元を去った。

自身は下取りとなり、後継を新しい家庭用冷蔵庫に託して。

今でもふとした折に思い出す。

サラダボウルいっぱいに作って冷やしたプリン。

先輩が、寝込んだ俺のために持ってきてくれたゼリーとアクエリアス。

ひどく泣かせてしまったあの子が作り置いてくれたタッパーのおかず。

キンキンに冷えたあの頃の思い出は何より僕の胸を熱くしてくれる。


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この小説は、三人の共同企画参加記事です。

賞品はお任せ!三人がどう料理してくれるか楽しみにしているよ😏


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