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旬杯審査員賞六句【白賞】

やあ、みんな、いらっしゃい。
あっという間に八月。
毎年思うけれど、暑いよねえ。
夏日、真夏日、猛暑日って区分けがあるんだけど、25℃以上が「夏日」、30℃以上が「真夏日」35℃以上が「猛暑日」なんだって。
ここ連日猛暑日だらけで、一番暑い14時ごろなんて体感40℃超えてるよね。40℃ってもう体温なら、熱冷ましの薬飲むレベルだよ!
そんな状態なのに、もう直ぐ立秋を迎え、秋になるなんて信じられないよな。
今年の立秋は8月8日なので、夏は8月7日まで!

そんな中、俺のページ「審査員賞 白賞」へようこそ。最近あんまりnote界隈に来ない俺のところまで見に来てくれてありがとね。

では、さっそく白賞の発表をしていくよ。

鶏小屋に卵が二つ風薫る

季語は「風薫る」
三夏の季語だ。

素敵な季語だよね。三夏というのは、初夏から晩夏まで、夏のどの時期でも当てはまる季語のこと。傍題(風薫るの別の言い方と考えて貰えばいい)に、「薫風」とか「薫る風」「風の香」なんてのがある。字面を見ても、夏に吹き渡る風の触感とともに、新緑や若葉の瑞々しい香りが届いてくるような、嗅覚を刺激する季語でもある。爽やかで、明るい感じがするから、作者の感じた明るい思いを託すにはもってこいの季語だね。

 さて、季語を除く十二音を見てみよう。上五中七 鶏小屋に卵が二つ(とりごやにたまごがふたつ)これは、実景だろうね。鶏小屋に行ってみると、そこに卵が二つあったという事実をそのまま詠んでいるだけ。
 ところが、この事実に季語「風薫る」を添えると、途端にそこに詩が生まれてくる。鶏小屋にあった二つの卵を見て、作者が感じた喜び、鶏小屋に置かれた真っ白な卵の輝き、鶏小屋の匂い、明るさ、手触り、そんなものが一気に感覚として押し寄せてくる。これがまさに、季語の力を信じた一句だということだ。

 さらに深掘りしていこう。

 まず、「鶏小屋」という場所から、そこに飼われる鶏や、鶏を飼っている人の姿が想像できるよね。そして、鶏の世話をする姿、産み落とされた卵や、時には鶏自体を大切にいただいて暮らす生活なんてのも想像できるかもしれない。
 そして、その鶏小屋に卵が二つある。鶏が卵を産むのは、多くても1日に一回らしいから、多分何羽か雌鶏がいて、そのうちの二羽が産んだ卵がそこにあったのだろう。その卵を押しいただくように大切に手に取る作中主体の姿が目に浮かぶようだ。きっと自然の大きな懐の中で様々な生と向き合いながら生きている人物であろうと想像される。作中主体のそんな自然に対する敬虔な思いは、風薫るという季語に凝縮されていくのだ。

 この句の切れは、中七と下五の間。「二つ」という数詞の後ろだ。ここからも思いを汲み取りたい。切れがあるということは、そこに作者の感動があるからである。こういうときは、あえて言葉を置き替えてみたり、入れ替えてみたりすると理解が深まることがある。

例えば、

【原句】鶏小屋に卵が二つ風薫る

① 鶏小屋に卵が一つ風薫る

② 鶏小屋に二つの卵風薫る

③ 風薫る二つの卵鶏小屋に

こんな感じだ。

 こうやって比べてみると、①の場合は、やっと初めての卵が産まれたような感じが出るし、②だと数よりも卵に焦点が行くが、原句に比べると、卵がなんとなく離れ離れにポツポツとある気がする(白の感覚)じゃあ③だとどんな感じがする?…という感じで考えてみるといい。

 そうそう、それから、助詞を変えてみるのも一つの方法。

④鶏小屋の卵が二つ風薫る

⑤鶏小屋の卵は二つ風薫る

⑥鶏小屋へ卵を二つ風薫る

⑥になると、自分がニワトリになった気がしない?鶏小屋へ卵を産んできたみたいな笑

 ともかく、作者はそういった中で、この助詞、この語順を選んだ。そこを深読みしていくとまた句の鑑賞が変わってくるよな。

 というわけで、長々と書いたが、作者は鮎太ちゃんだったか。あとから投句記事を見させてもらったが、「平凡に生き平凡に茄子を焼く」といい、等身大の句が魅力だよね。
そうそう、鮎太ちゃんと鶫ちゃん、ロハちゃんの3人で交換するあすなろの手紙〜俳句を添えて〜はぜひ一読してほしい交換書簡。

鮎太ちゃん、素敵な俳句をありがとう。


乳呑子の静かな眉夏近し

季語は「夏近し」晩春の季語だ。

旬杯は夏の大会なので、厳密に言えば季節がおかしいことになる。とはいえ、そこがみんなの俳句大会の懐の深いところ。夏っぽい俳句で無季俳句も歓迎する旬杯だから、夏の一字を含む、この晩春の俳句を許容しようと、まあそういうわけだ。

さて、夏近しという季語以外のところを見てみよう。

上五中七の乳呑子の静かな眉という措辞。俺は最初(ちのみごのしずかなまゆ)と読んで、字足らずなのかなーと思っていたのだが、眉って「まみえ」って読むんだね。泉鏡花や夏目漱石の作品の中にこの読みがでてくるけれど、漢字ぺディアでは、その読みは見当たらなかった。何か当て字だったり、方言だったりするのかな、東京方言という記事も見つけたが、真偽は定かではない。

乳呑み子、つまり赤ちゃんの静かな眉というと、ちょと昔を思い出すなあ。ギャン泣きをした赤ちゃんが、おっぱいを飲んだ後、縦抱きをしてげっぷを出させたら、すっかり落ち着いて腕の中ですやすやと眠りにつくあの時のことが、鮮明に思い浮かんでくる。
これも、「静かな」という形容動詞のおかげかもしれない。そもそも、眉が騒がしいことなんてないわけで、とすれば静かな眉は当たり前なんだけど、それをあえて使ってくるあたりが上手いよなあ。

 形容詞や形容動詞って、ともすれば説明的になるし主観的なものでもあるので、それをいってしまうとそれ以上の広がりがなくなってしまう、俳句にとっての要注意ワードの一つ。

 例えば、乳呑み子の「きれいな」眉とか「元気な」眉とかいっちゃうと、ちょっと伝えたい内容を言いすぎてしまう感じになっちゃう。それよりは「眉のぴくりと」とか、そのありのままの状況を語った方がいい。でも、ここでの「静かな」という措辞は、眉のそれでありながら、生命の安らぎや周囲の安寧をも表現したような感覚を受ける。これはやはり、夏近しという季語との取り合わせでできた相乗効果かもしれないな。

「夏近し」というのは、もう直ぐ夏だなあ、という作者の夏への期待の表れを含んだ季語でもある。生命が最もその輝きを増す季節、それが夏である。そこに赤ちゃんの健やかな成長がダブルイメージとして乗っかってくるところがこの句のポイントかなーと思う。

作者は、理菜ちゃん。うつスピちゃんのネップリ仲間の方なのね。うん、さすがお見事でした。素敵な句をありがとう。


晩夏光白く残りし腋の下

この句の季語は「晩夏光」その字の通り、晩夏の季語だ。
晩夏の光って、もう秋に向かう夏の終わりの光なので、夏真っ盛りの頃に比べるとちょっと強さに翳りが見られる一方、この記事の最初の方でも触れたけれど、夏って今年でいえば8/7までなのを考えてもらうとわかるように、決して弱々しくないし、まだまだ暑い光でもある。
もうちょっと説明を付け加えよう。季節を人生に準えると、人生80年として(もう人生100年時代と言われるがわかりやすく)春は0〜20歳(青春)、夏は21〜40歳(朱夏)、秋は41〜60歳(白秋)、冬は61〜80歳(玄冬)となる。
晩夏はアラフォーってことね。
つまり、精力的な時代を終えて、次の時代へ移るようなちょっと憂いを伴うような時期が晩夏なのであり、そんな感傷を伴う光が晩夏光なのである。(白の感覚)

さて、この句は先の二句と違って、季語が最初にどんっとでてくる。

読者の私たちをまず、上五「晩夏光」が包み込む。そこからの中七「白く残りし」。何かが白く残ったらしいと、読者の興味のスイッチをいれる状況説明を入れて、下五につなぐとそれは「脇の下」であるという着地になる。

「(脇の)下」という名詞で終える方法を体言止め、または名詞止めという。そうすることで言葉を強調したり余韻を残したりする働きがあるのが体言止めだ。

 脇の下が白く残っているということは、逆にいうとそれ以外の部分は日焼けして黒くなっているのだろう。といっても、それは好んで日焼けをしに行ったわけでもなく、生活しているうち知らず知らずに日焼けした結果である。晩夏光を受けながら、ふと鏡に映った自分の脇の下を見て、焼け残った真っ白さが、思わず意識されたのかもしれない。
晩夏光という季語と相まって、その部分的な白さに、無作為に過ぎていく夏への憂いがそこはかとなく感じられるのだ。イメージの中で、白く残った脇の下に鮮烈な印象をもたらしつつ、その他の色をセピアに、あるいはモノトーンにかえるのは、やはり晩夏光という季語の力である。

 ちなみに、俺は白く残った脇の下ってのにちょっとしたエロティシズムも感じたのだが、そこは作者の意図ではないかもしれないのであまり触れないでおこう笑

作者は花風ちゃん。おお、この3句だったのか。どれも、一見するとまっすぐで無垢な明るさではないのだけれど、暗さのベースの中に必ず光や生命を感じられる句だね。どれも好きな感覚。素敵な句をありがとう。


コンタクト入れる放課後若楓

季語は若楓(わかかえで)初夏の季語。
まだ若々しい青さの楓の若葉が目に美しい季語だね。明るい色彩と若々しい生命力を感じる季語(白の感覚)なので、句末にもってくることでそういう余韻を残すことができる。これは、先にもいった体言止めの効果でもあるね。

さて、季語以外の十二音を見ていこう。

上五「コンタクト」中七「入れる放課後」…便宜上分けてみたが言葉にすると変な感じがするよね。特に「入れる放課後」笑。何を入れるんだという感じ。このように、区切りを入れて読まなきゃ思っていると、自然と頭の中も「5音」「7音」に縛られて、自由な発想ができにくくなってしまう。今回の場合は、意味で区切るとすればコンタクト(を)入れる/放課後と、8音/4音で区切れそうだ。このように、季語を除いた12音を自由に作れば良いとしたら、発想も広がるよね。だから

コンタクト 入れる放課後 若楓 
ではなく
コンタクト入れる放課後若楓 
と、この句のように区切りの空白をあけないことを強くお勧めするよ。

俳句の記載のポイントを押さえたところで、句に戻ろう。この句は、上五中七の12音を続けて考えたい。まず、放課後という時間を表す言葉から、この作中主体が学生であることがわかる。
例えば会社勤めだったら、放課後とは言わないものね。
それから、放課後にコンタクトを入れるという行為をしているということがわかる。
ということは、それまではメガネで過ごしていたのかもしれないね。日中はメガネで過ごし、放課後になってコンタクトを入れるというのはなぜだろう。俺は、バスケットボールとかバレーボール、あるいはサッカーあたりなど、スポーツ系の部活動をするんじゃないかと想像したよ。

それとも、放課後に初めてコンタクトを買いに行って、初めてこれから入れるという、その瞬間かもしれない。どきどきだよね。
俺は目の中に指を入れるのが怖いので、コンタクトはしていない。うちの息子もコンタクトを一度入れてみたけれど、とるのに四苦八苦して、その後コンタクトしてないから、おれのびびりがうつったのかもしれん。

前半の解釈だと、若楓の若々しさが、後半の解釈だと若楓の初々しさが効いてくるので、どちらにせよ、季語の働きを十分に分かった上で生かしている感じがする句だと思った。

作者は、おお、うつスピちゃんか。そりゃ季語をよく理解しているはずだ。素晴らしい句をありがとう。


新装のサリンジャー買う夏休

おつぎの句の季語は「夏休」。
学校が夏休みに入るのは7月20日の旧海の日の頃。いまの海の日は第3月曜日に動いて、土日と合わせて連休を作ってくれるようになったけれど、昔は20日だったよね(うろおぼえ)まあ、というわけで晩夏の季語になる。
夏休みって入る直前が一番ワクワクするんだよな。自分の時間を取れる日が1ヶ月超続くんだから、ワクワクするのも当たり前だよね。でも油断しているとあっという間に夏休みが終わってしまうから気をつけてね(俺

ところで、会社員の方々にも夏季休暇ってあるのかな。学校の先生は、夏季休暇が5日間取れることになっている。一応夏休みだけでなく、9月入ってからもとれるんだけど、お盆周りをリフレッシュウィークといって、学校を閉庁するので、自然とそこに取らないといけなくなって使い勝手はちょっと悪いのよね。

なぜそんな話をするのかというと、夏休という季語から作中主体が学生としていいのかどうか迷ったから。
実は、作中主体は学生ではないかもしれないと思っております。
だって、新装のサリンジャーだもん。サリンジャーといえば『ライ麦畑でつかまえて』だよな、多分。もしそれが、村上春樹訳の「キャッチャーインザライ」だったら、俺が先生になって,二校目か三校目の時に流行った記憶があるし、「ライ麦畑でつかまえて」の新装版も何年も昔に発売されているから、どちらにしろもう成人しているよね。
ともかく作中主体はきっと、この夏休みにあの有名な「ライ麦畑でつかまえて」を読むことにしようと、本屋で新装版を購入したに違いない。夏休みが始まるウキウキ感と、長編小説を読んでやるという意気込みなんかはとても共感を覚えるし、サリンジャーを読んだことがある人は、自然とその内容もバックグラウンドにイメージされるから上手い作り方だよね。他の作品じゃダメなのかというと、やはりここは青春期の揺れ動く思いを描いた「ライ麦畑〜」を思い出させるのが、この「夏休」という季語とぴったりなんだろうなと思う。俺もサリンジャーを読んでみるかと思わせる一句でした。ありがとう。

さて、作者は、ちえちゃんか!おめでとう。今回も白賞に登場だね笑

ほんと常連さんになっちゃったなあ、どれどれ。おお、匕首と黙の句もちえちゃんか。番号が近いから同一人物の可能性あるなと、選ばずに他の句にしたけれど、さすがの三句でした。お見事。


学び舎の「月桃」のうた沖縄忌

最後の一句はこの句。季語は「沖縄忌」だから仲夏の季語だね。

沖縄忌は6月23日。沖縄戦の犠牲者の霊を慰め、平和を祈る慰霊の日である。この日は、沖縄で行われたアメリカ軍と日本軍との組織的な戦争が終わった日なのだそうだ。その後 沖縄は1972年の返還までアメリカの統治下に置かれることになる。

そんな慰霊の日に、学舎で歌われる「月桃」のうたとはどんな歌だろうか。俺は、よく知らなかったので、ググってみた。
予想通り沖縄の歌で、歌詞からこの沖縄戦をベースに作られた歌だとわかった。いろんな記事を読んでみると、沖縄で小学生の頃から愛唱されている歌なんだね。

それにしても俺が驚いたのは、歌の明るい雰囲気。あの多くの悲劇を生んだ沖縄戦が下地なのに、それを感じさせないメロディなのはメジャー進行のメロディだからかな。マイナーを使いそうなもんだけどねえ。

しかも三拍子だね。このリズムもなんとなく明るい。耳にするのは4拍子が多いので、これも驚いたな。沖縄の人の心の強さのようなものを感じた歌だった。

この句に解説はいらない。
学舎で今も響き渡る平和の歌である「月桃」のうたが、沖縄忌に響き渡るのは、平和と反戦の願いそのものだろう。

ウクライナとロシア、そして近年の日本と諸外国との軋轢などを鑑みるに、いまこそ改めて真剣に考え、受け継いでいくべき思いなんだろうと思う。

作者は、もちろん沖縄に縁のある人だろうと思ったら、Sazanamiちゃんか。さすがだね。

実は恥ずかしながら、沖縄忌のことを俺はこれまでしっかりと学んだことはない。社会の授業の中でさらっと通っただけだ。だから、8月15日の終戦記念日は知っていても、6月23日の沖縄忌を意識して過ごすことがなかった。

この句は、唯一上陸戦が行われた沖縄のことを心に留めるきっかけとなる句となった。素晴らしい句をありがとう。

終わりに

この旬杯をもって、みんなの俳句大会はしばし凍結となる。

ほんと、この大会の運営や企画に携わったみんなには尊敬と感謝の気持ちしかない。

俺自身は、リアルでの生活の比重が変わったこともあって、ちょっとnoteから足が遠のいているが、そんな俺を審査員の一人として、ずっと関わらせてくれてありがとう。

この大会で、一句一句を深く鑑賞することが、自分の句を見つめることにも繋がり、俺自身も大きく成長できたと思う。

これからも、おれは、時折noteに顔をのぞかせつつ、ほそくながくやっていくつもり。

この俳句大会をきっかけに、いろいろな人と関わりつながることができたこと、俳句の面白さに触れ、さらに学んでみたい気持ちになれたことが収穫だったなあ。

旬くん、ホスト役お疲れ様でした。たぶん旬くんも来年には中学生だし、新しいステージに移るにあたって、noteから離れることもあるだろうけれど、ここで触れ合った皆さんとの経験は、きっと旬くんの中にも息づいていくだろうなと思う。これからも、自分の表現活動を楽しんでね。


それでは、長文に最後まで付き合ってくれてありがとう。白でした!

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