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沙々杯 白選句

冬の月眠れぬ夜のための本

 季語は冬の月。傍題に「月冴ゆ」「月氷る」。

 傍題(季語の別の形・子季語とも)からも感じられるように、「冬の月」という季語は、ピンと張り詰めた冷気、そして少しの寂寥感。そういったものを孕んだ季語である。
 そして当然ながら、この季語を目にした瞬間に「雲ひとつない冴え冴えとした空で明るく光り輝く月の姿」が揺るぎない映像として浮かび上がる。
 この季語を上五に置くことで、読者は句の世界にスッと取り込まれるのだ。

俳句は、五七五という定型を持つ。先の五音を上五かみご、次いで中七なかしち下五しもごという。

中七・下五の「眠れぬ夜のための本」

 作者は、眠れぬ夜を過ごすことがこれまでもあったのだろう。今後もあるのかもしれない。だからこそ、そんな夜に読むための本を持っているのである。

 仮に、眠れぬ夜「の」本、眠れぬ夜の「とき」の本などと、助詞を変えてみるとその効果がよくわかる。「ため」という二音がつくる奥行きに、ひるがえって、助詞の働き一つ一つにまで意を用いている作者の姿垣間かいま見る。

 また、最後を「眠れぬ夜のための本」と、体言止めにすることで余韻が生まれているのも効果的だ。

体言止め
和歌・俳諧などで、最後の句を体言で終わらせること。余韻・余情を生じさせる効果がある。「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天 (あま) の香具山 (かぐやま) 」〈新古今・夏〉の類。名詞止め。

デジタル大辞泉

 例えば、「冬の月眠れぬ夜に本を読む」などと詠めば、どこか説明くさく「ああ、この人は眠れないとき本を読むんだな。」と、冷めた目で句を眺める感じになってしまう。体言止めだからこそ、そこに想像の余白が生まれ、読者も自分ごととして「眠れなかったあの夜」を思い起こすのである。

 さて、そんな眠れぬ夜にふさわしい本はどのような本だろう。

 強制的に眠りに誘うような難解な本であろうか。それとも、魔法の呪文のように心を和らげてくれる海外の絵本だろうか。そこには読者それぞれの本がある。

 私は、例えばニーチェのように、自己を見つめ励ますような、そのままのあり様でよいのだと肯定してくれるような、そんな本ではないかと思っている。

 冬の月という季語が「眠れぬ夜」を過ごす作者の姿と響き合い、読者の視点は冬の月から本へ、そして本からまた夜空に煌々と浮かぶ冬の月へと戻っていくのである。お見事。


北風と偽名の恋を終えてきた

 季語は北風。きたかぜと書いて「きた」と読ませる場合もあるが、ここは口語俳句に合わせ、「きたかぜと」と素直に読むことができそうだ。

 北風というのは、大陸から寒さを乗せてやってくる、冷たく乾いた風である。

俳句では季節をさらに三つに分ける。例えば冬なら、初冬・仲冬・晩冬というように。そして、その季節全てに使えるものは三冬という。

北風は三冬にあたり、まさにTHE 冬の季語だ。

 中七下五には、「偽名の恋を終えてきた」
「偽名の恋」という表現はまさに作者の発見。偽名でなければできない恋、どんな恋なのだろうか。今のご時世であれば、SNSで出会った、お互いハンドルネームで呼び合うようなそんな相手かもしれない。旅先でたまたま出会ったような、行きずりの恋なのか。想像がふくらむばかりだ。

 そんな恋を、北風「」、今まさに終えてきたのである。

 偽名の恋の儚さを感じながら続けてきた関係、それにピリオドをうったとはどういうことだろうか。

「偽名の恋を終えた」という措辞だけであれば、「別れ」だけでなく、これから「本名」での恋がスタートしたという解釈も可能かもしれない。

 だがそこに、否応なしに、これは「別れ」であると読者に突きつける働きをしているのが「北風」という季語だ。

 口語で、小説の一片を切り取ってきたような一句だが、そこには細部にまで作者の意図が込められているのである。お見事。

凍土や眼孔深き少年兵

 季語は凍土いてつち
 大陸の北の方や、標高の高い山脈などに見られる夏になっても一年中溶けることのない「永久凍土えいきゅうとうど」という凍った土のことは聞いたことがあるかもしれない。

 厳しい冬の寒さによって水分が固まり、カチカチに凍りついた土が凍土という。温かさとは対極にある言葉のといえよう。
 
 それに取り合わせたのが、中七下五の「眼孔深き少年兵」だ。

 俺も最初誤読したのだが、眼孔は眼光ではない。眼球の入っている「穴」のことである。

 眼光が深いのであれば、そこに何らかの意思、例えば憂いや悲しみを見出したかもしれない。

 しかし眼孔とは言わばうろだ。頭蓋の穴である。

 つまり、少年兵の眼には、無機質な、深い虚無があるのみなのだ。

 この句は、いわゆる二物衝撃というタイプの句である。季語とそれ以外の措辞とを絶妙な距離感でぶつける、そのインパクトを狙った句作の方法だ。

二物衝撃」とは、季語とイメージ の異なる言葉を意図的に取り合わせることで、俳句の世界を豊かにする作句法です。

NHK高校講座より

 この方法はイメージが近すぎると当然インパクトが弱い。

 例えば、「春麗(はるうらら)」というポカポカと温かなイメージの季語に初デートなどを組み合わせても、驚きは少ない。

 反対に、初デートに「神の旅」のような季語をくっつけても助走距離が遠すぎて、やっぱりインパクトがない。

 「ああ、そうやって取り合わせてみるともうそれ以外に組み合わせが考えられない!」という強い衝撃を与えるには絶妙な距離感が必要なのである。

 その意味で、「凍土」と「眼孔深き少年兵」という取り合わせはお互いがお互いを生かし合った絶妙な距離感だった。お見事。


跳ね翔んで青天井の手毬かな

 季語は手毬。新年の季語だ。
 同じ冬季でも、冬がなんとなく物寂しげな印象を持っているのに対し、新年の季語は新しい年を迎え、喜びに満ち溢れた明るい季語が多い。(俺調べ笑)

 手毬とは、色糸で作られた鮮やかな色彩の遊び道具である。だから、そこには物質としての手毬と同時に、手毬で楽しげに遊んでいる子どもたちの様子、弾むような高揚感、躍動感なんてイメージも重なってくる。この句は、その季語の力を気持ちよく使っている。

 本来「跳ね飛ぶ」と書くところを「翔ぶ」と表記したところにも作者のこだわりが見える。翔ぶとは、空高く己の翼で羽ばたいていくような、そんな飛び方である。

 また青天井という言葉も面白い。よく金融関係でも使われる言葉で、価値がぐんぐん上昇していて止まりそうにもないときに「青天井で俺の保有株が伸びている」という感じでつかう言葉。

 天井が青い、つまり天井がないわけで、青空を天井に見立てた上限がない様子を指す言葉なのである。

 だから俺は、この句を読んだときに、大きな青空をバックに手毬が高々と上がり、それを仲間たちとともに、下から見上げているアングルをイメージした。

 宙では色鮮やかな手毬が、陽光を反射しながらきらきらと光り輝いている。それを見上げる自分は高揚感いっぱいである。

 なんとも気持ち良い明るい句なのだが、この句の作者がてまりちゃんと言うところがさらに味わいを深める。

 自分の分身である名前を主役である季語として詠むということは、そこに作者の強い想いが込められていると言ってよいだろう。
 とすれば、この句は「今年大きく飛躍するぞ」というてまりちゃんの決意そのものに他ならない。

 明るく清涼感を持った句であり、作者の決意までもが読み取れる、読めば読むほど味わいのでる仕掛けが楽しめた一句だった。お見事。



ささくれた唇を噛む冬の夜

作者のニートン。ちゃんは、文字通りの意味だと記事で伝えているが、これは、ダブルミーニングをうまく使った心にくい一句だと思う。

 季語は冬の夜。具体的とまではいかないが、澄んだ空気、冴え冴えとした月や星の姿、凛とした感覚と同時に、冷たさや寂しさもまたイメージされる季語だ。

 そんな冬の夜に、作者は「ささくれた唇を噛む」という動作を組み合わせた。

 「ささくれた唇」という措辞からは、冬場カサカサに乾燥し、ところどころ皮が剥げかかっているようなそんな唇が思い浮かぶ。
 視覚とともに、唇の触覚も実感される、この語彙選びのセンスが素晴らしい。

 そんな唇を噛むのである。

 ささくれているのが気になって、唇を噛んで皮を剥がしていたら、つい剥がれてないところまで噛み切ってしまい、血が滲む、という失敗も、唇が乾燥しやすい人なら経験として思い浮かび、血の味や痛覚までも実感しそうだ。

 このように実景のある句であるが、同時に「ささくれる」「唇を噛む」という言葉にはもう一つ、抽象的な意味合いも読み取れる。

 心がささくれる、というと、ギスギスと乾いてしまって潤いがない、何が辛いことや信じられないようなことがあって、とげとげしい感じの心、そんな心を想像する。

 また唇を噛むという言葉は、悔しい思いをしたり、何かを歯を食いしばって我慢しているときにも使う言葉だ。

 だからこの句を読むと、冬の夜に何となく自分にとって辛く悔しい、どうにもならない思いを抱いて唇を噛んでいる、そんな姿がありありと浮かんでくるのだ。

 いわば掛詞という和歌の技法にも似た表現を使うことで、句に奥行きが生まれている。お見事。



肉まんを分ければふたり分の湯気

 この句に季語はない。というより、未来において季語となるかもしれない言葉を用いた一句である。

 未来の歳時記を覗けば、季語「肉まん」「湯気」が並んでいそうだ。
 もしかすると「湯気」については、「湯気だて」(いわゆる加湿器。ストーブの上のやかんとかもこれ。)という季語があるので、歳時記によっては湯気がすでに採用されている可能性も無いこともない。

 そういう意味でチャレンジの一句だが、肉まんの持つパワーを考えると、もうこれは季語ととらえて差し支えないだろう笑

 肉まんを分けて食べ合うわけだから、これは、そこそこ近しい間柄に違いない。

 また、湯気立つところから、まだ、ほかほかの肉まんであることも想像される。

 街には肉まん専門店もあるが、俺は、小腹が空いて、ついでに暖も取ろうとふらっとコンビニに立ち寄って、肉まんを買ったというイメージ。

 それをコンビニから出たとたん、二つに分けて、ほいっと無造作に渡す。分けた瞬間、内側からホワッと出た湯気は、今それぞれの手にある肉まんからほんのりと立ち上っている。

 肉まんが、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚と五感を全て刺激するパワーワードなのがわかるだろう。

 さらに、肉まんの温もりと湯気立つのが見えるほどの冷気の対比二人の関係性の温もりと肉まんの温もりのダブルイメージ、想像の余白を残す言葉選びなど、全てが計算されているのが小気味いい。

 飾った言葉を使わず、平易な言葉でこれだけの情報をのせるとは驚嘆に値する。お見事。


総評

 今大会は前大会と違い、投句の段階から記事にお伺いした。途中、リアル多忙のために見にいけていない記事も多少はあるが、半分くらいは見て回っている。

 記事の内容に引っ張られて鑑賞ができないかもしれないと思ったが杞憂に終わり、記事を一度見たくらいでは誰のどんな自解の句だったかを綺麗さっぱり忘れる俺の記憶力のおかげで、まっさらな気持ちで鑑賞することができた😏

 まだ遊びにいっていないところもあるので、これから訪れて好き逃げするね笑

今大会も審査は難航した。

 俺の審査では、一旦全てをじっくりと鑑賞した後、事前にお知らせしておいた白の観点からまず句を絞り込むところから始める。

 白の観点(有季定型・文法や表記・発見)については、詳しくはこの記事↓

 まずは有季定型。季語がないもの、季重なり、季節違いは、基本消していく。ただし、五七五でなく破調や字余りでも、季語が主役で効果的なものは保留。

 次に表記。口語表記と文語表記が入り混じったもの、古語文法のあやしいもの、言葉の間違いや音数合わせの造語なども、えいやっと消す。

 ところが、今回はみなさんしっかり俳句を学んで参加をされていて、この辺ではほとんど消えない。

 そこで三点目の「発見」の部分、ここが審査の中心となる。

 わかりにくいので上述の記事でも伝えたが、「単なる報告や、類想」ではない句を選ぶよーということである。

この辺は、プレバトの夏井先生が選者をしている俳句ポストの月曜日を見るとわかりやすいので、考え方の例としてちょっと引用する。

https://haikutown.jp/post/result/other-monday.php?k_no=268

11月20日の兼題「水仙」の投句に対する夏井先生のコメント

◆冬の季語「水仙」類想パターン

水仙の特徴
 「香りが良い」というのは言うまでもない大きな特徴です。この香りから、「清楚、すがすがしい、楚々、可憐」「凛とする 気品」「潔い、潔白」「寂しい 涙」「恋」「亡くなった人を偲ぶ」などのイメージが浮かんでいるのだと分かります。
 ただ、季語「水仙」とこれらのキーワードを取り合わせただけでは、独自性は薄いのです。
 ならば、と……花言葉、ナルキッソスの伝説などを詠み込んだ句もでてくるわけですが、「水仙」にそれらの言葉をプラスした段階で、十七音のうち半分以上を使ってしまうので、結果的には独自性アップには繋がりません。
 ちょっと意外だったのですが、「美智子妃」「上皇后」というキーワードの句がかなりありました。「阪神大震災時、美智子妃が水仙を手向けた」というエピソードからだと分かると、これを詩として昇華させるのもなかなかハードルが高いということになります。
 植物としての「毒がある」「葉が韮に似ている」という特徴を取り上げた句も多数。飾ろうととすると「そっぽを向く」「あっちこっちを向く」、生け花のテクニックとして「袴を取って形を整えてまた袴をはかせる」なども多かったですね。さらに「踊る」「囁く」などの安易な擬人化、「おちょぼ口」「卵の黄身のよう」「太陽のよう」などのありがちな見立ても目につきました。
 どんな場所に咲いているか。
 圧倒的に多かったのが、「崖」「海」「岬」などのキーワード。さらに固有名詞では、「淡路」「越前」「爪木崎」「東尋坊」などが他出。たしかに水仙の名所ですから、仕方ないといえば仕方ないのですが、固有名詞は季語に匹敵するぐらいに大きなイメージをもっているものもあり、バランスの取り方には気を使う必要があります。
 屋内に飾るという発想から「玄関」「床の間」「窓辺」「仏間」「文机」なども多かったですね。「水仙」に限らず、植物系が多いのは「庭(の隅)」「道の左右」「空き家・廃屋」など。「主なき庭の○○」「主なき家の○○」は、鉄板の類想です。

俳句ポスト中級月曜日「選者コメント」抜粋

 どうだろう。何となく俺の言わんとすることがわかってもらえるだろうか。

 もちろん、これらの類想が悪いわけではなく、類想だとわかった上で、そこに独自性を持たせるもう一工夫をすると、さらに良くなるよというレベルのものである。むしろ、類想するということはイメージしやすいということであり、そこをうまく用いれば、万人の共感を得られるのも確かだ。

 その塩梅が…というところで、そういう俺も「類想」と「奇を衒う」の間をうろうろしているところである笑

 審査の話に戻すと、そこまで絞っても50句くらい残った。

 正直な話、ここまでくると俺のレベルでは優劣はつけられない。どれも作品として素晴らしいからである。ここからがさらなる苦しみ(といっても、より鑑賞力を高める楽しい苦しみなのです笑)。

 ここに加えたのが、「やさしさの風になろう」という大会コンセプトだ。この副題を自分なりに解釈し、自己肯定の視点、他者への慈しみ、表現の明るさ、温かな雰囲気、そういった句風を纏ったものを選考していった。

 その結果、泣く泣くではあるが、20句くらいに絞ることができた。

 そこで句の作者を見ると、同じ作者の句を複数選んでいるものがあるので、そういったものを作者ごとに一句選ぶ。

 そしてあとは好み😏

 この6句は、こんな経緯で審査したのだった。

 今、スピンオフで「勝手に〇〇賞」を拝見しながら、そうそう、その句もよかったんだよ、そこを見出すなんてさすが!などと独言ひとりごちている。

 俺の選んだ句がこの句であったように、みんなにはみんなのそれぞれに響いた句があったはずだ。

それが『みんなの俳句大会』の素晴らしいところだと思っている。

 俺もいつか、誰かの心に届く俳句が詠みたいものだ。

他の審査員賞はこちら!




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