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乃木坂46の今回の騒動で感じた本当の違和感

2022年3月6日

乃木坂46の最新シングルとなる29thシングル「Actually...」の表題曲「Actually...」について、センターを務める新規メンバー・中西アルノさんが一定期間の活動自粛となりました。10年に及ぶ乃木坂46の歴史の中で、過去になかった事態です。楽曲の初披露から10日あまり。乃木坂46の周辺はかつてないほど混乱しています。一人のファンとして、思っていることを書いておきます。


はじめに、僕は中西アルノさんを支持しています。新曲「Actually...」そのものが好きです。そのスタンスはむしろ強くなっています。

今回、僕が一番違和感を覚えたのは、何がなんでも彼女のセンターを認めないという圧力そのものでした。目に見えるものではなく、それは空気のようなものでした。濃縮された、分厚くて、禍々しくて、敵意と憎悪に満ちた雰囲気そのものです。こうした「空気のような圧力」は、10年前からすでにありましたが、20年前にはなかったものです。他者を攻撃したり、非難する言葉はそれこそ幾つもありましたが、これほど一人の人間に向けて、むき出しの憎悪が寄せられることはなかった。

乃木坂46は聖域ではないと思っています。家庭の事情やさまざまな過去を抱えた人間がたまたま集まって、たまたま乃木坂46というグループ名を名乗っている、いわば寄り合い所帯のようなものであり、長く苦楽を共にする中で連帯感が生まれて今の形があると思っています。

本当の腹の底は誰にも分かりはしない。

そもそも、乃木坂46は誰のものでもないはずです。

ファンがいなければ、アイドルであろうとロックバンドであろうと、ビジネスが成立しません。衣装が作れない、楽器が買えない、コンサート会場を押さえることができない。ファンはお客さまであり、収入源です。

でも、アイドルはファンのものではない。ファンが求めるものを提供し続けることが仕事なのではなく、手を替え品を替え、新しいものを作り出していくことが本来だと思っています。

いつまでも同じ路線でいるわけにはいかない、この世でそれが許されているのは紅白歌合戦と徹子の部屋ぐらいです。その紅白でさえ、制作局のNHKは新しい方向に進もうと毎年、何かを変えています。

新しくあり続けるには、変わり続けるしかない。その危機感がクリエイターを動かしてきた。

今回の乃木坂46の新曲は、デビュー11年目の初日に発表されました。10周年という節目を盛大に祝った後、新しい道に進もうと、まだ見ぬその先へ一歩を踏み出したのだと思っていました。

そこに今回の騒動が持ち上がった。批判の矛先はセンター人事だけでなく、楽曲そのものや、フォーメーション、カメラワークにも向けられました。

問題のある子をなぜセンターにするんだ?

他の頑張っている子はどうなるんだ?

俺の・私の推しはどうなる?

なんで乃木坂なのに欅坂みたいなんだ?

後輩グループの真似をするのか?

センターが目立ちすぎ。欅みたいじゃないか。

センターばっか写ってる。俺の・私の推しが写らないのが気に食わない。

・・・とにかく、何かが気に食わない。一つ気に食わないと、全部が気に食わない。

僕はあなた方が一番気に食わなかった


運営事務所はオーディションの選考基準やセンター人事の裏側について、決して公にはしないでしょう。個人情報の塊であり、そもそも公表する理由がない。

そのことで憶測を呼ぶのは仕方がないけれど、今回の一連の騒動は、運営がファンの過剰な声に屈せざるを得なかったものと思っています。その意味で「運営は情けない」と非難している人の気持ちはわからなくはありません。

ただ、特定のメンバーを、穴に落ちた野良犬のように叩きのめす人間の気持ちは一ミリも理解できません

昨日の夜、NHK「シブヤノオト」で「Actually...」は一定期間活動自粛となった中西アルノさんを外した形で、「飛鳥&美月」というWセンターで披露されました。

途端に、「この形が自然」「これでいい」という声がネットで溢れたことに、最大の違和感を覚えました。悪寒と言ってもいい。ほとんど恐怖に近い。

せいせいしましたか?満足ですか?臭いものに蓋をして、これが正解だというんですか?

Wセンターは、確かに安定感がありました。NHKのカメラワークも、歌唱している全員がもれなく写るように、工夫がなされました。偏差値が高いクラスの平均点のような、文句の出ないパフォーマンスと映像になりました。

メンバーが一番苦しんでいるのは事実と思います。急遽のフォーメーション変更は、百戦錬磨の彼女たちでさえ、苦労したと思います。それでも形にできるのは、彼女たちのポテンシャルが高いが故のことです。

けれど、メンバーは、「何に」一番苦しんでいたのか

「Wセンター強すぎん?」「全員が写っていてよかった。この形が正解」「これで違和感なくなった」


一人の声は小さくても、合わさると大きな力になる。応援もそう。誰か一人が、ごく自然に手拍子を始めたら、それが周囲に伝わって、やがて会場全体が一体となって地鳴りのような手拍子に変わる。

それは、言葉の暴力だって同じことです。

一人一人は、さしたる悪気もなく、相手を誹謗中傷する言葉を投げかける。本人には本人なりの根拠があるから、本人は当然のことと思っている。でもそれが、ほんの数人から、数百人、数千人、やがて数万人に広がっていけば、最後は大波になって、たった一人の相手に襲いかかる。それがために、命を絶った人さえいるのに。相手が亡くなっても、一人一人は無自覚のまま自分の人生を生きていく。自分は大多数の中の一人に過ぎないから、自分には一切の罪はないと考える。事実、ほとんどの場合、法律にさえ触れていない。

今が、一番違和感を覚えるのです。

そして、底知れない恐怖を覚えるのです。

やり場のない怒りを覚えるのです。



鳥かごが、鳥を探して、出かけて行った。


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