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コロンブスのタマゴ ホテル花小宿

もしあの時、ホテル花小宿が誕生していなかったとしたら、今の有馬温泉は無かったかもしれないし、古民家再生や古いモノを活かす考え方は起きていなかったかもしれない。ホテル花小宿は地域や業界に影響を与えた、コロンブスのタマゴだったと思っている。

ブルータスよ お前もか!

BRUTUSという雑誌がある。バブル期を経て高級路線をとった旅館と、アジアンリゾートを比較する記事が掲載された。1998年ぐらいの事。

例えば、旅館は朝食の準備の為に起こす。とか、マニュアルで動く仲居は必要ない。等々旅館にとっては当たり前のことが、広大な敷地と安い労働力を持ったアジアンリゾートと比較されたらたまったものではなかった。

でも多くの日本人がアジアンリゾートに行っているので、なるほどと思う人は多かったと思う。

もう一つ、当時から言われていたのが「泊食分離」。宿泊代と食事代をホテルの様に分けて考える事。年配の人は良い部屋に泊まって少量の食事を求める人もいるだろうし、逆に若い人は部屋はどうでも良いけど、美味しいものをたっぷりと食べたいと考えるだろう。しかし高い金額を払えば良い部屋で良い料理が出て来る。選択肢の幅がない。

そして旅館側の理屈だが、板場や仲居を抱えているので、泊まるだけされたらたまったものではない。だから「泊食分離」は進まなかった。

事業課題

今でこそ「働き方改革」や「パワハラ」等、20年前と職場環境は大きく違う。板場の親父が若い板場の子を怒鳴ったり叩かれたりするのは当たり前。

旅館のサービスは良いも悪いも仲居次第。部屋の中に入ればどうやっているのかもわからない。

夕食を出して、片付けると、布団を敷いて、朝は朝食の準備をしなければいけないので朝食の時間の30分前には、ひっぺがしはしていなかったと思うが、お客様に起きてもらわなければならなかった。

また阪神淡路大震災で自然の恐ろしさを知った。しかし地球の恵みの温泉で生業を立てている。地球環境を考えなければいけない。

一人旅や高齢者にも配慮しなければいけないし、世の中にはバリアフリーという言葉も言われ始めた。

震災後の観光業を考えているとそのような課題が山積していた。

ポーザーダ

震災後の将来の宿の在り方を考えている時、無方庵 綿貫先生が「ポルトガルに行こう!」と誘ってくれた。阪神淡路大震災の年だった。

先生は戦後初の留学生としてポルトガルに渡り、交友範囲は美術界や貴族や財界人等幅広い。

ポルトガルにはポザーダという国営のホテルシステムがある。古い修道院や貴族の館、お城などを使用した小さなホテルで、その地域の家具職人などが作る家具を用いて、その地域の食を提供するショートステイ・・・2泊~3泊程度のホテルがある。スペインのパラドールは大型で長期滞在をコンセプトにしているのと全く異なる。

先生の案内で、そのポーザーダ巡りを行った。その時の経験がホテル花小宿の古い旅館を活用するコンセプトになっている。

囲炉裏端料理

震災の次の年だったと思うが、黒川温泉を全国区にした立役者の一人が有馬にやって来た。彼は黒川温泉の宿に養子で行ったのだが義理の父にほりだされたというのだ。

そこで彼を神戸ビーフの故郷、小代に案内した。そして「そば打ちでも学んだら」と出石の蕎麦屋さんを紹介した。

彼は写真が得意で、そしてその写真を基に理想的な田舎の風景を作り出す。黒川温泉の雰囲気は彼のセンスが光っているのだ。

いずれ小代で彼が宿をするとしたら、どのようにしたら良いかを考えた。その時浮かんだのが囲炉裏端料理。

囲炉裏の真ん中で但馬牛を焼いて、おくどさんでは浜坂のエビを蒸籠で蒸す。また地元でとれたお米を羽釜で炊く・・・・今でも僕が描いたイメージスケッチは残っている。

東京の知人が「面白いレストランが出来た!」と誘ってくれた。パークハイヤットホテルが出来て、そこのニューヨークグリルが注目を浴びていた。いわゆるオープンキッチンで中では金髪の女性がシェフで料理をつくっていた。かっこえええなあと思った。

今度は京都の友達が「ええみせあるねん。一緒に行こう」と誘ってくれた。銀閣寺の近くの“なかひがし”。カウンターの中におくどさんが設けられていて炭火で魚が焼かれ、土鍋でご飯が炊かれていた。僕が考えていた囲炉裏端料理の京都版がそこにあった。

時代の方向性

閉めた旅館を借りて新しい旅館をつくろうとした。

泊食分離。つまりホテルにしたい。寝具をベットにしたら掃除の時にセットしたら良いので布団敷係は不要だ。でもトイレが必要なので押入れ部分をトイレにした。旅館業法では寝具が布団の場合は押入れを設けなければならない。でもベットだと不要。

2階は広間だったので、天井が高い。仕切ってフローリングにして洋風の部屋にした。障子の代わりに金茶ガラスと入れるとレトロな感じになる。西洋骨董家具を扱っている店から家具を借りてきて、気に入った家具から購入し、新しい家具入荷すると似合う家具を購入し、借りた家具を返すという風にした。

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泊りだけでもOKなので、食事に力を入れなければならない。そこでおくどさんを設置したレストランを設けた。オープンキッチンだ。板場は顧客の目線にさらされる。会話もしなければならない。つまり若い板場の子を叱り飛ばせない。部屋食ではないので仲居はいらない。レストランのウェイトレスで良い。

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環境に配慮する為にアメニティー類も最低のものにした。最低と言っても数を少なくしたが、それぞれの品はリサイクル可能な良いものにした。

送迎車は車いすごと乗せる事の出来るロンドンタクシーを購入した。また天ぷら油の廃油を使用して走れるようにもした。

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そしてバリアフリーに取り組んだ。ほとんどの人は気が付かないが、アプローチも段差があったのだが段差を解消し、バリアフリー用の部屋は非常口に近い所、そして脱衣場から浴場へスロープを付け、風呂用の車いすを備えた貸切風呂の前に設けた。

非常に悩んだのが玄関。たたきから60㎝ほど段差がある。これをどう解消するか!?

バリアフリーと言っても、車いすの人が病院内の様に自由に動き回れるという事ではない。あくまでも介添えの人がいるという前提でつくっている。健常者の視線も大事にしたいからだ。

倉庫などでリフトを扱っている会社の社長が友達だ。そこで彼に頼んで床からせり上がり、前方に移動するリフトをつくってもらった。サンダーバードと呼んでいるのだが、これで段差は解消できた。


設計士を紹介して欲しい

オープン当初は「旅館なのにベットだった」とかミスマッチはあったが、半年ぐらいで、毎日満室と盛況になった。

今まで、「有馬の恥だ」と言っていた宿が、何となくすっきり美人になって、多くの人が泊っているというのは町の人が感じ始めた。

その時、炭酸せんべいの社長が「設計士を紹介して欲しい」とやって来た。社長は炭酸せんべいの創業者の店舗を手に入れた所だった。

それが湯本坂で手焼の炭酸せんべいを販売している店だ。店は繁盛し、古い建物を活かす手法が湯本坂の活性化につながると考える人が増えて、現在の状況になっている。

副市長がやって来た

花小宿をはじめ、コンドミニアム。小代で農業法人を設立してオーベルジュをはじめ、玩具博物館をつくった頃、近隣の市の副市長から面会のアポが入った。

花小宿を例に旅館業法の矛盾点や農業の在り方など、話は多岐にわたった。それがきっかけで彼の市へ足を運んだ。限界集落の活性化の話が有り、鍵となるレストランのシェフも紹介した。その頃は彼は副市長を辞めて、古民家再生や地域振興を行う法人を設立していた。

もし花小宿が出来ていなかったら・・・・

それだけ花小宿は影響を与えた存在だと思う。

今回のnoteを書くきっかけは下記の事が起こったからです。


https://note.com/shirobe15th/n/n00b3a3709c29




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