見出し画像

『荒野のメガロポリス』が美しい組曲であることを語りたい。

夕闇に入っていく時間帯が好きだ。
それまで色に満ちていた街が、街灯の光と、それ以外の闇とに分かれていく。
カラフルで多様な色に溢れた街が、光に照らされた部分と、闇の部分という単一の色調に沈んでいく。
「光がなければ多様な色などない」
こんな当たり前なことに気づく。

多様であることに疲れた一日の終わりに、闇は優しい。
だから私は夕闇の時間帯が好きなのだが、しかし、こうも思う。
朝には闇が消え、また光に溢れた一日が始まるからこそ、私たちは闇がやってくることを受け入れられるのだろうと。

本当にもう二度と光の世界がこの世に戻ってこないとわかっていたなら…闇は底なしに恐ろしいものだ。



⚫️SF大作『荒野のメガロポリス』

先週、先々週('24年2月10日、17日)とラジオ「ASKA Terminal Melody」に氣志團の綾小路翔さんが二週連続で出演し、光GENJIの作曲をASKAが担当していた「ASKA時代」について、かなり熱く語っていた。
彼の力説、私には頷くところばかりだった。

ASKAの生み出した光GENJIの楽曲は基本、光と闇をテーマに作られている。
それはSF的壮大な世界観の光と闇でもあるし、そしてまた思春期の胸の内に揺れる小さな光と闇でもある。

幸せの中にある不安、光と背中あわせにある闇をちらつかせる作詞作曲技法はASKAの十八番である。

この技法を、光GENJIの楽曲では自身の母体であるCHAGE & ASKA以上に大胆に使っているように私には思える。
この大胆さが、世のハートを強烈にわし摑んできたのではないか、とも。

綾小路さんが「まるで組曲」という枕詞でちらりと名を挙げた『荒野のメガロポリス』という'90年のシングル曲は、ものすごい大作だ。
ファーストアルバムの1曲目として、光GENJIのテーマを表現した名曲『THE WINDY』と対になるような楽曲であるとも感じる。SF好きな人にはたまらない歌詞世界が魅力だ。

ASKAの曲はたまに「組曲」と評される。
ドラマ性、楽曲の構成的に考えての評だと思うが、この『荒野のメガロポリス』も、堂々と組曲の風格を備えている。
なぜこんなに強烈な世界観を持ち、ドラマティックな構成の楽曲が作れるのか…というところに、おそらく綾小路さんは惹きつけられているのだろうと、ラジオを聴きながら思う。
氣志團はテーマ性がはっきりしているグループであるからこそ、強烈な世界観の表現というところに、クリエイターとして惹かれるところがあるだろう。

そう、クリエイターであるならば技巧を使ってドラマ性を生み出せるはずなのである。
だが彼が謙虚にも「自分にはできない」という意味で光GENJIの魅力を語ったことの背景には、彼の興味対象として「なぜASKAさんはそれを芸能の中で実現できているのか」なんだろうと、勝手ながら思う。
彼のこの疑問は、ものを作るすべての人たちの疑問にも通じているはずで、よくよく考えてみる価値がある。


⚫️夢の中へと走りだした少年

『荒野のメガロポリス』には、はっきりとしたドラマがある。
それは、<光と闇との終末対戦>

ちょっと規模が大きすぎてのけぞってしまうが、そもそも光GENJIはそのようなテーマ性を持って生まれたアイドルではあった。
デビューアルバムで提示された『THE WINDY』の世界観、つまり「荒廃した世の中を救うため時空を超えて遣わされた現代のキリスト」という設定が、数年ぶりにこの曲で回収されているともいえよう。

では年がら年中、光GENJIが歌う楽曲にはSF的な世界観が表現されているのかというと、それはやっぱりちょっと無理がある。
おそらく地球に降り立った瞬間から、あの少年たちは自分たちが宇宙から受けた使命を記憶から無くし、無自覚に「普通の少年」として生きているのだろう。
よって「闇に光を」という使命は、光GENJIの楽曲の中ではほとんど日常的な恋愛や思春期の葛藤という形に落とし込まれている。

だが、普通の少年として日々を送っていた彼らがある日、こんな夢を見るのだ。『荒野のメガロポリス』の冒頭である。

青い空が 消えていく
寒い寒い 夢の中
赤い羽根の 馬が飛ぶ
翼痛め 悲しげに

まるで絵のような都市
霧雨降る メガロポリス
日めくりが底をつく
いつか風もない

これはまるで、聖書に描かれる終末の光景である。(聖書は東洋的な世界の捉え方としての円形(輪廻転生)とは異なり、創生から終末まで一本の直線でこの世界を捉えていて非常にドラマティックだ。)
この「赤い羽の馬」であったり「日めくりが底をつく」という言葉は、おそらく聖書に記された終末イメージから引いてきたものだろう。

荒れ果てた夢の中で、少年には呆然と立ち尽くす以外のすべがない。

誰か 愛を投げて 夜を止めて
愛を投げて 光ごと
崩れて行く時代の景色 見つめてた

この世界を変えられるのは「誰か」であって自分ではなく、彼はただ「見つめて」いることしかなすすべがないのだが…
しかしこの曲は途中から、主体的な「ドラマ」となっていく
そのきっかけを生み出すのが、2コーラス目のこの歌詞だ。

僕の夢から 僕が
いつか 走り出す

「夢」という言葉はこの曲の中でたった二度しか使われないのだが、この二度目に「夢」が使われるフレーズは、とても難解かつ詩的である。

そう、少年は「走り出」した。
この悪夢のような終末の中に、能動的に飛び込んでいくのだ。

誰か 愛を投げて 夜を止めて
愛を投げて 光ごと
帰り道が失くなることを 感じてた

明らかに「僕」はここで、「誰か」の中の一人になる。
帰り道は、もうない。
これまで自分がいた世界…夢から覚めれば闇は消えてなくなり、朝の光に包まれるという温かな世界線を捨てて、「終末の世界」を彼は彼の現実として選んだ。
闇に負けてしまえば、その後にもう光は来ないのだ。


⚫️光と闇のコード、ドラマティックにつなぐベースライン

このようなドラマを歌詞だけで表現するならば、なんとか技巧によって作れるのかもしれない。
しかしASKAが作家として規格外なのは、このドラマをむしろ作曲技法という非言語なやり方で表現し、歌詞と合わせて強烈な世界観を成立させているところなのだ。

この曲に使われているコード数は、一体いくつあるのか…。
正確かどうかわからないが、興味のある方はこのページを参照してみてほしい。とにかく膨大であることだけはわかる。

しかもそれらの、目まぐるしい展開。
激しく動く、というだけではなく、明確に「光と闇」というテーマ性を持って、明るさと暗さ、メジャーな響きとマイナーな響きを交互に取り入れている

例えば、「この曲は尋常でない雰囲気だぞ…」と冒頭から感じさせる壮大なイントロはどうだろうか。
コード譜によれば「C#sus4 - C# - AonC# - BonC#」とあるが、聴いている耳には明るさと不穏さが入れ替わるように聴こえる。
このストーリーは光と闇のどちらにも転がる可能性がある、ということをイントロから提示する、秀逸なコード展開だ。

とにかく全体的に忙しいコード展開なのだが、これが不思議と、一つの大きなドラマとしてまとまって聴こえるのはなぜだろうか。
私は、エレガントに動くベースラインに着目している。
急降下や急上昇をしてインパクトを要所に与えつつ、基本的にはなだらかな音の連続である。

そしてサビのベースラインが非常に美しいのだが、同音をオクターブ移動するような動きはまるで、「愛を投げて」という歌詞とリンクしているかのようではないか。
この、浮遊感ある上下運動というが、『荒野のメガロポリス』の表現するキービジュアルを脳内に生む
天上と終わりかけた地上の文明の戦いは、まさに上へ下への激しいアクション・シーンなのだ。

またサビのコード進行は美しく、メジャーとマイナーが同じ音色の中で入れ替わる「C#-F#monC#」の繰り返しがとられている。
C#の同音で上下運動を繰り返すベース音が、この光と闇の錯綜をなめらかにつなぐ。
光GENJIというローラースケートを履いた彼らのステージ表現と、この音の印象は感動的なほどに一致している。
まるで重力がないかのように動き回る彼らは、浮遊感ある音の中で文字通り「浮世離れした」世界観を体現するのだ。


⚫️宇宙の大いなる意志と交渉するラスト

これだけでも壮大なドラマ性が音楽の中で体現されていて、少々お腹いっぱいな感じがあるのだが、「組曲」と評されるASKAの作風が炸裂していくのは、さらに続く大サビの展開である。

私なりの一言でいえば、「解脱」のパートだ。

これまでイントロ〜1コーラス〜間奏〜2コーラスと「光と闇との激しい戦い」が描かれていたところから、突然に解放されるような転調を見せていくのである。

命を返す 時間が来たよ
冷めた太陽 ささやいている
命を返す 時間が来たよ
溢れる涙 何処に誰に使えばいいの

教会音楽のように広がる、心休まる和音。
「F#onC# - C# - F#onC# - G#onC# - C#」という、人間が最も安心するコード進行が、同音のベースにつながれ安定してとどまっている。まるで、時空から解放されたように…。
ここまで続いた音楽的な緊張状態から、文字通り解放された美しいパートである。

思えばこの手法は、CHAGE & ASKAの名曲であり、光GENJI『THE WINDY』と親戚関係にもあることが徐々にわかってきた『PRIDE』という楽曲の、大サビパートでも使われている。

僕は歩く 穏やかな愛で
白い窓辺に 両手を広げた

天啓を受ける印象的なこのシーンで、心地よい和音と同音ベースの展開が用いられているのはとても興味深い。
これとまったく同じ構造で、『荒野のメガロポリス』では「命を返す時間」が表現されているのだ。

一体この、「命を返す時間」とは何を表しているのだろうか
よくSF映画で、文明が終わりを告げる時に現れる宇宙の大いなる意思……あれに近いものであろうか…などと、私は考えている。

この宇宙の意思を感じ取った少年は、ただ涙を溢れさせることしかできていない。
実は、『荒野のメガロポリス』という一曲だけでは、この壮大な終末大戦の決着は歌詞において最後までは描かれていないのだ。

ではこの終末大戦に結末はないのかというとそれは違っていて、その後シームレスに続いていく『PLEASE』というB面曲の中で、光GENJIは神様=宇宙の大いなる意思との交渉に成功したような様子を見せている。

愛を投げましょう
夜を止めましょう
未来の鍵は神様
あなたの エスコート

もしも僕達が
優しさ失くせば
今度ばかりは神様
あなたの ミステイク

夢の中に意を決して飛び込んだ少年たちは、いつか自分に課された宇宙からの使命を思い出し、大いなる意思との交渉に成功する…ということであった。
こんなドラマティックなSF大作がポップソングとして表現されている例は、他に存在するのだろうか。


⚫️なぜこんな組曲が書けたのか?

『荒野のメガロポリス』が、想像の範囲を突き抜けた組曲であった…ということが確認できたところで、また冒頭の問題を考えてみようかと思う。

ASKAはなぜ、こんな大きなテーマの曲を作ることができたのか?

彼の才能、と一言でいってしまえばそれで済むのだろう。
しかし私が思うに、彼のこの「才能」というのは「器の大きさ」というものに等しいのではないか、と想像している。
こんなありふれた言葉で表現してしまうと、精神論の陳腐な考えになってしまうかもしれないが…。

しかし、想像してみよう。
芸能のど真ん中で、光GENJIの楽曲を依頼されているという状況。
これを成功させ、ヒットを生まなければならない。曲の長さはテレビサイズに収まるように、もちろん大衆にわかりやすいテーマで。ローラースケートの見せ場も作って。
…などと考えていると、まあ凡人なら、即座に頭と心がパンクするであろう。
しかしASKAという作家はそれらの条件の中から優先順位を見つけ出したのだと思う。条件に強弱をつけ、叶えるべきものの最上位に、「ピュア=まっさらであること」を置いたのだ。
「人間の優しさが世界を救う」なんておとぎ話を、本当の本当に心から信じられるか、ということである。

ジョン・レノンは『Imagine』という名曲を生み出したが、アーティストとして世の中を変えるほどの器を持った人物は、おそらくおとぎ話を本当の本当に心から信じる能力を持ち合わせている

このピュアさを大人の世界で仕事の中で貫くのは、大変なことである。
だがASKAという作家の驚くべきところは、彼の長いキャリアの中で、強弱はあれどその姿勢を全くぶれることなく貫き続けているという点だ。
これはもう、信念などという後天的なものを超えた人間性、人としての器の大きさなんだろう、と思ってしまう。

この『荒野のメガロポリス』が発売された'90年前後に、ASKAは作家として非常に大きなタイミングを迎えている。
時代としては、『荒野のメガロポリス』発売から半年後に湾岸戦争が勃発。翌'91年のソ連邦解体という衝撃。第二次大戦後の一見安定したレジームが解体された、歴史的な転換点であった。

ちょうどその時期に重なって、ASKAは『SAY YES』や『はじまりはいつも雨』の大ヒットを生む。
この『はじまりはいつも雨』のB面に位置する『君が愛を語れ』は長くファンに愛されているが、この曲が名曲たり得ているのは、この時代の憂い、未知への恐怖、そして希望の兆しが込められているからに他ならない。

そして面白いのは、この曲の中でもまさに『荒野のメガロポリス』で見られるような光と闇のちらつきが音によって表現されている点だ。
自身のメッセージを作曲という非言語の部分で表現することに、この時期のASKAは圧倒的な才能を開花させていることがよくわかる。

だからこそ'90年に、光GENJIに提供曲を再び作る機会を得たことは、ASKAにとっては非常に幸運なことであったろう。
母体としてのCHAGE & ASKAやASKAソロでは、その才能の全てを封じ込めた『荒野のメガロポリス』のような組曲を表現しきることはトーンとして似合っていなかったし、実際難しかっただろうと感じるからである。

自身がコンセプトの息を吹き込んだ光GENJIへの楽曲提供であったからこそ、ASKAは創造性のメーター針を最大限に振り切り、自身の中の世界観を表現しきることができたのだろうと思う。


それにしても、ASKAという作家の一貫性にはすさまじさを感じる。
'80年代から一貫して彼は文明の終末について想像力の羽を伸ばし、時に作品として作り上げているのだから…。

近年の楽曲で、彼の代表作への仲間入りを果たしつつある『僕のwonderful world』の中にさえ、『荒野のメガロポリス』との近似性は存在していると考えるのは想像を働かせすぎだろうか?

傾いた 船が沈んでゆく
叫び合う声に 僕は祈った
アラームが 僕をこっちに戻した
祈りが届いた 夢が覚めた

祈り、そして、夢。
夢の中へと駆け出していった光GENJIと、アラームに「帰り道」を開かれ戻ってきたASKAと。
だが、両者の夢の中ではとどまることなく、終末に向けた宇宙の意思は着々と進行しているのである。

僕の腕に リボンをかけたような
光を見てた

そう、この世の光はギフトにかけるリボンのようである。
いつまでもこの世に光がありますように、と祈ること。
ASKAは、祈る音楽家である。


・・・良記事!・・・


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?