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自分の中にある感情、見つけられてる?

オリンピックが始まった。
前回のサッカー・ワールドカップからスポーツ観戦や国際イベントの面白さに目覚めた娘が、リアルタイムで見たいと眠い目をこすりながら起きてくる。

パリの開会式は、芸術や文化のバックグラウンドの厚みを感じた。
日本にも美しい芸術や優れた文化が豊富にあるが、では今の観客にどう見せようというところで、どうしても表現が弱くなるような気がする。

演劇に関わり始めて、表現は「観る人がいないと成立しない」という基本的なことをドシッと感じ続けている。
表現をするには、目の前に感情を素直に表してくれる観客が必要なのだ。
日本人ももっと感情を素直に表現すれば、創意する側も素直に大胆になれてお互いハッピーなのに、と思ったりする。

オリンピックのセレモニーを見守る人たちの歓声は大きかった。
美しいもの、驚くべきもの、感じ入るもの、それらにすべて声をあげている。
そこに生まれた感情を表現し返すからこそ、ただの「傍観」でなく良い「体験」になる。

最近、海外で活躍する役者に、日本人向けに演技のワークショップを行ってもらっている。
オンラインではあるが、オンラインゆえの細かい指導が活かせるように行っている。

彼の指導は「表現」というものについて本当によく考えられていて、まずは自分の内側にある「感情」を見つける作業から始まる。
そしてこれが、日本人の最も苦手とするものだ。

実際のところ、赤ちゃんにすら、感情はある。
けれど大人に近づき社会化されていくにつれ、人は自分の感情を隠したり、フタをするようになる。

日本人の反応で最も多いのは、「これはどう感じるべき?」と周りと見合うことだ。
正解が、その場にいる人たちの共通認識の中にあると考えてしまう。

個人が感じることには本来、「べき」はない。
けれど、頭脳と周囲への観察力が発達してくる小学生あたりから、子どもたちですら「こう感じるべき」という空気の存在に気づき始める。

教科書を、変なふうに解釈する子どもがいるのは普通なことだ。
しかしそれを「本当はこう感じるべき場面ですよ」と正す教育が、当たり前のように行われている。

物語も、いつ始まりいつ終わるかわからない、ぽかっと世界に開いた通路のような神話形式よりも、一つの教訓へと収斂していく寓話の方が、人気がある。
大人はいつだって、子供を教え導きたがっている。

「あなたはこう感じたんだね」という受け止めが、大人にも子どもの中にも抜けている。
そんな場にいる子どもたちは「感じ方には間違いがある」と理解し、そのまま大人へと育ってしまう。

脚本の、一つのシーンをみんなで読んでみる。
「この登場人物は今、どんな感情を持っている?」とある人に質問をする。
するとその人からは、しばらく考えたのち「わかりません」と答えが返ってくる。
こういう時、実はその人が「わからない」のは感情ではなく、「どう答えるべきかがわからない」のだ。
本当はルールなどそこにはないのに。

演技の指導は、顔の筋肉をほぐすところから始まる。
「表情」という漢字そのまま、内側の「情」を「表」すために顔は使うのだから、柔らかくなくてはいけない。

先ほどラジオを聴いていたら、「自分は絶対に周囲に影響されないぞ」とばかりに、どんな場所でもしかめっ面でいる人についてパーソナリティが話し合っていた。

「あなたのその感情は、あなた自身が作っているものではないですか?」との言葉を聞いて、本当にそうだなと納得感がある。

感じないぞ、と意地を保つ人たちの心の中に何があるのか。
世の中を楽しまないぞ、という宣言。その奥にある、本当に言いたいことは何だろうか。

どんな物事を受け取った時でも、心の中には初期感情がある。
その感情に気づけるセンサーを、研ぎ澄ませておくことはとても大事だ。

生まれた時から一緒に生きている、感情というもの。
これを雑に扱いすぎてはいけない。
感情へとつながるパイプは、大人ならとっくに錆びていて、注意深く手入れをしないと自分の感情すら見つけることは難しくなってしまうのだ。

だから今日も一日、豊かな感情でいたい。
「感情を見つける」という作業は思っているより難しいが、こんな小さなところから積み重ねていきたい、と思う。

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