小説|月影の陽だまり
月が映すひかりのことを、月影と呼びます。
揺れるひかりの粒は太陽の反射した残り香だから、いっとう純白なきらきらしたものを影と名付けたのだそうです。
もし、この月白をひかりと呼ぶならば、闇にしか生きれない僕を『悪』以外にも呼ぶことが出来るのでしょうか。
「結局、君なんてゴミ処理機のようなものなんでしょう」
冬の凍える雲に包まれた夜が生ぬるく世界を包む日に、僕は食事に出かけました。それはそれは厚い雲が空を覆うから、星の雫さえ地上を濡らすことのできない、灰色に濁った夜でした。
「こんなゲテモノくらいしか、食べられないなんて君はなんて可愛そうなんだろうね」
その街の一番高い建物の先っちょに降り立ち、あたりを見渡しました。
ひかりが無くても構いません。
悪夢は夜よりも闇を伴って、ブラックホールのように何もかも惹き付けてくれるので、その場所にたどり着くことは容易いのです。
その夜も、ただただ漆黒に惹かれて、ただ己が食欲を満たすがために走りました。だって、仕方が在りません。それこそ、いわゆる需要と供給ですから。
「ねえ、それともそれは甘美な味がするの」
先ほどから僕が対峙している、やたらと透けた人影が話しかけます。彼女からは僕の食欲をそそるような、悪夢も幸せな夢もどちらの香りもしません。
いわゆる『生きている人間』が発する香りが全くしないのです。
やたらと透けているくらいに頼りないその輪郭も含めて、幽霊かもしれないな、と思いました。
「ねえ、なんで何にも答えてくれないの」
首を傾げている僕に、彼女は畳み掛けます。
「ねえ、私が見ているものが本当に存在するなら、答えてよ!」
彼女が叫びましたが、曖昧に微笑むことしか出来ません。
いいえ、たとえ微笑んでもこんな獣が口角をあげたって、気付いてくれるかはわかりません。
「きみ、獏なんでしょ」
初対面から私の正体を言い当てる人間は、この何十年生きていても両手の指で数えられるほどです。しかも、起きている人間、それが例え幽霊というものだとしても、意識あるものに言い当てられるのは初めてでした。
僕は闇のなかでしか生きていけない生き物です。
普通の人のように、太陽のひかりは必要ではありません。
もし気付くとしても、たいていは、私は都会に住み着いた狸やハクビシンと間違えられました。別に間違えられたって良いのです。そんなに困ることはないですし。
私の役目と生存、どちらにも欠かせないのが、悪夢でした。
私たちはそれを喰らい、血肉として生きています。夜が長く目を閉じることが怖い人には神のようにあがめられますし、どんなに苦しい夢さえも他者の介在を許さない人に取っては地獄からの死者のように非難されました。
「なんで、私は悪夢を見るの?」
透けた少女が聞きました。
そんなの知りません。
そんなに知りたければ、僕になんて聞かないで、その眠っている人を叩き起こして抱きしめてあげれば良いのです。
透ける彼女のことが気になって、その家に通いました。
僕の本能と使命からすれば、すぐにでも眠っている人の悪夢を食べるべきなのですが、驚くことに、生き物には三大本能以上の感情があったのです。
それでも腹は減るので、彼女の家に立ち寄る前にえづきながらも、食事をしては立ち寄りました。むかむかした胃から悪夢をほんの少しも吐き出さないように注意しながら。
彼女は傷つきすぎてどうしていいのかわからない悪夢に陥る人と同様に、気性が激しく、涙を怒りに変えて僕を罵ることもありましたが、ほとんどは空を見て、その眠っている人のことを喋りました。
眠っている彼女が自分の双子であること、社会的に恵まれているほうであるのにささやかな悪意に傷ついて悲劇のヒロインのように振る舞うこと、そしてそれを自分で恥じていること、恥じているにも関わらず相変わらず傷ついては自分の殻に閉じこもってしまうこと。
そして、それをどうすることも出来ずに見ることしか出来ないこと。
「ねえ、なんで喋らないの」
彼女の話を頷きながら聞いていると、たまにそのように詰問されることがありました。
しかし、僕は黙って首を振ります。
獏は言葉を喋れません。
僕たちは夢を喰う生き物だから、それこそ莫大な言葉を文字通り呑んでいるのですが、それを発することは許されていません。
もし僕たちの見たこと感じたことを口に出してしまえば、食べられたほうの悪夢を再発しかねないですし、どこか暗闇に紛れて人の奥底を垣間見た気になるような悪趣味の人間を排除するためかもしれません。
だから僕たちの口は開くことが出来ず、ただただ口角をあげたり、への字にしたり、口をすぼめたりすることしかできないのです。
「それとも無言で聞いてくれているの」
それでも獏には一生に三回だけ喋ることが出来ます。
産まれた時に泣くこと、死ぬ時に遺すこと、そして愛を慈しむこと。
この三つだけは神さまに約束されていました。
僕たちにはそれだけが道でしたし、逆に言えば、この三つさえあれば、多少不便でも生きていくには困りませんでした。
「黙って聞くことは優しさじゃないよ」
彼女は頷く僕に何度もそう声をかけました。
ちょっとシャレにならないトラウマとか、逆に、僕からすればどうしてそんなことで落ち込むの、というようなこととかそんなことに声をかけたかったけれど、言葉にはできませんでした。
喋ろうとすると、それは気泡になって夜空へと消えていきます。
最初こそ喋れないことを怒る彼女でしたが、冬が春になり夏へと変わり、秋にも似た夏の終わりに近付く頃にはそれらの愚痴も日に日に静かになりました。
生き物は、悪意を持ってだけ、人を傷つける訳ではありません。
「綺麗ね」
言葉にならない声を変えて、泡沫が夜空へと立ち上っていく様を見て、彼女が呟きました。
僕も頷いて、泡が天の川に包まれていく様を見ていました。
この長い人生、この言葉の泡が憎くて仕方ない時もありました。
それでも、夜空に輝く星にも似ているちいさなちいさな瞬きは、なんの汚れもなくただ精一杯に輝いて夜空へと運ばれていきます。
その夜か、その少し前か後かはわかりません。
彼女の影がさらに薄く薄く消えていきました。
白く細い影は透明になり、日に日に目を凝らさなければ見えないほどに細く儚くなっていきます。
僕は、声をかけることも出来ずに、ただただ、彼女の姿を必死で捉えようと虚空をにらみつけていました。
それでもそんな努力虚しく、夜が深まれば白くぼんやりとした小さな竜巻のような渦しか見えません。
純白のそれは月の光に紛れること無く、声を発し、たまに怒りながらちいさな世界を震わせます。
そのたびに、ああ、彼女は存在しているのだと、声もでないのに涙が何度も何度も滲みました。
彼女と出会った次の冬、いつものように部屋を訪れるとそこに彼女はいませんでした。
「また、来たの?」
声だけが存在していました。
「ねえ、君が見えないよ」
僕が彼女を見えなくなるように、また、彼女もまた僕が見えなくなっていっているようでした。いつもの思い出して泣くような声ではなく、不安だけが支配したような声の揺らめきが冬の隙間に消えていきます。
「どうしよう。怖いよ。私がいなくなっちゃう」
僕は声のするほうに身を寄せました。
「ねえ、本当は、この子は私の妹じゃ無いの。私なの。私は生きているの、多分。今が生きていると言って良いのかわからないけれど。それでも、外にも出られないし、些細なことが怖くて声を殺して生きているけれど、本当は生きているの。どうしてこんな君と声を交わせるようになったかわからないけれど、でも、生きてしまっているんだよ」
生きてしまっている、と、彼女は悲しい言葉を吐きました。
「生きてしまっているのが怖い。死んでしまうのだって、こわい。でも、ああ、本当はね」
声の居場所を探して、僕は鼻を鳴らしました。
「私が消えたら君は悪夢を食べてくれるでしょう?でも、それが嫌なの。君は好きで悪い夢を食べている訳じゃないのを知っている。だって、君は、どこかで食事をして私の家に立ち寄る時に、いつも青ざめた顔で来るのだから」
需要と供給、本能、甘い香り、どれをとっても本当のことですが、彼女の言う通り、僕たちに取って悪夢は食べ物の前に悪夢でした。
そこに含まれている疑惑、殺意、悪意、嫉妬、復讐、そんなものが無いと生きられないのに、それらはとても中毒性の高い劇薬のように、体もこころも蝕んでいきます。
「私を、私の恥ずかしいところも汚いところも喰らうのは良いけれど、君を不幸な目になんて合わせたくないよ」
声がする空間から、一筋の銀の糸が垂れたと思ったら、地に降り着きました。
舐めてみるとやたらと苦くて甘い、潮の味がしました。
「大丈夫だよ」
彼女の涙が声帯を震わした訳ではありませんが、それがひとつの暖かいものとなって、人生で二度目の声をあげました。
「つらいことも、かなしいことも、それら全ての悪いものは、きっとあなたの力になる。これは綺麗事かもしれないけれど、そんな全てが、きちんとひかりに変わって、あなたの希望に成ってくれるよ」
もし、抱え切れないほどの絶望があったとしても、それらが全て、彼女の力に成れば良いと思っていました。
そして、そんな全てを背負って飛び立つことが出来るなら、翼は永遠に広がるのです。
「だから、大丈夫だよ」
そこで、言葉は途切れました。
声は、僕の言葉に応えようとして、それも空気を震わせることが出来ずに、夜に消えていきました。
燦々と光る月が、眠る彼女と僕を照らしています。
窓辺に歩み寄り、月のひかりを一身に受けました。
闇の生き物だからか、僕の体は月影と同化してあなたを包みます。
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