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2018年10月、金世佳「風をおこした男 田漢伝(狂飙)」東京公演での出来事

2018年10月6日~7日、日本公演・東京世田谷。正在上演というサイトに2018年10月9日掲載された記事。全文はこちらからアクセス。

金世佳、なんと温かい人だろうか!
「風をおこした男 田漢伝」を観劇し泣いた留学生を慰めるためにこのような選択をした

2018-10-09 18:03
金世佳は、日本での舞台劇「風をおこした男・田漢伝(狂飙Kuángbiāo)」の公演終了後、舞台を見てすすり泣いていた少女に会い、近づいて事情を聞いた。
その少女は単身で留学のために来日したが、多くの人に会い、多くの出来事があり途方に暮れていたのだ。
「狂飙」の田漢のように誠実であるべきかどうか、そして誠実をもって万悪に抵抗するべきかわからなかった。
時間の都合上、金世佳は少女の話をじっくり聞いていられなかった。が、いままで誠実にやってきたならこれからも誠実であり続けるべきだと彼女に告げた。
しかし、よく考えてみると違和感があったので、少女に言いたいことを詳しく書いて投稿した。

2018年、日本公演時に金世佳が(おそらくWBに)公開した文。
同上。続き。

《金世佳、微博2018.10.8 ?》
昨日「狂飙」東京公演(2018.10.06~07)の終了後、新華社のインタビューを受けるために慌ただしく劇場を後にすると、出入口で一人少女が明らかに誰かを待っているようすでいた。見知らぬ人を恐れる性分なので私は自然とそれを避けようとしたが、彼女はずっと私を見ていた。私がエレベーターを待っている間、彼女は何度も私に話しかけようとしていて、自分の感情をコントロールしようとしているのは明らかだった。
私が近づいて彼女に「大丈夫ですか?」と訊ねるや否や、彼女は泣き始めた。
泣きながら言うに、「狂飙の始めから泣きだしてしまい、ずっと泣いていました。本当に素晴らしい誠実さです。私も田漢のように誠実さをもって万悪に抵抗したいです。けど、ひとりで日本に留学して、多くの人、多くの出来事に遭い、私は実生活で誠実でいることは何と難しいことか、痛感しています。どうしていいか、わかりません。芝居を観ていて、また一段と悲しくなり、ずっとずっと泣いていました」。
泣きながら取り留めなく東京での状況を語った。
時間の都合で、私は彼女の訴えるところを完全に聞けなかったけれど、真っ赤に泣きはらした目を見て、こう言った。
「誠実に生きてきたのなら、誠実でいなさい」
そしていそいそとエレベーターに乗り、劇場の出入り口に一人その少女を残した。

今、私は渋谷の小さなアパートで、一人座って黄磊の2001年のアルバム「等等等等」の朗読版を聞いていて、ふと昨日のことを思い出した。
大胆過ぎる自分に後悔している。
よく知りもしない少女に「誠実でいなさい」なんて言ってしまって。
まったく無責任な話だ。
ひとりひとり境遇は異なるのに。
けど、また不意に8年前の自分をも思い出した。当時はあの少女同様に混乱と無力感を抱えていた。
田村正和さんが私にくれた手紙で「ひとりひとり人生があり、自分のことでもよくわからないことがあります。私は自分の暮らしを満喫したいのです。」と語ってくれた。
満喫する(原文は“好好感受”)、を座右の銘に今までやってきた。
だから誠実に生きようとしても、ままならない生活を送っているあの子にたとえ一縷の希望でもあればいいのに、と素朴に願っている。
でも、私は思いつくままにアドバイスしたことを今でも後悔している。
もし皆さんにあの子のような友達がいたら、大切にして面倒を見てあげてほしい。
結局のところ、誠実さは非常に壊れやすいものであり、これは人生をより良くするものではないかもしれない。けれど、少なくとも人生の苦しみに立ち向かう助けにはなり、誠実であり続ける人は親切で素朴でなければならない。
最後に、
もし、あの女の子が見ていたら、私はこう言いたい。
「人生の環境の悪さは恐怖ではないし、孤独は悲しみや憤りとも関係がない。勝手気ままは後悔と無関係だし、人生の痛みと埋没感は無関係です。大事なことは、たとえ誰も見ていない真っ暗な夜(注目・評価もされない闇のような時期?)でも、休むことを拒否する魂であるかのように意欲を燃やし続けることです。この短い歳月(留学期間?)に感謝するために」

東京公演、記者会見時のスナップ

彼は大胆にもよく知らない初対面の女性に『誠実であれ』などと無責任な言葉を言ってしまったことを後悔している。結局のところ、状況は人それぞれ違うと。「誠実さ」はとても壊れやすい性質で、それが人々の人生をより良くするものではないかもしれないが、人生の苦しみに立ち向かう助けにはなる。人生の環境の悪さに何の恐怖もなく、孤独に悲しみや憤りは無く、ただ誰も見ていない闇夜でも情熱を維持するかどうかが鍵となる。
誠実とは美しい言葉であり、理想的な人格が持つべき性質だが、詳細を知らずに、誠実であるよう、善良であるように説得するのは、一般的な社会環境では正しいかもしれないが、そうではないかもしれない。
人に優しくすれば、相手が恩知らずになることもある。横暴で傲慢なほうが、思わぬ利益をもたらすこともある。世の中には、不確実な要素が多すぎる。田村正和さんの手紙のように、「人にはそれぞれの人生がある。すべてを他人が理解することは不可能だ。自分の人生を満喫したほうがいい」。

金世佳の回答には多くの「いいね」がついた。とても心温まる回答だ。
「私は他人の生き方をどうこうできないけれど、あなたがどんどん良くなることを願っています。」
この言葉が、あの見知らぬ少女に少しでも温かさと力を与えられますように。人生、環境が悪くても怖いものはない、そこに自分の足で立つことが出来るのだ。

金世佳の投稿を見ると、濃厚な蓄積が感じられる。長くはない文章に豊かで深い意味が伝わってくる。
教養に欠ける追っかけは金世佳の投稿に出会うと、いつも考え始める。この文の暗示は何? これは何を指しているの? ブログを読んでいると、大学受験の漢文をやっているような気分になる。
朱旭さん(“大地の子”に養父役で出演、人間国宝的名優)が亡くなったとき(2018.9.15)、金世佳は朱旭について投稿した。ある人が朱旭に演技の秘訣は何かと尋ねたところ、朱旭はこう答えたそうだ。「結局のところその人の文学的芸術的修養です。役者は良い演技をするために画面外でのスキルに注意を払う必要があります。」

私たちは彼が何を言うか気にしないが、彼の実際の行動は、良い俳優になること、文化的資質の向上、文学的および芸術的成果の強調に向けられており、名声を得ようとするものではない。彼の演技は、彼が本当に大切にしている人々と、人間として自分のあり様を守るためのものだ。
時々疑問に思うかもしれない。俳優はなぜ自身を魂から浄化し、不純物を沈殿させ、深い落ち着きを得て人生を心から理解し、舞台に立ちもどり、演じるのか?
金世佳とこの奇妙な少女の経験が答えだ。

金世佳が最近出演した舞台劇「狂飙」は、国歌の作者である田漢の物語だ。
田漢は死の間際、母親と人生の4人の女性のことを思い出す。彼には幼馴染の恋人がいて、魂の結びつきを追求した。田漢は演劇に燃え、恋愛にも夢中だった。 彼は魯迅が軽蔑する四角関係の恋愛をして、世俗的な制約を無視し、人間の偽善を引き裂いた。演劇は観衆に歴史を深く感じさせ、現実について考えるきっかけを与えることができる。田漢の誠実さは少女の心に直接響き、金世佳の言葉は少女に温かさを与え、観客である少女からのフィードバックは間違いなく俳優の励みとなった。
作品の内容が観客に認められ、その精神が伝わり、観客の心を動かした。
良い作品、良い俳優、そして良い観客は相互に補完しあう。


初演から16年後の2017年。主演に金世佳を据えて再演された。
上海&北京。その当時2017の記事など以下数点。

おまけ:佳兄が師と仰ぐ田村正和さんの18才の頃の画像。遇然XのTLで見つけたので。


田村正和さん。

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