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SF創作講座第12回提出作品

ここからは全て主任講師の「第4回ゲンロンSF新人賞 最終候補作品」発表後の記述です。
SF創作講座最終実作提出の残り、五つの感想です。と、そのあとに、SF創作講座全般のことを書くのではないかと思われます。

8.宿禰「粘菌の原」
宿禰さんには、出来ることならzoomを使ってでも直接伺いたいことがたくさんあります。
この「粘菌の原」は、宿禰さんが過去二回も正式な梗概として提出し、さらに今回修正して提出した「粘菌の原」です。よほど、この作品に拘りがあるのかと思います。ここまで、適当な感想を書き殴ってきましたが、「粘菌の原」は、2.7回は読み返しました。さらに感想を書くのにだらだら三日はかかってしまいました。それは、こういうところから躓いてしまったからです。
1. この「ねんきん」を変換させようとすると第一候補に出る、「年金」とはさすがに関係ないと思うのですが、では、「の原」って何だろうと、ここでかなり悩みました。
2. さらに、この粘菌といえば、南方熊楠関連の、あるいは細胞学的生物的に美味しい、物語としても掘り下げようがいくらでもあるはずなのに、このタイトルの粘菌は、粘菌に覆われた地質というだけで、粘菌が粘菌の美味しさを全く発揮していないのだろうか。
3. タイトルあとにすぐ来る 「B8」これが登場人物にして、たぶん主人公と思われるのだけど、この命名理由について1番訊ねたい。B8だけでなく、B1から連番で続いて、死んだばかりのB6から番号は現状のB9まで続き、さらにB型まえのA4がいるのですね。でも、A4もいなくなり、その後継であるA4’がいるのですね。どうしてBがナンバーでどうしてAだけ、A4の「‘」なんだろうか。AとBって何?A4とはコピー用紙以外に意味があったのだろうか。高まる動悸を押さえられないくらい考えました。さらにこのアポストロフィの左と右を使い分けているのが、タイプミスなのか。いやいや、意識しないと、わざわざ別の変換しないと表示できないはず。いや入力環境が違ったりすると、こうなるのか。やはり絶対意識的に左右アポストレフィを使い分けているのかと、じっと眺めたのですが違いがわかりませんでした。
4. と、さらに不明だったのが、「縮れた髪をまとめた頭を出せるよう孔をあけた袋をかぶって、腰のあたりで縛っている」の、この服装が、わたしの想像力では、袋のような布から頭を出して、その末端を腰で縛っている。え。下半身丸出し。そもそもこれは人型ではない動物かもしれない。
と、そんな序盤で躓いていちいち、ねちねちと疑いを持ちながら読み進めてしまいました。そのあと、名前を持った地球人とペッティングのシーンがあるので、たぶんこれはスカートのような布で腰にベルトのような紐で縛っているのか?と想像を進めるのですが。またここでの、ペッテイングって死語では?と思っていろいろ検索しては、ネットを読みふけってしまい、ここで最も時間をかけてしまいました。
物語は、地球人ハリムが現れてからの動きはわかりやすい。いや、すいません。別に最初からわかりやすかったのかもしれません。確かに、B8の絶望感は、現れていると思いました。BもAもいなくなり、地球人から「やっぱり若い方がいい」と言われて去られる。いやでも、「とにかくダメだった、という話」ではあるのかもしれません。だけど、惑星のトラフォームが失敗した、とにかくダメだった。という方向性には気づかず、B8の失恋物語のような感触になっていると思うのですが、それでよかったのでしょうか。
ただ、最初にいろいろ書いてしまったのは、宿禰さんの何度も梗概を書き直して、さらにそれを実作にするというあたりの執念に、しびれたからです。
そして、やはりBとAって何なのか、どうしてこういうネーミングにしたのだろうか。ネーミングにも、その作者のいろいろが出ますよね。名前を決めるのは、もの凄い大切ですよね。しかし、いまとなっては、わたしもこの作品の登場人物は、BのナンバーとA4‘でタイトルは「粘菌の原」が最適のように思えてきました、宿禰さん。

9.松山徳子「手紙」
わたしが、松山さんにとても言いたかったことは、これです。
そこそこいろいろな場所へ出かけたり、いろいろな物を見たり聞いたり読んだり、そこそこ美味しい物を食べたり、そこそこいろいろな人と知り合ったり別れたりしたけど、人生でいち番印象的な出来事は何かというと、「フジロック」だったということです。心当たりがあるかもしれませんが、一年中フジロックのことを考えていた頃。毎年一緒に行くメンバ増えたり減ったりした仲間のこと。最初に苗場に降り立った高揚感と、最後のパワー・トゥ・ザ・ピープルを聞く悲しさ、帰路に向かうバスに並でいるときのあの気持ち。そして、そういう感情のようなものを、自分の言葉を作って表現できれば、新しい言葉が生まれるような気がわたしはするのです。あのころ、わたしたちはフジロックへ音楽を聴きに行ったのだけでなく、夏の苗場の「何か」に引き寄せられていたのだなあと、しだいにわからなくなってきた「何か」についてよく思うのです。
それはさておき、「手紙」ですが、梗概の第一段落の設定だけでとても面白い予感がしました。と同時に、タイトルにある、「手紙」がやはりこの物語のキーとなるなら、その手紙を実際に物語の中で見せるのは、難しいだろうなと勝手に心配しました。
そして松山さんの実作を読んで、個人的に嬉しかったのは、小学生のころ、引っ越してきた子と出会う場面ですよ。これですよ。なんだかわからないけど、わかっていることは、あれが恋のはじまりだったっていう。これですよ。
とか、そんなことより、この実作は絶対途中ですよね。あるいは、中と後ろを端折りすぎですよね。前段になっているかもわからないくらい、何が始まっているのかも、特に前回提出の梗概を読んでいない人は、掴めないのでは無いでしょうか。やはり、手紙がどういうものであったのかわからないのですが、それはもしかしたら、最初から手紙の文章は書かない目論みでもあったのでしょうか。松山さんの梗概も今までの実作も丁寧なSFさを醸し出していたのに、今回の最終実作は、そのSFさを出す前の、それでも切ない青さを撒いたところで途切れてしまっているように感じました。松山さんの1番の関心がどこにあるのかは、わかりませんが、これからもまたSFを醸しだした物語を続けて書いてください。

10. 一徳 元就「ここもあちらも粘る闇」
一徳 元就さんことげんなりさんは、この4期の梗概だけを見るに次第に、SF小説を書こうとはしなくなっているように感じました。その理由は窺い知ることはできないのですが、どこかSF創作講座に冷めていってしまったのかもしれませんし、あるいはもの凄い遠いところへ向かってボールを投げてみたのかもしれませんね。梗概を梗概というより、ひとつの掌編のようにして書かれたり、ラップの詩のように綴ったりして、その言葉はわたしは結構すきでした。それにしても、次第に熱量が少なくなって来ているように感じました。
と、それは表面上に見えるところだけなので、本当は隠れて一語一語絞り出すような想いで書かれたのかもしれません。
わたしも、散文詩や短歌や俳句が好きで、日曜の朝は毎週NHKで短歌と俳句番組を見て、選ばれた句を眺めるのがすきです。また、よく選者が応募句や芸能人の句を添削するのですが、たった一カ所直すだけで、確かに全く違う印象になるのに「ほー」とか「へー」とか頷くのです。と、たいていは、あー流石に言葉のプロという人たちだな。と思うのですが、またたまに、それは文法上あるいは歴史的文脈上修正せざるをえなくなるのかもしれないけど、そう直すとこの句の魅力は無くなっちゃうよ。とかも思ったりするのです。
さらに話は飛んで、中国の人たちは子供の頃から大量に詩を音読で暗唱させられるのです。特に文学が好きな人たちは、大人になっても食事の際に昔覚えた詩の暗唱が始まると、時にテーブル上で時に店中が詩の朗読大会になってしまうのです。そういう素養の上にある小説なので、何が美しい言葉なのか、流れなのかが身についているから、ネットの小説でも言葉のリズムの拘りが感じられます。それが日本だと、言葉への拘りがなくなり、批評においても、言葉や文体への言及があまりにも省みられていないのではないかっ。とも思うのです。そういうわけで、一徳 元就さんの「ここもあちらも粘る闇」は、方向性としては、ありだと思います。でも、今回提出文だけを見ると完成度は、(それがAI作成の設定としても)決して高くは無かったと思います。これを次第に高めていける、たったひとつの確かな方法は、この「ここもあちらも粘る闇」のAIとひとのかけあいを最後まで書くことから始まるのではないでしょうか。って、そんなことは、一徳さんもわかっていて、もう出来上がっているのかもしれませんが。どこかで量を重ねていけば、何かが出来るようになる。と自分に言い聞かせるこのごろです。

11.宇部詠一「愛と友情を失い、異国の物語から慰めを得ようとした語り部の話」
冷静に思い出すに、一度も梗概選出されていない且つ毎回実作提出は、わたしと九きゅあさん以外に、宇部詠一もそのひとりでした。そして、今この感想を書いているのは、ゲンロンSF新人賞 最終候補作品が発表されたあとなので、最終候補に選ばれたという事実から、当然バイアスがかかった、感想文になります。まず、同じく4期創作講座で最終候補に選出された渡邊さんのツイート

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いいですね。同期の人の最終実作感想文に、「知らない作家なら、1行目で読むのをやめている書きだし」ちょっと、思っていても言えません。なかなか呟けるものではありません。「語り手がナイーブにすぎないか」すごくいいですね。書き手、ここでは作者と断言せざるを得ない、宇部詠一さんの性格への言及。思っていても、そうそうはっきりと呟けられません。
この宇部さん最終実作の一行目というのが、「失恋したことだし、小説を書こうと思う。」ですね。渡邊さんのツイートももっともです。「いいね」を押したくなりますよね。うわあ感ありますね。ただ、ここ、これこそ、宇部さんの真骨頂だと思ったのです。わたしは。
自分の失恋を売りに出しているという文脈から全物語へのファンファーレが、あるいは号砲が鳴ったわけです。直近では有名な芥川賞をとられた、遠野遥さんの「私はもともと、セックスをするのが好きだ。なぜなら、セックスをすると気持ちがいいからだ」を思い出させます。これにある意味匹敵する、冒頭への作者の計算があったと思います。遠野遥さんの掴みでも、なんだこの作者は、ひいー!と引かせておいてからの素敵展開でしたが、宇部さんの物語は、現実パートにおいては、だいたいこの冒頭の感触が続くことになります。ただ失恋を全面に出しながら、きちんと違う側面で未来に向かって締めている物語だと思いました。おそらく、現代パートの相当部分が実体験に基づいているのかもしれませんが、わたしはこれこそ宇部さんが、「自分の失恋ぶりは、小説の中に入れるに値するのだ」という構想ありきで、この全体の物語は成立していると思いました。
梗概を読んだ時には、全体を通して美しいアラビアンナイト、デカメロン的な物語の中を、聖母像が縦糸になってひっぱるような印象があったのですが、実作では、むしろ少女からも受け取った人形が小さく後ろに隠れてしまうくらい、作者の失恋を絡めた、思い出語りが全面に出てしまっている印象となっていました。
ただ、現実パートと、アラビアンナイト風と言うより、テッド・チャンの「商人と錬金術師の門」風な雰囲気の物語がしっかりとシンクロされていて、特に面白いのは、作者がこの物語に言及しだしている箇所でした。それこそ、毎月宇部さんがブログに全員の実作を講評していることとシンクロしてしまいました。これこそ、いわゆるメタ小説っつやつなんですね、きっと。作者が自分と自分の物語を語り続け、また作者は自分の生活と自分の作っている物語を批評するという構造が面白かったです。最後にハッピーエンドにして、自分も将来これからの小説を書くことについて表明をするという終わり方もキマっていると思いました。
本当はもっと、ネチネチと個人攻撃をしたくもあるのですが、わたしは渡邊さんほど勇気がないので、小説については、また会った時として、ここではここらへんまでで。
と、小説についてより、宇部さんについていろいろ語りたいことがあるのです。4期の間ではもちろん皆知っている事ですが、宇部さんだけが第一回実作提出から今回の最終実作まで、全ての実作を読んで感想をあげているのです。今回最終実作だけでも、たぶん同じようなことをしようとした人もいたようですが、おそらく断念していると思います。わたしは、何度か梗概だけでもテキトウな感想をまとめていたことがあるのですが、これはかなり大変というか面倒というか継続不可能でした。宇部さんが毎回感想をアップするのを見て、「よくやるなあ」というより、「よく続けるなあ」と同時に、宇部さんだけはわたしの実作を読んでくれているから、なんとか書き続けようという励みになりました。感謝してもしきれません。と、同時に、宇部さんの感想文体や、そこから垣間見られる創作態度のようなものを見ては、いちいち感心していました。
おそらく宇部さんは、こういう物を書こうという計画を、相当な角度で実現しているのではないでしょうか。また、作業計画のようなものも、およそ計画通りに進捗を進められる人なのではないでしょうか。また講座からのアドバイスや、反応を見ては、毎回調整を図ることに成功しているようにも思えました。わたしが言うのは本当に憚れるのですが、今回の4期の全作品の中で第一回提出作から最終実作まで、その小説としての精度を最も上げたのは宇部さんだと読んだ限りでは思いました。宇部さん自身は毎回内容を変えて書き続けたと記していましたが、それでも基本的には第一回作品から、その核は同じだったと思います。その最初からあった作品にあった資質自体を変えること無く、ただただ同じ方向へ同じ方法論を磨いて質を高めていったのが最終提出作だと感じました。恐ろしいことに、すでに宇部さんは最初から新人賞の最終候補にあげられている実績のある人だったので、そこの水準から、さらに自分の力で作品の質を上げていったこの一年間は、相当な鍛錬をした結果だと思うのです。そして、その鍛錬の一部には、4期の全員の実作があってこそ、それらが宇部さんの名に体よく取り込まれたわけなので、ま、言って見れば宇部さんの成長は4期の皆が肥やしになったっていうことですね。うん、きっとそうなんだ。と、自分で何を書いているのかわからなくなってきたので最後。

12.今野あきひろ「受戒」
わたしが、今野さんに言いたいこと。わたしは第一回から、自分の文章を作りたいと思って、自分なりに毎回実験しながら書いていました。物語を決めるより、文章を決めるというか決心するのに時間をかけていたと思います。というのは別段凝った文体を書きたかったわけでなく、できるだけ自分の中から楽に出せる文章。嫌な言い方をすると、コスパのいい文章を作ろう。苦労しないですらすら書けて、欲を言えばオリジナリティが高く、その言葉だけで読みたくなるような文章を!と虫のいいことを思い続けながら、第五回で、彼女が行方不明になって、隣に彼女と同じ人がやってきた物語を書いた「二人称」の文章は自分では「書けた」と思ったのです。そして、その回に全く偶然に円城塔さんが審査に来られて、主任講師に呆れられながらも初点数を入れていただいたのが、偶然とはいえ感謝してもしきれません。というか、たぶんここで点数を貰えなかったら最終実作にたどり着けなかったと断言できます。断言させてください。もうここから円城塔さんの小説を完読したのは言うまでもありません。それでも豆腐のような心臓のわたしは、その後も毎回主任講師から実作スルーされるたびに、もう本当に自分はだめやもしれぬ。と思っていた最中にコロナにより最終実作の締切りが延びに延びていったという偶然が発生しました。これもこの締切りが延びなければ、最終実作どころではなかったので、締切り延長には足を向けて寝られても感謝してもしきれません。

13.SF創作講座全般について
第一作から最終提出作までおよそ(全部とは言えない)読み通して、気づくことは、誰もが第一作と同じ方向の延長で最終作を書き上げているということです。きっと4期の人たちは、最終作の数行を読んだだけで、これは誰の作品かクイズがあれば全員を当てることは容易だと思います。それくらい個性のある第一作からさらに個性と特徴のある最終作に辿り着いたと思います。あるいは逆に、今となっては最終提出作品を読んだあとに第一作を眺めると、やはり同じだよねえと気づき、皆自分の第一作に影響を受けているのだろうと頷くしかありません。
それから一部の人を除けば、毎回最終日の締切り時間ぎりぎりにtwitterで間に合う間に合わないと呟き合うのがよくわからないけど、サークルっぽかったです。毎月の締切りだけで無く、最終実作の締切り当日の23時でもまだわたしだけでなく何人もが、時計を見ながら懸命にキーボードを打っていました。いや、見てないけど。
わたしがここまで続けられたのは、いろいろな偶然が重なった結果だったのです。しかし、この時空では最終実作の提出にはたどり着かなかったり、途中で消えていった4期の人も少なくありません。たぶんそれは、1期からずっと同様なことが続いていたようです。
そのたった一つの原因は、自分の作品について何も言及されないことだと思います。限られた時間で梗概の批評のあとに、選出梗概の実作自主提出作品についても言及されることがあるのですが、たいていは主任講師以外は実作を読んで来ませんので、主任講師だけが、簡単に自主提出作品からいくつかを取り上げるのです。つまり状況的には梗概も自主提出実作品も殆ど言及されないこともあるのです。それは、講師の方々やスタッフの方も、講座のシステムを理解していて、ある程度想定していることだとは思います。しかし誰もが、(そのスルーされる当事者ですら)自分の想像以上にこれはダメージが大きいことで、しかも時間を立つ毎にこのダメージが蓄積していきました。だから、4期の最終実作提出にまでたどり着けなかった人たちについても、いちいち名前をあげたいくらい印象深い人が何人もいました。ただそこまでするのは逆に失礼になるような気がするし、また書き続ける人は放っておいても書き続けるから大丈夫なはずです。
これからSF創作講座に入ろうとする人は、誰もがその可能性があることを予想はしていると思います。しかし、間違いなくその予想をはるかに越えた、辛さを味わうことになると思います。ただそれを乗り越えるには、もう一回もう一回と書き続けるしかないのです。あ、少しいいこと言った。
特にこれから、SF創作講座に入る方へ、その気になれば誰でも上達するSF創作講座の利用方法を教えます。ただ、『毎回実作を提出すること』それだけです。
たぶん、4期で全実作提出者は5名だと思います。そのうち、2名が最終候補作品に入っています。入らなかった3名についても主任講師の惜しかった作品の中にあげられていますし、そのひとり式宮志貴さんは、ちょっと時空がずれていれば毎回選出で、4期のトップ点数もとれた有名人ですし、またひとりの九きゅあさんは、主任講師から『「デスブンキ…」はぶっとんだアイデアがめちゃくちゃ面白いけど消化しきれてない。長編にすべきかも(クレア・ノース『ハリー・オーガスト、15回目の人生』みたいな方向で)』というような評をもらっている人ですね。わたしも後出しじゃんけんではありませんが、4期の最終実作で、1番効いた設定の物語は九きゅあさんの「デスブンキ ヌーフのダム」だったと思います。いかんせん、48000文字では説明しきれずに、あるいは収束しきれずに終わってしまった感でした。(前回の感想参照)というように、毎回自分でコントロールしながら実作を書きさえすれば、そこそこ文章は上達していくと思います。もしも、あなたがはじめて小説を書くのであれば、それが「たったひとつの冴えたやり方」だと思います。たぶん、実作提出作品が多いと、主任講師は苦々しく言うかも知れません。「無理して書くことは無い」とか「みんながそんなに書けばいいものではない」とかとか、でもそれは絶対「嬉しい悲鳴」ってやつです。5期のみなさんが、実作自主提出の多さに主任講師を困らせることを心から祈っています。

自分の、こんなだらだら文章に飽きてきましたので、最後に、よく思い出したカズオ・イシグロさんの創作についてのコメントを。彼の人はどこかで、だいたいこんなことを言っていました。
今は世界中の大学で創作クラスが作られて、人気になっているけど。学生は小説家になりたいと考えている人ばかりだ。作家になって家で楽に仕事をして、注目を浴びてお金を稼ぐ、という結果の方しか見ていない。小説家になりたいだけで、大学院まで行って、数百万を使ってようやく自分は小説を書くことに向いてないことに気づく人もいる。誰かがやってきて、「おまえの小説は誰もよまない」と言われて、それでもひとりで書きたいことがあって、ひとりで書き続けられるのかを考えるべきだ。
みたいなことを、彼のカズオさんは言っていたのです。わたしは、それで今野はどうなの?と、最終実作を書きながら、何度も自分に言い聞かせていました。

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