ルッキズムについて

いつか考えたいと思っていたので、記事を書きながら思考してみる。

ルッキズムについて様々な(社会的な)定義があるが、まずは「外見をその人の評価基準として取り入れて良いか」という事について話したいと思う。私はこれについては賛成である。外見は運動神経や学力と同じように、その人のパラメーターの1つである。それをメインの評価軸とするモデルなどの職業があってもいいと思っている。

理由は主に2つある。

1つ目は人間の根源的な欲求であること。私は、人間の根源的な欲求に反するサービスやルールは、いずれ崩壊すると思っている。極端な例を言えば、人間の3大欲求を抑えるようなルールは成り立たない。外見についても、人が根源的に美しいと思う顔は急には変わらない。それを理性で平等に見ると言うのはほぼほぼ不可能だと思っている。 少なくとも世代交代するだけの年月が必要ではないだろうか。

2つ目は現在、容姿や視覚を美しくするための職業の人がいるということだ。メイクアップアーティストやデザイナー、画家などである。彼らは内面に関われなくても死ぬ気で外面を美しく仕上げようとしている。ルッキズムが完全に撤廃されれば、彼らの思いを踏み躙ることになるだろうし、現在彼らの看板や広告や作品を楽しんでいる我々が、外見だけ特別扱いするのは不可能に近い。

3つ目は、先天的なものであっても個性として尊重すべきだということである。努力をしない先天的に身についた能力を人は嫌う。しかし、それはただの僻みだし、先天的な特徴だってその人の立派なアイデンティティの1つだと思っている。また、よく「外見がいいだけで努力をしなくても仕事につけてモデルはいいな」とかの意見を見るが、それは当然だと思っている。仕事は価値をどれだけ想像するかが重要なのであって、どれだけ努力をするかはどうでもいいからである。

以上が、私がルッキズムを否定できない理由である。注意するべきは、私は外見はを評価項目の1つとして残しておいて欲しいと言っているだけで、至上主義にして欲しいわけでは無いということである。

とは言え、ここからはルッキズムを撤廃する理由で理解できる点も上げていこうと思う。

それは、努力をせずに楽をできる人から、楽な人生を奪うことで、努力をする量を平均かさせるという理由である。正直、外見がいいというのは外見がメインでないほぼ全ての職業においてもプラスに働く。そこで必要な努力の差が生まれ、結果的に収入などにもつながっていることは否定できない。ではどうするかというと、外見の評価を止めることで外見で今まで得をしてきた人たちに努力を強いる環境を作ればいい。書き方が過激だが、間違ってはいないと思う。

私は上の考えは合理的で共感で切る一方で、個性を認めないようで正直好きではない。ただ、他に大案が思いつかないことも事実なので、難しい問題だと改めて思った。

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