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山岡鉄次物語 父母編3-5

《 母の物語5》糸取り

☆珠恵は製糸工女としての毎日を送っていた。

蚕から絹織物の材料となる生糸を生産する産業を製糸業という。
弥生時代に大陸から絹作りが伝来したと考えられており、江戸時代には東北や信濃、上野、甲斐の国などで養蚕と製糸が行われていた。

明治から昭和初期にかけて生糸と絹製品は、緑茶とともに日本の外貨獲得にとって重要な商品であった。

なお綿や羊毛から糸を紡ぐ業種は紡績業という。

この頃の製糸業は昭和4年の世界恐慌以来、衰退して廃業した業者もいたが、珠恵のいる工場は操業を続けていた。

珠恵は女性たちの働く工場で、器用に糸取り作業をしていた。

糸取りは養蚕農家から仕入れて乾燥貯蔵しておいた繭を、毎日必要な分だけを取り出して品質の良い繭だけが使われる。

繭糸をほぐれやすくする為にお湯や蒸気で柔らかく煮て糸を取り出す。

濡れた繭糸は粘着力があるので何本かを合わせて生糸にする。

良い生糸はひとつの繭から1本の繭糸を上手く引き出す事が必要で、丁度良い太さになるように繭糸の本数を注意深く加減して枠に巻き取っていく。

煮ている繭からは嫌な臭いが出るので、慣れないうちは吐き気を我慢しなければならなかった。

細井和喜蔵の「女工哀史」や、映画化された山本茂実の「あゝ野麦峠」で描かれた製糸工女は明治大正の話だ。
珠恵が働く頃には労働条件が改善されて来ていた。

明治44年、製糸工女の労働条件を改善する為、日本で最初の労働者の為の法律「工場法」が公布された。
1日の労働時間は12時間に制限される事になったが、大正5年にやっと施行された。


中国産に劣らぬ品質を評価された日本産の生糸は、明治期にかけて日本の貿易輸出の中心となった。

明治政府は生糸の増産と、欧州から導入した製糸技術の吸収・普及のために官営製糸場を設けた。
明治5年につくられた富岡製糸場は現在世界遺産となり、その歴史を伝えている。

当初、生糸の主な輸出先はフランスであったが、後に絹織物産業が急速な発展を遂げた米国へ移った。
明治後半にはイタリア、中国をしのぐ輸出量となった。

昭和4年、世界恐慌はニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけとして始まった。
米国の絹需要は急激に減少し、全面的に米国市場に依存していた日本の製糸業に大打撃を与えた。

人絹の急速な進出や、中国産生糸・欧州産生糸の価格下落により、日本産生糸の市場占有率は減少していった。

製糸業の不況は長く続き、中小はもちろん大企業の倒産も相次いだ。

日中戦争が始まり、次第に国家の統制が強まってきた。
国家主導の合理化、再編成が進み、工場数・釜数とも減ったが、太平洋戦争が始まると、製糸業は戦時体制に不要不急のものとされ、工場は次々と軍需工場に転用された。

太平洋戦争の後、日本経済はめざましい復興をとげる。
岡谷などの諏訪湖畔の製糸業地帯では、疎開していたかつての軍需産業がもととなり、光学・通信・機械工業を中心とする新しい工業地帯に変わっていく。


珠恵にとって作業は大変だったが、食事時間と工場の中に流れる音楽は楽しみだった。
珠恵は手を動かしながら、スピーカーから流れる音楽を知らず知らずのうちに口ずさんでいた。


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