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山岡鉄次物語 父母編4-2

《若き日の母2》銃後の守り

☆郷里に戻った珠恵は姉清子の元へ身を寄せていたが、日本はとうとう戦争に突入してしまう。

珠恵の姉清子の夫、中越正一は数年前に徴兵検査甲種合格で兵役に就いていた。正一は中国から甲陽市に戻っていたが、昭和16年、シンガポールに出征していた。

夫の留守を守る清子が珠恵を呼び寄せたのだ。
この時の清子は中越の子を身籠っていた事もあり、留守生活で何かと手が必要な時の為にも、珠恵に一緒にいて欲しいと思ったのだ。
清子は翌年、昭和17年に長男を産むことになる。


昭和16年12月8日の早朝、日本海軍の特別攻撃隊はハワイの真珠湾を奇襲して、米軍に多くの被害をあたえた。
真珠湾攻撃(軍部ではハワイ海戦という)により太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦したのだ。

米国は中国における日本軍の動きを警戒し、それに対応する為、ハワイの真珠湾に軍事基地を置き、艦隊の主力を移していた。

日本は日米交渉の不調を受け、御前会議で開戦を決定した。
米軍を奇襲することで、戦力的に不利な日本軍が緒戦に勝利し、早期の講和に持ち込むべきとされたのだ。
宣戦布告と同時に攻撃を行う予定だったが、米国には1時間遅れて宣戦布告が届いたとされている。
米国は日本軍から奇襲されたものとした。

日本海軍の連合艦隊機動部隊は数隻の空母から、戦闘機、爆撃機、魚雷攻撃機が出撃、真珠湾に停泊中の米国海軍の艦船を破壊し、約2千人の死者を出した。米国の空母エンタープライズは外洋におり、無傷だった。

日本の宣戦布告を受け、米国もただちに宣戦布告をし、ドイツ、イタリアが米国に宣戦布告、これにより第二次世界大戦が始まる。 

一時、奇襲の成功で日本中が勝利に沸いた。
昭和17年春までは、東南アジアや南方の島々において勝利が続き、戦況を楽観視していたが、広大な戦線を維持するための兵力や物資の補給に、次第に苦しむことになる。


太平洋戦争の真っ只中ともなると、国家総動員法によりあらゆる生活物資が不足し、配給制度化されていた。

「欲しがりません勝つまでは」の合言葉で戦勝の気運を高め、軍需物資として各家庭から金属や羊毛製品の供出が行われた。

成年男子の労働力が不足した為に「銃後の守り」の言葉のとおり、若い女性は女子挺身隊として、勤労奉仕や軍需工場で働くようになっていた。
女性の服装はもんぺ姿と決まっていた。

珠恵は甲陽市の姉清子の家に住み、軍需工場で働いていた。

軍の工場では、主に水雷・精密機械・砲弾などの部品を製作した。
金属の加工作業だが、女性でも旋盤を回していたのだ。

珠恵は旋盤で砲弾の部品を作る危険な作業を担当した。
旋盤に取付けられた円筒形の金属を回転させ、ハンドルを慎重に動かしてバイトの付いた刃先で金属を削る作業だ。

ある時、珠恵の作業中の姿が「銃後を守る乙女」として地元の新聞に載せられた事があった。

「銃後の守り」と云えば主に戦争中の男子の留守は、女性が守る事として、軍需工場では多くの女性が働いていた。
直接戦闘をする軍隊の為に、軍が消費する資源や物資の供給を支えて、戦争の遂行と勝利を支援するという考え方である。

低年齢や高齢のもの、病弱なものや女性などの理由により、入隊できない者に対して勤労動員をかけたのだ。

太平洋戦争末期では、空襲による火災の消火活動や防火帯の造営に動員された。
本土決戦や一億玉砕を合言葉に、精神的な修練の意味もあった。
直接戦闘が出来るのか疑問だが、竹槍訓練も行われた。


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