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女神さまの焦燥

#15「進撃のR・B・G」

1956年、ルース・ベイダー・ギンズバーグがハーバード大学ロースクールに入学した時、新入生の男子は500人、女性は9人でした。校舎の中で女性トイレがあるのは一棟だけでした。

両親とも貧しい移民で、父はユダヤ系ウクライナ人、母はユダヤ系オーストリア人でした。母は当時の一般的な考え方である結婚と平凡な人生にとらわれず、娘に自立を求め、すべてに「疑い」を持ちなさいと教えました。

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ギンズバーグがロースクールで法律の勉強を始めた頃、1955年に生まれた娘はまだ14か月でした。同じ大学に在籍していた夫マーティンが法律の学位を取得し、高い報酬の職に就ける可能性が高かったので、家庭に収まるという選択もあったのですが、彼女が10代のころに亡くなった母の影響もあり、法曹界で働くという夢を貫く決心は固まっていました。

1950年代のアメリカは、「赤狩り」による国民の疑心暗鬼の渦中にあり、ギンズバーグはアメリカがアメリカらしくあるため、すなわち「思想の自由」「言論の自由」「男女の平等」「民族の平等」のため、この小さな美しい若き戦士は立ち上がったのであります。

当時のアメリカでは、法律事務所の就職に際し、女性であるという理由で面接すら受け付けないことも珍しくなく、仕事を続けるために大きめの服を着て妊娠を隠したりしていました。

ハーバード大学、コロンビア大学ともに極めて優秀な成績を残しましたが、当然の就職先である連邦高等裁判所やニューヨーク法律事務所には三つの致命的な理由により受け入れられませんでした。

ひとつは女性であるということ、もうひとつはユダヤ人であるということ、さらには母親であるということ…

1972年、コロンビア大学ロースクールで、女性初の常勤教員となりました。

1973年、アメリカ自由人権協会(ACLU)ニュージャージー支部で法律顧問に就任しました。

米国社会に残る性差別と戦う法律家として全国的な名声を得て行きます。

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1980年、カーター大統領によって、コロンビア特別区巡回区連邦控訴裁判所判事に指名されます。

そして1993年、ビル・クリントン大統領により、アメリカ合衆国連邦最高裁判事に指名されました。

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オコナー判事に次いで、女性として史上二番目であり、1969年、フォータス判事が辞任して以来、初めてユダヤ系最高裁判事となりました。

2009年、膵臓がんに侵されますが引退せず、27年にわたる執務を継続しました。彼女はアメリカの、そして世界のポップカルチャー・アイコンとなり、有名なラッパー「ノトーリアスB・I・G」をもじって「ノトーリアス(悪名高き)R・B・G」という愛称で呼ばれました。若者たちは彼女のグッズを身につけ、一緒に写真を撮りたくて行列をつくりました。

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2020年、9月18日、ビヨンド・ジェンダーのロックスター、ルース・ベイダー・ギンズバーグは87歳の生涯を終えました。

しかし彼女の本当の勝利は、共に戦い、共に幸福を築き、料理の苦手な妻に代わり台所に立ち、どんなに苦しい時も笑顔とジョークで妻を支えてきた、「私の賢さを気に入ってくれた、ただひとりの男性」マーティン・ギンズバーグを生涯の伴侶に選んだということに、疑う余地はありません。

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彼女にはその生涯において、守り通した素晴らしい理念があります。決して怒りに任せて声を荒らげたり、噛みついたりせず、淑女として、「何も知らない子供に教えるように諭すこと…」

彼女の残した印象的な言葉はたくさんありますが、世界中の女性は次の言葉を胸に刻まねばなりません。

「優遇してくださいとは言いません。男性の皆さん、私たちを踏みつけているその足をどけてください…」

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