錦秋十月大歌舞伎 天竺徳兵衛韓噺 ー 国立劇場問題とあわせて考える
天竺徳兵衛韓噺 ー 歌舞伎の演出 <白梅の芝居よもやまばなし>
松緑丈の異国噺や飛び六方など、芝居の見せ場に見応えがあり、とても楽しませて頂いたことを前提として‥
復活狂言とも言える作品の今後に関して、少し考えさせられたことをまとめてみたいと思います。
復活狂言にかかわらず、歌舞伎作品を上演するにあたり、見せ場をつなぎ合わせてコンパクトに仕上げていく傾向が、コロナ禍を通して、最近のひとつの流れになってきているかと思います。
そんな傾向の中で、分り易さを優先するということであれば、それも一理あるでしょう。コンパクトにしても十分面白く見せることが出来ていたという、成功体験の上に、コンパクトにした方が、観客もついて来やすいのではないか‥。そんな考えがあってもいいと思います。
何を取捨選択していくかということに対しては、様々な考え方があっていいと、私も思います。
今回の『天竺徳兵衛』も、コンパクトにしつつ面白くまとめることが要求された流れの中での上演であるのでしょう。そして、その試みが失敗しているとまでは言い切れないとも思います。前半が説明的でダレてしまっているのは、否めませんが‥
前半ダレるというのは、たぶん、復活した通し狂言のコンパクトさを追求した結果おこる傾向であり、この作品だけの問題ではないとも思います。
一日がかりで上演することを前提として書かれた作品を、ストーリーを通すことに拘泥しながら、コンパクトにまとめることが、果たして可能なのか。むしろ、作品本来の魅力や作者の意図が、かえって見えなくなってしまうのではないか。
コンパクトにまとめれば、作品として見易くなるのか‥。観客を飽きさせないのか‥。そう簡単な話ではないのではないか。
今回の上演で、そうしたところに大きな課題が残っていることを、改めて感じました。
今回の上演に、かなり不満が残った、というわけではありません。
ただ、先人達の残した財産の上にあぐらをかいているばかりでは、いけないような気もします。
その上のレベルを考えるべき時に来ているし、考えられるだけの様々な試みも積み上げられてきているのではないか、と私は思います。
話はそれますが、復活狂言を考える上で、国立劇場の行ってきた試みは、もっと見直されるべきだと、私は思います。
話はさらにそれますが、重要な問題なので、言及したいと思います。
国立劇場の建替え工事による休場が、今話題となっています。
しかし、どういった建替えが行われるかを考える際に、古典芸能を伝承していく上で、国立劇場がどうあるべきか、全く議論がされないまま、お役所仕事の一環として、流されるように事が進んでいるように思われることに対して、私は危機感を覚えます。
なぜなら、演劇にとって、そこで上演される芝居にとって、劇場は大変重要なものであり、大きな影響力をもつものだからです。
大阪の「国立文楽劇場」。
文楽のための劇場でありながら、多目的の劇場でもあることを目論んだため、文楽を古典芸能として伝承していくために適した劇場ととても言えないつくりになってしまいました。
東京の国立劇場小劇場くらいの空間でないと、今の文楽の本来の魅力は、伝わらないように思います。
文楽劇場が、文楽を伝統芸能として継承していくことを最大の使命としているのであれば、劇場空間としては致命的な欠陥を持って建てられてしまっている、と私は思います。
これは、私だけの考えではないでしょう。
簡単に作り作り変えることが出来ないため、見て見ぬふりをしているしかないのかもしれませんが‥
この失敗の教訓は、生かさなければならないと私は思います。
国立劇場の行ってきた試みに話を戻します。
国立劇場の非常に大きな功績として、見取り狂言を並べて上演するのではなく、通しにこだわった古典作品の上演や、長らく上演が途絶えていた狂言を通しで復活上演するということがあると思います。
こうした上演を中心に行ってきた姿勢は、もっと重要視されるべきだと、私は考えます。古典を伝承するにあたり、ある志の上にこだわりをもって、それを貫いてきたからこそ、国立劇場としての存在意義を示してこれたのは、間違いないのではないでしょうか。
民間の活動に水を差す存在ではなく、民間の活動を圧迫することもなく、民間と共存共栄を目指していける。そんな活動を模索してきたからこそ、多少の摩擦はあったでしょうが、歌舞伎史に残る多大な業績を残してこれたのだと、今更ながら実感いたします。
民間の側にも、ただ競合相手とするのではなく、長い目で共存共栄をはかっていこうとする、度量の大きさも求められますが‥
三代目猿之助丈が、多くの復活狂言を次々と世に送り出してきましたが、その目指していた大本の方向性は、国立劇場での試みにあったのではないか、と私は考えます。
見取り狂言を主流とする松竹ではなかなか実現しづらい試みを、国立劇場が担う方向性は、今後も堅持して頂きたいと願っています。
そして、古典や復活狂言は、出来るだけ原作に忠実であらんとする姿勢も堅持して頂きたい、と私は思います。
何故なら、古典作品の本来の趣旨を理解しないまま、集客を優先させたように思える擬似古典を上演していくことは、歌舞伎の本来持つ伝統芸能としての在り方をゆがめることになる、と私は考えるからです。
最近の国立劇場の通し狂言で、原作を無視して勝手に書替えてしまった狂言が上演される傾向が出てきており、私としては、そうした傾向に対して、かなりの危機感をもっています。
歌舞伎は一見すると”世界”の綯い交ぜがあったりして、なんでもありの荒唐無稽さで、好き勝手に作り変えられているように思われがちですが、それは誤った考え方であると、私は考えます。
少なくとも、江戸時代までは、一定の法則の上に成り立っていて、歌舞伎という芝居の根本に関わる精神性につながる思想が、隠されているからです。その詳細の説明は関しては、別の機会にゆずりますが‥
書替えを行うのであれば、その作品の裏に隠されている精神までわかった上で、なされなければならない、と私は思います。
国立劇場では、映像や台本などの記録をしっかり残します。残してしまった擬似古典が、原作の精神をかえって見えなくさせることになりかねません。
無責任に書替えた擬似古典の上演を積み重ねることは、伝統芸能の世界では、ましてや、国立劇場では、避けるべきであると、私は思います。
国立劇場の使命として、芸術の創造性に焦点を当てる面も避けては通れない、というのであれば、新作は新作として、新しい考えの基に書かれていることが、しっかりわかるように上演する責任があると、私は思います。
狂言の復活も、ある意味で創造性が要求されますが‥
通し狂言を復活させる際に、わからないところは原作に忠実に行い、勝手に変えない、という良心や責任感があったことを、初期の頃の筋書きで読んだ覚えがあります。
どうしてそう考えられて来たのか、流されるのではなく、再考する必要があるように、私は思います。
やっとではありますが、話を天竺徳兵衛に戻します。
天竺徳兵衛のような作品をコンパクトにまとめるには、通し狂言の上演をを短く切り落としていく、という考え方から脱する必要があるように、私は思います。
話の流れの中で、筋を分かりやすく通すことだけを重要視する必要はないように、私には思われるからです。
ストーリー展開に重きをおく傾向は、自然主義的な視点がかなり重要視された時代の考え方であるように、私には思われます。
そういった作品を守っていくべき、または、そうしたことを重視する新作にこれからも挑んでいくことも、決してないがしろにして欲しくはない。と、私自身は願う世代でもありますが‥。
ただ、戯曲のテーマがしっかりしていれば、なんだかよくわからなくても、面白かった、感動したということも、今は受け入れられる世の中になっているのではないかと思われます。
先日、東京芸術劇場で上演された、野田秀樹作、演出の『兎、波を走る』。
これは、日本のみならず世界にも誇れる、現代戯曲の最高峰に位置すると言っても過言ではない作品に仕上がっていた、と私は思います。
自然主義的な芝居作りではなく、軽妙な言葉遊びで笑わせる芝居運びの中で、様々な現代の問題点をつきつけてくる。
その問題意識は、ただ権力に対する反抗に終始しているように見える、社会主義的、共産主義的思想の影響下にある次元の戯曲とは、一線を画しており、非常に深いものがありました。
そうした、かなりの問題作でありながら、客席は大入り満員。
松たか子や、高橋一生氏いう、人気の花形を中心に据えているということもあったからかもしれません。また、この二人は確かによくやっていました。ただ、老若男女でぎっしりとうめられた客席の反応から、この作品の根底にあるもの、作者の意図を、観客が受け止めていたであろうことは、間違いないと思います。
若い方達には、かなりハードルが高かったと思います。ですが、それが却って作品の奥深さを知ろうとし、問題意識をもつきっかけになったであろうことは、容易に想像が出来ます。
作品全体が投げかけてくる意図というものは、ストーリーをわかり安く提示しなくても、観客に伝えることは出来るのです。
戯曲を読む込むこと、そして通し上演をした経験を生かすこと。そうした作業の上にたった上で、新しい視点からまとめていく、演じていく。そうした試みが、今後は期待されるのではないか。
そんなことを、今回、考えさせられました。
2023.10.20
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