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辰 立川立飛歌舞伎 『新版 御所五郎蔵』『玉藻前立飛錦栄』

<白梅の芝居見物記> 

 街の活気を感じながらの芝居見物

 昨年に引続き「立飛グループ創立100周年記念事業」として11/21から11/24の間、立川ステージガーデンにて「立川立飛歌舞伎特別公演」が催されました。
 昨年はコロナ禍の影響が残っていたのでしょう。今年は見違えるように街全体に人の息づかいが感じられるような賑わいがあって、1日がかりの芝居見物に花を添えていました。銀座では昨今あまり感じられなくなってしまった、季節の移ろいを感じつつ劇場に向かう風情もとてもいいものでした。また、芝居を打ち出された後もすでに暗くなっていた街のイルミネーションが、芝居の余韻を感じるのにとてもいい雰囲気をかもし出していました。

 本年は役者さんのみならず神輿や芸者衆、総勢180人のお練りも開催されたようで、劇場に向かう並木道が芝居街としての気分を楽しめる装いとなっていて、芝居見物の気分を盛り上げていました。
 劇場正面も昨年より見違えるように華やかで賑やかになっていて、記念撮影スポットがもうけられていたので、観客も見物前から楽しむことが出来ていたと思います。

 芝居前の市川中車丈による正装での『口上』から、中村壱太郎丈・中村歌之助丈による解説、立飛のキャラクターであるたっぴくんとたっぴちゃんが和装で登場し、撮影タイムをもうけつつ客席との交流を図ります。
 ただ、今年は、歌之助丈がこうした観客との交流になれていないところもあったからなのか、それとも解説から引込みの段取りが元々しっかり付けられていなかったためか、それとも工夫が足りなかったのか‥、壱太郎丈とキャラクターの引込みも含め少しバタバタと終わってしまった感はぬぐえないところは残念ではありました。

 新版 御所五郎蔵(ゴショノゴロゾウ)

 元治元年(1864)正月、江戸市村座で上演された河竹黙阿弥作『曽我綉侠御所染(ソガモヨウタテシノゴショゾメ)』を、「木ノ下歌舞伎」主宰の木ノ下裕一氏が補綴しての上演です。
 作品のタイトルとなっている五郎蔵の件のみではなく、原作の前半部分の眼目である「時鳥殺し」を付けての意欲的な上演となっています。
 原作の通し上演を試みることの重要性を認識する一方で、こうした補綴による上演にも大いなる可能性があることを示す舞台になっていることは確かだと思います。

 ただ、今回の上演を試みる意欲とは裏腹に、「時鳥殺し」と「五郎蔵」の件が有機的に結び付いての上演となっているかと言えば、首をかしげざるを得ないのも正直な感想であり、残念なところでもあります。
 五郎蔵は当代において尾上菊五郎丈が当たり役とされてきたところからも分かるように、幕末期の頽廃した時期の雰囲気よりは、むしろ明治以降の黙阿弥作品における江戸前の粋な男伊達を見せる方向で洗練されてきたゆえに人気をはくしてきた作品であるように私には思われます。
 初演時の市川小團次の演じた五郎蔵というより、五代目菊五郎の芸風の系統により昨今は上演を繰り返してきたのだと思います。今回演じられた片岡愛之助丈の五郎蔵も守田勘弥から当代片岡仁左衛門丈へと受け継がれた、江戸前の男伊達の芸系の中にあるかと思います。

 一方、そういった練り上げられた「御所五郎蔵」の芝居に「時鳥殺し」を前半に置くことで何が見えてくるのか、もしくは何を表現しようとしているのか、何を受け取って欲しい作品なのか。それがはっきりしない通しであるように私には感じられました。
 惨殺場面であっても様式美によって見せるという芝居を否定しているわけではありません。ただ、歌舞伎が伝えて来た作品として、それが演劇的に「人間の業」を見せつける舞台芸術としての側面がなければ、一部の好事家を喜ばせるだけの珍しい場面の上演、というだけに終わってしまうことも否めないように私には思われました。

 御所五郎蔵には歴史上の人物のモデルがいます。また、歌舞伎であることを思えば百合の方にもモデルがいたと考えるのが妥当かと思います。それは女性ではなく男性であり、本作後半の星影土右衛門と同一人物だと私は捉えています。
 「時鳥殺し」に至る過程で自分の気に入らない状況の中で残忍さが増幅していく人間の「業」というものが描かれるのが本来だと思います。その増幅された悪業の究極を「時鳥殺し」という場面で表現しているのだと、私は思います。
 初演時も、百合の方と五郎蔵どちらも小團次が演じているので見えにくくはなっていますが、初演時の世相を思えば実は百合の方と土右衛門こそ同一人物であることがすぐにはわからないようにわざとぼかしているのではないかと私は考えます。詳細はここでは踏み込めませんが‥。
 もしこの新版の再演が試みられるのであれば、百合の方の憎悪が増幅していくところをもう少し丁寧に描くことと、百合の方と土右衛門を同じ役者が演じることによって前半と後半が有機的に結び付くのではないかと私には思われました。

 作品論が中心になってしまいましたが、今回役者の皆さんお一人お一人の熱演で面白く見応えのある作品になっていたことは事実です。
 愛之助丈は百合の方も五郎蔵も初役とは思えない出来栄えでした。
 中車丈も大きな劇場に負けない存在感を示すようになっていらっしゃいますが、一点肩をゆすって歩くくせがまだ抜けきれず端敵に見えかねないところのあるが残念です。丹田を中心に体幹を感じられるどっしりした大きさが出てきたらと思います。
 中村壱太郎丈は時鳥の美しい儚さを好演、傾城逢州も手の内で存在感を示します。
 笑也丈の皐月は美しいのですが、浅間家の場が付くことによって芝居が変わらざるを得ないのかそこのところはわかりませんが、甲屋の場では薄幸な儚さを漂わせていて、今まで見てきた立女方としての役どころとはかけはなれた皐月になってしまっていたのが、私としては物足りなさを感じました。

 大谷廣松丈の信夫が成長を感じさせるしっかりした舞台を見せていて印象に残りました。
 時鳥殺しの場面での腰元衆には存在感があり、大いにこの場を見せ場とするのに貢献されていたかと思います。
 脇の皆さんが頑張っていらっしゃるのが伝わる舞台でしたが、せっかく両花道を使った花道での連ねが、観客に台詞術の面白さを感じさせるにはまだ距離があり、こういった時に地力を見せられるように日頃の研鑽に期待したく思います。 

 玉藻前立飛錦栄(タマモノマエタチヒノニシキエ)

 今回の立川立飛歌舞伎のために藤間勘十郎氏が脚本・演出を手がけられた新作舞踊劇。
 季節を秋に移した「道成寺」の鐘供養のイメージに、立川に近い高尾山薬王院が弘法大師縁の寺ということで、その弘法大師が讃岐から狐を追い払ったという伝承から玉藻前に化けた「九尾の狐」伝説を重ねてた作られたと、作者が語っておられます。
 壱太郎丈が九役を早替りするところが見所であり、愛之助丈の押戻しが付いて花を添え、中車丈歌之助丈を含めて斜め宙乗りで飛んでゆく九尾の狐を見送る幕切れで、紅葉の葉を贅沢に散らして大変華やかな一幕となっていました。
 ご当地へのサービス精神が旺盛で贅沢な一幕であり、見物も十分楽しまれたのではないでしょうか。

 ただ、昨今では早替りも歌舞伎の観客としては決して珍しくはなくなってきています。若い役者さんでもトライできる位に技術的には確立しつつあることは喜ばしいことではあるのですが。
 めまぐるしく役を替わる趣向ですが、一人の役者さんが奮闘していることに気付いていない見物も少なからずいらっしゃっいます。殊に歌舞伎初心者にとっては、役者さんが奮闘するほどには効果的とも言えないきらいがあり、一面気の毒なようにも思われます。
 何役も試みることに役者さんとしてもやりがいが見いだせるのであれば、それはそれで悪いとは言えないかもしれませんが。

 昨今「早替り」を「早着替え」とか「早替え」と呼ばれる方が多くいらっしゃいます。「宙乗り」を「宙づり」と呼ばれて訂正したい心持ちになるのと同じ感情が芽生えますが、そうした呼び方を否定できない部分もなきにしもあらずと思われることは確かで、そこが私としては残念なところでもあります。

 また、道成寺の世界と玉藻前の世界を綯い交ぜにしたところは、ある意味斬新な試みではあるかと思います。ただ、私としてはこの二つの世界を綯い交ぜにすることには非常に強い抵抗や違和を感じずにはいられません。何故かという詳細な説明にはここでは踏み込みませんが‥。
 歌舞伎としての古典性を獲得していく作品群には、かならず古典性を獲得するだけの作品テーマを見いだすことが出来ると私は考えます。「道成寺物」にはそれがありますが、残念ながら玉藻前には古典性を有する人物像にまで掘り下げられている作品があるかといえば疑問が残ります。趣向の奇抜性やケレンが生きる素材として用いられているに過ぎないと私には思われるのです。

 近世の戯作者の虎の巻である『世界綱目』にある「源氏(物語)」の「世界」を扱う作品が、近世芸能である人形浄瑠璃や歌舞伎ではほとんど評価に値するものが伝わっていないのと根は同じなのだと思います。
 もともと「九尾の狐」は太平の世や明君のいる代を示す瑞獣であったにも関わらず、日本では「殺生石」の伝説と強く結び付いてしまいました。白河院から鳥羽院、後白河院までの時代のドロドロとした歴史を作品の背景にもつため、近世文芸や芸能においてもケレン的面白さを越えて、文芸の本流となる精神や作品テーマを伝えることの出来る素材ではない、ということが指摘できるように私には思われます。
 そうしたことを念頭に作品が創造されたらと作者の今後に期待します。

 立川立飛歌舞伎への期待

 立川立飛歌舞伎が来年以降もあるということを伺いました。大変喜ばしい事です。上演が継続して行われていくことを前提に、今後の立川立飛歌舞伎への期待を少し書いて見たいと思います。
 今後、立川ステージガーデンという「芝居小屋」で古典歌舞伎を上演することにも一つの意味はあるかと思います。ただ、いつも通りの演出でということであるならば、それは例えば公共のホールにおける上演が行われているのですから、立川ステージガーデンでなくてもいいように思われます。
 せっかくこの小屋を使うのであれば、もっと斬新な芝居が私は見てみたいです。

 昨今の公共ホールでは音楽鑑賞に向くようにかと思われますが、そうした意味での音響効果が上がっているホールや劇場が多いかと思います。
 生の声の台詞で聞かせる歌舞伎にとってこの音響効果は決していいばかりではなく、私としてはむしろとても抵抗があります。コンサートホールにもなるであろう当ホールはさらにそれが顕著であることは確かです。
 ここで聞く「柝」の音や所作台を踏みならす音は私にとってはとても耳障りであることは否めません。
 ただ、この音響を生かす方向に発想の転換をしてもいいのではないかと、私には思われます。

 歌舞伎と交響楽との融合です。そこに勿論邦楽をミックスしていっくことはいいことだと思います。
 ジブリの『紅の豚』を立川立飛歌舞伎にしたいというようなコメントをSなくNSで見かけました。私などはたまたま観劇と同タイミングでSNSにおいて『宇宙戦艦ヤマト』の合唱を聴いて、この曲のイメージで歌舞伎が出来たら、歌舞伎初心者の方にも『ルパン三世』の時のような盛り上がりの期待できる作品が出来るのではないかと想像しました。

 曲のイメージというのは、観劇体験においてとても重要であると私は思います。ミュージカルが根強い人気を誇るのは情感に訴えそれが余韻として残る音楽の魅力が大きいからだと私には思えます。
 ドラマ性もさることながら、初心者には音楽的な記憶や情感に訴えていくことは、舞台芸術において見逃せない点かと思います。

 また、新作ばかりでなく古典歌舞伎と交響楽との融合にも可能性があると私は考えます。
 なぜそう考えるかというと、二つのラジオでの視聴体験が私にそうした道筋を示してくれたように思っています。

 その一つは、西洋のクラシック音楽の歌い手であり、その一方で民謡も手がける方(お名前は忘れてしまいました)が、民謡の唱法をミックスした形で、ワーグナーの歌劇『ニュルンベルグのマイスタージンガー』の一節を歌われるのをNHKラジオで聴いたことです。
 これが非常に面白く、また、この歌劇の初演時には現代のオペラ歌手の唱法より民謡歌手の持っている腰の強い唱法にむしろ近かったのではないかと思わせるほど、その音楽性にマッチしていて驚かされました。
 歌舞伎的な台詞にも西洋のクラシック音楽は思いの他マッチするのではないかと私には思えました。

 もう一つ西洋クラシックと歌舞伎とのコラボに大きな可能性を見いだせたのが、尾上右近丈がパーソナリティをつとめておられた時の「歌舞伎チューン」での試みです。『仮名手本忠臣蔵』六段目、勘平腹切のシーンをクラシック音楽に合わせて朗読することを試みられたことがありました。
 これが非常に面白かったのです。オペラハウスで、クラシック音楽とコラボして五、六段目を上演することも決して夢ではないのではないかと私には思われました。
 こうした試みをするのに、立川ステージガーデンは格好の舞台であると私には思われます。
 今後の立川立飛歌舞伎での意欲的な試みに期待したく思います。
                      2024.12.1  


 

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